あの日彼女は、憧れを超えた存在になった
強い子だと思われていた。
だから誰も助けてはくれなくて。
自分は本当は、とても弱い人間なのにーー
あれは、中学一年の、陸上の秋季大会が終わり、帰ろうとしていた時のことだった。
※
「ねぇ君、ひとり? どこ行くの?」
電車に乗るために来た駅の近くで、実咲は声を掛けられた。
大会後の疲労感に加え、気分が重くなる。
大抵父親に大会の会場まで送迎してもらっているが、今日は急遽父親の都合が悪くなったのだった。
俯き、早足で過ぎようとする実咲の周りを、三人の少年が付き纏う。
実咲の胸がざわついた。
「それとも誰かと待ち合わせ? 暇ならさー、一緒に遊ぼ」
少年達は多分高校生くらいだろう。
実咲はまだ中学一年生だが、背が高く大人っぽく見られるので、彼らは実咲が同じ年頃の子だと勘違いしているのかもしれなかった。
実咲は自分を奮い立たせた。
少年達をひたすら無視して歩くが、実咲は彼らを振り切るどころか立ち塞がるようにされてしまう。
気持ち的にもこれ以上一歩も進めない。
もう動けなくて、実咲は立ち止まってしまった。
少年達の内の一人が実咲の顔を覗き込みーー
「え…めっちゃ美人…」
息を呑んだように言った。
「何なに?」
他の少年も、顔を逸らす実咲のことをまじまじと見てくる。
「うっわ、ほんとだ…」
恐らく彼らは今までにナンパをした経験があり、実咲の姿を漠然と見ただけで軽い乗りで声をかけたのだろう。
少年達は実咲の綺麗すぎる顔を見て動揺したようだった。が、三人だからというのもあってか強気になったらしい。
部活のジャージ姿の実咲に対し、部活帰り? だの、どこ高? だの聞いてくる。
「…すみません…急いでるので……」
実咲は思い切ってそう言ったが、その声はあまりに小さくて少年達には届かなかったようだった。
逃げたい。
でもーー逃げられない。
「ーーあき!」
ただただ立ち尽くす実咲の耳に、突然大きな声が聞こえてきた。
少しして背後から手首を掴まれる。
……え……?
実咲は顔を上げた。
自分の手を掴んでいるのはーー
「何してるの? 行くよ」
ぐいっと手を引かれて、実咲はようやく動けるようになった。
だが予想外の展開に頭の中は混乱している。それは少年達も同じようで、呆気に取られている様子の彼らの横を実咲達は通り過ぎることが出来た。
「おいーー」
「お兄さん達」
少年が呼び止めようとしたのを遮って、その子は少年達の方を振り返る。
そしてーー
「女子中学生一人を相手に三人がかりって、どうかと思いますよ」
年相応の幼さの残る顔をしているその子は、悪戯っぽく笑った。
※
手を引っ張られたまま、実咲は駅舎に入った。
掴まれていた手が放される。
少年達は追っては来なかった。
自分をここまで連れて来た相手に対して実咲は軽く口を開けーー閉じた。少ししてもう一度同じことを繰り返す。
何か言わないと、と思うが喉が詰まったように言葉が出て来ないのだ。
実咲は俯いた。
「困ってるように見えたから出しゃばったけど、よかったかな?」
そう聞かれ、実咲はこくこくと頷く。
「……大丈夫?」
再びこくこくと頷いた。
「私はけっこう緊張したよ。高校生くらいの男子と話す機会なんて全然ないし」
それを聞いて実咲は顔を上げ、相手の顔を見た。
少し意外だった。だってこの子はあんなにも堂々としてたからーー
実咲は自分の気持ちを吐き出したくなった。
だが躊躇ってしまう。
だって、信じてもらえるか分からない。
今までがそうだったから。
自分だって本当はーー
不意に、実咲の右手が取られた。
「……大丈夫じゃ、ないよね?」
実咲の右手が相手の両手で包み込まれる。
自分の手が震えていることに、実咲はこの時初めて気付いた。
ひんやりと冷たいその子の手。だが優しさと温もりが不思議と伝わってくる。
「……かった……」
言葉が溢れた。
「こわかった……私…怖かったっ」
涙が溢れた。
ひっくひっくと泣きじゃくる。
まるで幼子のように。
発育が良く実年齢よりも上に見られる実咲は、背伸びして大人ぶってきた。
実咲が無理していることに誰も気付いてはくれなくて。
こんなに弱く子供っぽいところを見せたら、みんなはきっと引くに違いなかった。
ある女子の好きな男子が実咲を好きだ、というような理由で実咲は今まで何人もの同級生や上級生からやっかみを受けた。男好きという、真実じゃない噂まで立てられた。
そのため友達付き合いも得意ではなく、クラスでも部活でも一応友人はいるが浅い関係しか築けていない。
家庭環境にはとても恵まれていると思う。
両親は一人っ子の実咲を可愛がってくれている。だが、母親が無邪気でそそっかしい性格なため、実咲は家では自然としっかりしてしまっていた。
自分の手を包んでいるその子はただ黙って側にいてくれる。
その子の顔を見る余裕まではないけれど、優しく見守ってくれている気がする。
今まで言葉を交わしたこともないのにすごく安心してーー
実咲は空いている左手で何度か目元を擦る。
涙が、止まらなかった。
実咲がようやく落ち着いてきた頃、そっと手が放された。
実咲は俯き、両手で涙を拭う。
冷静になってくると段々恥ずかしくなってきた。
いくら何でも泣き過ぎた。
駅舎にいる他の人達からきっと注目されていただろう。自分の側にいるこの子も巻き込んでしまった。
それに今の自分は酷い顔をしていると思う。
「ーーはい、これあげる」
そう言われ、実咲は上目で見た。
差し出された手にはキャンディーがあった。
「キャンディー嫌い? あ、グレープ味じゃないのもあるよ」
その子は担いでいるリュックを片方の肩だけ下ろし、ファスナーを開けてごそごそと中を探る。
慌てた実咲は、
「キャンディー、好き。グレープ味も」
鼻の詰まった声でそう言った。
「よかった。私の大好物だからいつも何個か持っててーー」
その子がリュックから手を出す。さらに四つのキャンディーを手にして。
「どーぞ食べて」
実咲はすぐには受け取れないでいた。
少し考える素振りを見せてから、その子が一つ口に入れる。
そして残りを実咲の手に押し付けるようにして渡した。
戸惑う実咲の目に、幸せそうな表情を見せるその子の姿が映る。
実咲はおずおずとキャンディーを一つ口にした。
「ん、ちょっとは元気になったかな?」
その子は実咲の顔を見て言った。
知らず知らず自分の顔が綻んでいたらしい。気分もすうっと楽になっていた。
ふと、実咲は気付いた。
「あ、ありがと」
「ん?」
こんなに良くしてくれたのに、全然お礼を言ってなかったなんて。
「キャンディーをくれたことも…助けてくれたことも」
「どういたしまして、新田さん」
「え? 私の名前知って…?」
「知ってるよ。さっきは適当な偽名で呼んじゃったけど」
言うと彼女は真っ直ぐ実咲を見た。
「新田実咲さん。私も陸上やってるから、大会で新田さんの活躍見てて。すごいなぁ、格好いいなぁって思ってた」
くすぐったい思いがする。
「私もっ」
実咲は思いを叫ぶように言った。
「私もあなたのこと知ってる」
「ほんと? そっかぁ」
その子は少し嬉しそうにどこか恥ずかしそうに笑った。
「私も大会であなたのこと見てた。ーー白石、蒼さん」
自分も彼女をすごいなと思っていた。自分も彼女を格好いいなと思っていた。
彼女はずっと憧れの存在でーー
そして実咲は男達から助けてくれた彼女の姿を思い出す。
彼女は自分が思った以上の人物だった。
実咲は確信した。
あなたは、私のヒーローだ