きっとお互いに間違い合っている
日向が蒼に連れられて来たのは、小さな公園だった。
昔、二人が出会った公園の半分もない大きさの。
あるのは汚れた木製ベンチと年季の入った錆びたブランコだけ。
あちこち雑草が生えており、一応花壇はあるもののそこには花が咲いていない。
空き地に毛が生えた程度の公園だ。
「ごめんね、こんなところに連れて来て。あなたにはそぐわないね」
辺りを見回す日向に蒼が言った。
「でも私には…大切な場所なの」
「あおちゃんは…ここにはよく来るの?」
蒼が軽く首を左右に振った。
「たまにね。ここ、全くと言っていいほど人が寄りつかないから、いると変に目立つし」
言うと蒼はブランコの方へと歩いて行った。日向も後をついて行く。
キィッ
蒼がブランコに腰掛けると、錆びた金属の擦れ合う音がした。
何かを探すように蒼が辺りに視線をやる。どこか頼りなげな目で。
蒼が身じろぎするたびに、ブランコがきぃきぃと鳴いた。
少しして、通りから子供の笑い声が聞こえてきた時、蒼はそちらに視線を移した。
小学中学年くらいの二人の子供が歩道を歩いている。仲の良さそうな男の子と女の子。
楽しそうなその二人の様子に、蒼が微笑ましそうに目を細めた。
瞬間、日向は悟った。
自分たちが一緒に過ごした思い出は、蒼にとっても大切なものだったとーーー
きっと蒼はこの公園で独り、過ぎ去りし日の自分達の姿を探していたんだろう。
『公園』という呼名以外は明確に共通するものがない、寂しいこの場所で。
子供たちが遠ざかっていき、やがて姿が見えなくなると、蒼は再び遠くを見るような目をした。
「あおちゃんーー僕は、ここにいる」
ブランコの鎖を持つ蒼の手を、日向は握った。
蒼に自分の姿が見えていないようで怖かった。彼女の目の前に自分はいるというのにーー
ようやく日向の存在を認識したような顔をした後、蒼が悲しそうに笑った。
「あの人ーー母がごめん。なかなか最低な母親でしょ。…見られたくなかったな…」
「あおちゃんの母親は美智江さんだよ。美智江さんもそうありたいと望んでる。そんなことくらい、あおちゃんも分かってるよね?」
だからこそ、さっき蒼が恭子のことを自分の母親だと美智江に言ったことが意外だった。しかも少しもためらう口振りでなく。
「ごめん。あおちゃんには黙ってたけど、僕は美智江さんと俊昭さんに会ったことがあるんだ。だから彼らの人となりは自分なりに理解しているつもりーー」
「美智江さんが私なんかの母親だなんて言えない」
「どうして?」
「見たでしょ、さっきのあの人。私、あの人の血が流れてる。美智江さんみたいないい人が、私の母親でいていいわけないの」
蒼が顔を俯ける。
「私はあの人に顔だって似てきた。もしかしたら私も、いつかあの人のようにーー」
「あおちゃんは、あおちゃんだよ。他の誰でもない」
日向は言い切った。ましてや恭子になど似ても似つかない。
「それにあおちゃんは自分自身のことを悪い子のように言うけど、僕はあおちゃんほどいい子を知らないから」
蒼がゆっくりと顔を上げた。
「髪を伸ばし始めたのも言葉遣いをすぐに直したのも、美智江さん達のためでしょ? 自分の中に嫌悪する人の面影を見てしまう恐怖があるのに、あおちゃんは女の子らしくして美智江さん達を安心させる方を選んだ」
「違う…そんな大層な理由じゃない。あの人のもとを離れて、男のように振る舞う必要がなくなったからってだけで…。昔の私を知ってるあなたから見れば変なのかもしれないけど。でもあなたも、昔とはまるで…」
「変わった? そうだね。僕は、変わりたかった」
蒼に守られてばかりだった自分に後悔し、今度は自分が蒼を守ろうと決めた。
自分は変わらなければならなかった。
昔の自分が蒼のことをヒーローだと思ったように、蒼も自分をヒーローだと少しは思ってくれただろうか。
日向が蒼を見つめていると、彼女は力なく笑った。
「何年かかるか分からないけど、ちゃんと返すから」
「…何のこと?」
「お金、ちゃんと私が返すから…もうおじさんとおばさんのところには行かないで」
蒼の手に力が入る。蒼は誤解をしているのかもしれなかった。
「あれは返さなくていいよ。あおちゃんの家族にも何も要求しない。だからあおちゃんが気にする必要はなーー」
「何言ってるの…?」
信じられないといった顔を蒼がした。
「あんな大金あげるって言われて、はいそうですかありがとうってなると思う? ならないよ私は。ねぇどうしてそんなことーー」
怒ったように早口で言った蒼がここで口を噤んだ。日向の目をじっと見つめ、やがて逸らしてため息をつく。
「…そっか、やっぱり……あなたと私は住む世界が違うんだね」
初めて、蒼に腹が立った。
彼女を守るための自分の行動があまりよくなかったことは分かる。
だから蒼が呆れ、怒っているのだということも。
それでも、蒼と自分の住む世界が違うなんて、彼女の口からは聞きたくなかった。
「ーーじゃあ僕のものになる?」
単調な口調で日向は言った。
「そう、僕のものになればいい」
一瞬の間を置いてから、蒼が乾いた笑い声を立てた。
「私を買ったってこと? 凄いね、あなたから見て私は一千万円の価値があるんだ。あの人がいらないって捨てた、この私に」
「違う! 僕にとってあおちゃんが一千万であるはずがーー」
自分にとって蒼はお金では買えない。もちろん『もの』でもない。どんな大金も彼女の存在の前では無意味だ。
自分のものになれなんて、冗談でも言ってはいけなかった。
日向はそう言いたかったが、蒼はその隙を与えてはくれなかった。
「そうだよね、そんな価値私なんかにあるわけない。でも、うん、分かったよ。私があなたに出来ることはする。あなたの言うことは何でも聞くし、あなたも私のことを好きにすればいい」
投げやりな蒼の言葉に、勝手に身体が動いていた。
キィッ
ーー日向は蒼に、キスをしていた。
やがて、ゆっくりと蒼から顔を離す。
蒼は無表情だった。
「……ごめん」
日向は自分の唇に軽く触れた。
何だろう、まるで人形を相手にしたような空しさを覚える。
ずっとずっと待ち望んでいたことをしたのにーー
「今のは…なかったことにして」
衝動的なキスだった。しかも、愛おしいという想いではなく支配欲からきたものだった。
幸せな気持ちになるはずだったのに、空しくて切なくて悲しくて後悔しかない。
こんなのが蒼との初めてのキスだなんて、認めたくなかった。
「何怖気付いてるの? あなたの好きにしていいのに。あなたにとって女子を相手にするなんて慣れたものなんでしょ」
薄く笑って蒼が言った。
「ああ、そっか。今までは綺麗な人や可愛い人ばかりだったのか。私じゃご不満ですか? 有峰 日向様」
ブランコが、けたたましい音を立てた。
「俺を煽るな、あお。それは賢くない」
日向は右手で蒼の肩を強く掴んでいた。
「今のあおは力じゃ俺に勝てないって分かってるだろ?」
蒼がしたのは誘惑じゃない、安っぽい挑発だ。相手が蒼だからとはいえ、そんなものに乗るつもりはなかった。
ただ、蒼に分からせる必要があった。目の前にいるのが彼女よりも力のある男だということを。そんな男の辛うじて保っている理性が壊れたらどうなるか
ーー
蒼は多分、本当は分かっているんだろう。その証拠に彼女の態度はずっとよそよそしい。
私では不満か、と男慣れしていないはずなのに恥じらいも怯えも見せず捨て鉢に蒼は言った。
納得のいかない借りを作るくらいなら、自分自身はどうなってもいいと言わんばかりに。
恐らく蒼は、諦観している。
それは彼女には慣れっこで、悲しいくらい上手だ。
「………痛い」
蒼に睨まれ、日向は手を放す。それから深く息を吐き、自分を落ち着かせた。
「お金の件は分かった。いつか返してくれればいいから。でもあおちゃんは、もっと人を頼るべきだ」
沈黙が落ちる。しばらくして、蒼が伏し目がちで口を開いた。
「…私は、あの人とは違う。男の人に頼りたくない。まして、あなたには頼りたくない…!」
日向は頭を殴られた気分になった。何となくそんな感じはしていたが、実際言われると精神的にくる。歪んだ表情を見られたくないのもあって、日向は蒼から離れた。
「…帰ろう。美智江さんが心配してる」
あちらを振り返ろうとして、日向は思い止まった。
「あと…前に言ったけど、僕のことは『ひな』って呼んで。あおちゃんにそう呼ばれるのは特別だし、気に入ってるんだ」
蒼が無言で、強い目で日向を見る。
「それで利子はチャラだよ、あおちゃん」
「……分かった……ひな」




