あいつを変えたものを垣間見た
人の気配がして、水無瀬は目が覚めた。
保健室のベッドの上で上半身を起こす。
よく寝た……
欠伸をしつつ、側に置いておいたスマホを見ると四限目の時間だ。
昨夜は女子大生と過ごし、水無瀬はまともに眠っていなかった。おまけに飲酒したので頭も痛かった。
一限目もそこそこにここに来たので、学校での午前中は寝て終わったようなものだ。
ベッドカーテンの向こうからは足音や物音がする。何度かくしゃみも聞こえる。
少し気になった水無瀬はベッドカーテンをわずかに開け、向こうを見た。
「え? 蒼?」
衣類チェストの前で立っている人物を見て、水無瀬はカーテンを思い切り開けて言った。
意外だったのと、蒼がびしょ濡れの姿だったため疑問形になってしまった。
「あ……蓮」
こちらを向いた蒼の髪はペシャンコで顔に張り付いている。
「今日めっちゃいい天気なんだけど、何? 蒼のとこだけ雨降ったの?」
水無瀬は冗談めかして笑った。
「ん…校舎の中にいてもゲリラ豪雨に遭うことがあるみたい。私も初めて知った」
蒼が疲れたように言った。
蒼は誰かーー彼女をよく思わない人達に水をかけられたのだろう。水無瀬はそう思ったが追及しなかった。
聞くだけ野暮ってやつだよな…
そしてふと、水無瀬は保健室の中を見回した。
「あれ? そういやセンセは?」
水無瀬が寝る前にはいた女の養護教諭がいない。
「急用が出来たってどこかに行ったけど。なるべくすぐ戻ってくるって」
「ふーん。で? 蒼は何してるの?」
蒼はチェストの引き出しを開けている。
「何って、タオルと着替えを取ってるの。今日体育がないから持ってきてなくて」
蒼は引き出しの中からタオルを取り出すと、がしがしと乱暴に顔や髪を拭く。
濡れた制服のシャツから下着が透けーーどうやら蒼はインナーにタンクトップを着ているらしかった。
蒼の色気のなさに、彼女らしいと思い水無瀬は苦笑する。
「まあいいじゃん。水も滴るいい女ってことで」
「…思ってもないくせに」
着替えを持った蒼が、水無瀬のいるベッドの隣ーーもう一つのベッドに行きカーテンを閉めた。
中でモゾモゾと動き出す。
水無瀬は蒼のいるベッドの方に向かって声をかけた。
「聞いたよ。女の子の胸ぐらを掴んだんだって? 見たかったー」
「……………」
「何でまたそんなことを? …俺に手を出すことは一度もなかったのに」
昔、水無瀬が日向をいじめていた頃、日向を守る蒼が鬱陶しくて二、三回ほど蒼に掴みかかったことがある。
その内の一回はヒートアップしてしまって蒼を地面の上に突き倒し、蒼の身体に馬乗りになって殴ろうとした。
この時はまだ蒼のことを女の子だと知らなかったため、暴力を振るうことに躊躇いはなかった。
水無瀬は拳を振り上げーーだが、それを蒼に目掛けて振り下ろすことは出来なかった。
蒼があまりにも無抵抗だったのもある。
それ以上に、怯えの色もなく、いつもの余裕そうな笑みもなく、ただ死んだような目をしている蒼に水無瀬は怯んでしまったのだ。
「別に…大した理由はないよ。あと蓮に手を出さなかったのは、その必要がなかっただけ。私は本気で蓮にムカついたことはなかったから」
「は? お前ほんとに俺のことナメてーー」
シャッ
つい、手が動いていた。
気付いた時には、自分が開けてしまったカーテンの向こう、蒼は着替えの途中だ。
「あ、わり…」
自分がいくら蒼に女を感じてないとはいえ、そこまでデリカシーがないわけじゃない。
水無瀬はカーテンを閉めようとしてーー止まった。
「……いつまで見てるの?」
「………………」
「っ、閉めるよ」
「その背中……」
いつまで経ってもカーテンを閉めない水無瀬に代わって、カーテンに手を伸ばした蒼の動きが止まる。
「かっこいいな」
水無瀬が言うと、蒼が驚いたような顔をした。
「意外……」
「何が?」
「汚いとか醜いとか言われると思った」
水無瀬は再び蒼の背中に目をやった。そこには無数の傷跡がある。
確かに綺麗な背中とは言い難い。だがそれよりもーー
「俺そんなに性格悪くないよ。いや、悪いけどさ。それを見ても蒼のことを可哀想だなんて思わないし。でもそれはーー蒼が生き抜いてきた証だろ」
蒼が瞠目する。それから思い出したように上のジャージを手早く着た後、呟いた。
「……蓮はそんなふうに思うんだ」
「あいつは……」
蒼の背中を見た時、水無瀬は悟った。日向はこれを知っているーー
「有峰は…同情より憎悪してるだろうな。蒼を傷付けた相手に、そして自分自身に」
水無瀬は確信に近い自信があった。自分は日向とは付き合いが長く、何だかんだ側にいた。だから何となく分かるつもりだ。
「……どうしてひなが自分を責めるのか分からない。私は何も言わなかったから、気にしなくていいのに」
蒼の言葉を聞いて、水無瀬はおもむろに口を開いた。
「あいつが昔、家族から適当に扱われてたの知ってる?」
蒼は一瞬固まったようだった。少しして、彼女は首を左右に振った。
「知らない。そんなこと、聞いたことない」
「じゃああいつも何も言わなかったわけだ。お互い相手の境遇は知らなかった。なのにあいつだけが守られて、きっと救われた」
「ねぇ……ほんと?」
「あいつが蒼のことヒーローだって言ってるんだからーー」
「ひなが家族から適当に扱われてたって…本当?」
彼女は思ってもみなかったのだろう。それも仕方ない。
六年前ーー蒼と日向が出会った頃、蒼の着古した粗末な身なりとは正反対の小綺麗で洒落た格好を日向はしていた。
衣服さえも満足に与えられなかった様子の蒼にとってみればそれだけでも、日向が恵まれた環境にいると思う。
実際日向は裕福な環境にいた。高価で良質なものを与えられてきた。だがーー愛情だけは違った。
日向が蒼に家のことを何も話していなかったのならば、蒼がーー特にまだ子供だった彼女がそこまで気付くことは、出来なかっただろう。
「有峰には優秀な兄貴が二人いたからな。あいつはいてもいなくてもーって感じだった。ま、お坊ちゃんはお坊ちゃんなりに苦労があるんだぜ」
「私…何も気付かなかった。ひなは裕福な家庭で家族から愛されて、何不自由なく育ってきたんだと…」
動揺しているらしく蒼の瞳が揺れる。やがて彼女ははっとしたように、水無瀬を見据えた。
「蓮は…? 蓮もーー」
「俺はヒーローなんていらないから。綺麗なおねーさんがいればいい」
突き放す口調で水無瀬は言った。
「誰かに守ってもらおう救ってもらおうなんて思わない。人任せなんて俺は嫌だね。自分のことは自分で何とかする」
「そう……」
蒼の表情が少し曇っているように見え、水無瀬は視線を逸らす。そうして視線を動かした先に、蒼の濡れた制服があった。
「そんなことより、何で有峰に助けを求めないの?蒼も俺と同じ考えの持ち主? そうじゃないなら助けてもらえればいいのに。蒼のためならあいつ何だってするから、問題はすぐに解決だ」
蒼が他の女子達からやっかみを受けていることくらい分かる。
この制服を見ても悪質だが、蒼が本気でムカつくほどの嫌がらせをされているんだろう。
それは日向のいない所で行われているのだろうが、日向が全く気付いていないとは思えない。
「…そうだね、私も蓮と同じだよ。自分のことは自分で何とかしなくちゃ……。ひなに、助けてもらいたくない。…助けてもらうわけには、いかない」
「助けてもらうわけには…?」
蒼の言葉に違和感を覚え、水無瀬は呟いた。
蒼にそれが聞こえたのか聞こえなかったのかは分からないが、彼女は側のベッドに上がった。
「ひなには黙ってて。頼むから余計なこと言わないでよ」
「えーどうしよっかなー」
水無瀬がふざけて答えると、蒼がため息をついた。
「…言ってもいいけど、その時は私もひなに言うから」
「? 何を?」
蒼が水無瀬に背を向けて布団を深く被る。
「私と蓮、同じ部屋で二人っきりで寝た、って」
「……は?」
水無瀬の口から間の抜けた声が出た。すぐにその言葉の意味を理解し、身を乗り出すようにする。
そんなことを日向が聞いたら、何をされるか分かったもんじゃない。
「おい、ふざけるな。着替えたんなら出てけよ」
「無理。だって先生に、ここで待ってて、って言われてるから」
わざわざ寝て待つこともないだろうに、と思ったが、どう待とうが蒼の勝手でもある。
この状況から脱するには自分が起きて出て行けばいいが、ここに先に来て寝ていたのは自分だ。そうしてやる義理もない。
日向に蒼が受けているいじめについて話すつもりはなかったが、蒼は確実に口を封じてきた。
蒼の言葉は間違っていない。だが深い意味もない。日向に誤解されるのは目に見えて分かることで、あいつはキレるだろう。弁明をさせてくれるかどうか…
「強気だな、蒼」
「私はひなのことでは自惚れていい。そう言ったのは蓮だよ」
水無瀬の方に向き直った蒼は布団から目だけを出した状態だ。その悪戯な目にはいつもの余裕がある。
「言ったなぁそんなこと。分かった、あいつには何も言わない」
「どうも」
蒼が再び向こうを向いた。
自分や蒼が何も言わなくてもジャージ姿の蒼を見て日向は勘付くだろう。
そう水無瀬は思いつつ、目を閉じた。




