あの日から、キャンディーは私の大好物になった
四限目の途中から教室に戻った蒼は目立っていた。制服姿のクラスメート達の中でただ一人ジャージ姿のため、明らかに浮いている。
女子達の中には事情を知っている者もいるのか、何人かがうっすらと笑みを浮かべていた。
「あおちゃん、どうしたの? 何かあった…?」
四限目が終わるとすぐ、心配そうな顔をした日向が蒼の席まで来た。
「蒼っ、どうしたの?」
日向の後に来た実咲もまた心配そうに聞いてくる。
「あーちょっとトイレで…」
ここで、聞き耳を立てていた数人の女子がぎくりとするのが分かった。
「手を洗おうとしたら、蛇口から水が爆発するみたいに出てきて…まともに食らった」
蒼はさっき養護教諭にしたのと同じ説明をした。
養護教諭は水道管の故障かもしれないからトイレに見に行くと言っていたが、嘘なのだから水道管に異常などないし、個室トイレの一つがひどく濡れているのに気付くだろう。おかしいと思うに違いない。
まぁ、養護教諭は薄々事情に気付いているようだったが。
蒼の説明に、さっき焦っている様子を見せた女子達は胸を撫で下ろしたようだった。
バレて困るくらいならしないでよね…
「要はツイてなかっただけ」
蒼は苦笑してそう言ったが、日向も実咲も無言でどこか納得のいかない顔をしている。
やはり今の説明には無理があった。蒼は内心反省する。
「とにかく大丈夫だから。二人とも心配してくれてありがと。でも、ま、今度からは色々と気を付けなきゃね」
事情を知っているらしい女子達を蒼は意味深な目付きで見た。彼女達はあからさまに視線を逸らす。
と、蒼は連続で三回小さなくしゃみが出た。
蒼の額に日向の温かい手が当てられる。
「よかった…熱はないみたい」
そのままその手がそうっと動き、蒼の頬に触れた。
「でも、しんどくなったらちゃんと言って」
壊れ物を扱うかのような日向の手付きが、向けられる優しい微笑みがーー蒼を苦しくさせる。
だから、この時実咲が日向を軽く睨んで見ているのを、蒼は気付けなかった。
水無瀬から日向の話を聞いてから、蒼はある思いを強くしていた。
「……ひな…」
絞り出すように声を出す。
「ん?」
「私ーー」
不意に、蒼は冷静になった。
今ここでする話ではない。
教室内にはクラスメート達がいる。それなりに注目も浴びている。
自分がしたいのはとても大事な話だからーー
「…ううん、何でもない」
「何でもないようには見えないけど?」
日向が蒼の顔を覗き込むように見る。いつものように意地を張ることは出来なかった。突き放すことは出来なかった。
「うん…後でちゃんと話す」
「分かった」
※
学校帰り、実咲と別れてからは日向と二人きりだ。最近はこれが日常となっている。
「っ……」
喉がツキンと痛み、通りを歩きながら蒼は通学カバンからキャンディーを取り出した。
一つ自分の口に含み、
「舐める?」
もう一つを日向に差し出す。
「あ……」
それを見て日向が目を細めた。
「ありがとう」
彼は微笑んで蒼の手にあるキャンディーを受け取る。しばらくそれを大事そうに見つめた後、ようやく包みを開けて口に入れた。
「…思い出すな、あおちゃんと初めて出会った日のこと」
「あの時キャンディーをくれたのは、ひなの方だったけど」
蜂蜜味が蒼の喉を覆う。
甘くて可愛くて、出会った時のひなはキャンディーみたいだった。
今の日向には、そして昔から今までずっと自分には、それは甘すぎて可愛すぎる。
「おいしい」
そう言って日向は味わうように食べているが、蒼は
美味しさを感じるよりも喉の痛みを誤魔化すことしか出来なかった。
「おいしいね、あおちゃん」
「……そう?」
日向に対して素っ気ない返事をしてしまう。ほんと、こんな自分がつくづくーー
「私のこと…嫌にならない?」
「え…?」
だって、自分の全てが可愛くないから
そう言いたかったが、日向はきっと否定する。きっと、「あおちゃんは可愛いよ」と言ってくれる。
それが分かっているから蒼は言えなかった。
そしてもう一つの理由を、重大な理由を、蒼は口にする。
「昔から何も見えてなかったから。ひなのことを女の子だと思ってたし、ひなは私と違って…家族から愛されてると思ってた」
日向がはっとしたような顔をした後、軽く舌打ちをする。
「水無瀬か…余計なことを」
蒼は立ち止まった。
日向を見るのが辛くなる。頭がぼうっとしてきたからだけじゃない。
「僕は大したことない。きっとあおちゃんの受けてきた傷に比べたらーー」
「そんなこと比べないで」
俯いて精一杯叫ぶように蒼は言った。
「…そうだね。でも僕にはあおちゃんがいたから、十分だった」
蒼は熱い呼吸を一つ吐く。
日向は知らないからそんな風に言える。自分の醜くて打算的な考えをーー
「私はひなを利用してただけ」
蒼ははっきりと言い切った。顔はまだ上げられないままで。
「私より弱いと思ったひなを守って優越感に浸ってた。ヒーローなんて言われて自己満足してた。ひなに…誰かに自分は必要とされていることで、安心したかった」
友達もおらず親からは邪険に扱われ、そのことにいくら慣れていたと言っても全く平気だったわけじゃない。
だから。
助けを求めて縋ってくる『ひな』に、自分の方が縋っていた。
「滑稽だね。そんな私がヒーローだなんて。私はひなが思ってるような人間じゃない。弱くてズルくてーー」
『ひな』のことを何も知らないくせに、自分は辛くて汚い世界で生きているからと、上から目線で格好つけていた。
ああ、本当に自分は、
「最低だ」
吐き捨てるように言って、蒼は下唇を噛んだ。
何だか気分が悪くなってくる。吐き気がするほどに。
蒼と日向の間に沈黙が流れる。
「……覚えてる? 僕があおちゃんのことを、ヒーローって言った日のこと」
少しして、日向が静かに口を開いた。
「あの日、怪しい男に話しかけられた僕をあおちゃんが助けてくれた。いつも通り、強くかっこよく」
日向の目がきらきらと光る。そこにあるのは尊敬や憧れだろう。
蒼は少し苛ついた。
だから、自分は強くもかっこよくもない。さっきからそう言っているのに、日向はまるで分かってない。
「でも……」
蒼のピリついた雰囲気に気付いているのかいないのか、日向が目を伏せた。
「あの時あおちゃんは、震えてたんだ。僕を男から庇って立つあおちゃんは震えてた。男がいなくなって僕を抱きしめた時も」
蒼ははっとした。確かに覚えている、あの時の恐怖を、
あの時の必死さをーー
「その時僕はあおちゃんに、弱さとそれ以上の強さを見たんだ。あおちゃんはヒーローだって確信した。あおちゃんにとって優越感でもいい、自己満足でもいい。それでも僕は確かに救われていたんだ」
日向が真剣な眼差しで見つめてきた。
目がジンと熱い。鼻がツンと痛い。手足に力が入らない。
「好きだよ、あおちゃん。あいしーー」
日向の声が聞こえにくくなってきた。日向の姿もぼんやりとしてーー
「……しんどかったらちゃんと言って、って言ったのに」
温かくて懐かしい匂いに包まれながら、そんな声が聞こえた気がした。
……落ち着く……
「俺の中であおの存在は何があっても変わらない。だから…弱みを見せても弱音を吐いても大丈夫」
だるい身体はやがてふわふわとする。
蒼は夢心地でいた。