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ヒーローには日向が似合う  作者: とこね紡
15/33

私の知らないあなた

日向が転校してきて二週間が過ぎた頃、蒼は周囲からの視線を強く感じるようになっていた。


ああ…この視線は、よく知ってる。

忘れかけていたのに…忘れたいのに…


日向は相変わらず蒼に構ってきていた。

蒼はそんなに相手にしてるわけでもない、むしろ邪険にしているくらいなのに、だ。

日向は今日は用事があるらしく、早退していったけれど。


「はぁ……」


視線から解放され、家へと帰る蒼はため息をついた。

日向をもっと突き放すべきだろうか。日向の成長や彼への負い目から考えてもそうしなければいけないと思う。

さらには日向の素性を知った今ではなおさらだった。


いいとこの子だとは思ってたけど…


昔の日向の姿が脳裏に浮かぶ。

身なりがよく清潔で、穢れを知らないひなた。あおいとは正反対だった。

ひなたの通っている小学校から裕福な子供だということは分かっていた。

でもまさか、

まさか有峰の家のものだとはーー

有峰は日本の様々な企業を経営している一族だ。

銀行、電気などのインフラ、重工業に小売など、経済における主要な分野全てに携わっている。日本経済を牽引している重要な存在でーー


やっぱり…私はひなにこれ以上関わっちゃいけない…


そんな思いが強くなる。

自分はろくでもない人間の血を引いているから。

住む世界が、生きてきた世界が違うから。

流れている血も過去も変えられないのに。


それらのことを優しい日向はきっと気にしないだろう。

だからこそ。

自分が毅然として突き放さなければいけないのだ。


学校での日向の姿を思い出す。

みんなから好意の目を向けられている日向。

それに比べて自分はどうだ。

みんなが自分に向けているのは、悪意に満ちた目だ。

日向はみんなが必要とする存在で、自分はーー


『あんたなんかいらない』


かつて『母』と呼んでいた女の声が甦る。


そう、自分はーー誰からも必要とされていない。


今の蒼は自覚していないが心がすり減っていた。そのため、日向をはじめ養父母や実咲が向けてくれる感情に思い至らなかった。


蒼には、届かない。

愛情は。

どんなに愛されていても、蒼には優しさとしか受け取れないーー


「ーーるんでしょ!?」


蒼ははっとした。気付くと家の前で、玄関の方が何だか騒々しい。


「あの子はここにいるんでしょ!?」


聞こえてきた女性の金切り声に、蒼の血の気が引いた。


幻聴……? あの人のことを思い出していたから、あの人の声が聞こえてーー


「帰って下さい! これ以上騒ぐなら警察を呼びますよ!」

初めて聞く、美智江の怒鳴り声。

「何よ! ふざけないで! あの子がここにいることは分かってるんだから! とっとと返しなさいよ!!」

続けて聞こえてきた声は、蒼の記憶にこびりついている声だった。


「出て来なさいーー蒼!!」


蒼の足が、竦んだ。


「とにかく帰って下さい! 今はもう、あなたとあの子は何の関係もないはずでしょう!?」

「ちょっと触らないで!」


玄関から言い争う人物が出てくる。一人は美智江、もう一人はーー


「……あおい? 蒼でしょ!?」


蒼に気付き、美智江と一緒にいる女が叫ぶ。


「蒼ーーそんなとこにいたの!!」


その女はーー蒼がかつて『母』と呼んでいた恭子だった。


な、んで…この人がここに……


「蒼! 見つけた。来なさい! 私と一緒に来るの!!」

「蒼ちゃん! その人の言うことは聞いちゃダメ!!」


近付いてくる恭子と美智江が同時に声を上げる。

蒼はフリーズしてしまっていた。目の前で起こっている出来事が理解できない。

「蒼! あんたのこと散々面倒見てあげたんだから、働いて少しは私に恩返ししなさいよ」

「あなたって人は…どの口が言うの!」

恭子と美智江の声の中、蒼はただ茫然と立っていた。

不意に。

ひゅっと呼吸が苦しくなった。


いけない、このままじゃ……


美智江に心配をかけてしまう。あの女にみっともない姿を見せてしまう。

何とかしなければ。

何とか、しなきゃ。

自分で何とか……

自分で…じぶんで……だ、れか……


「ーーあお!」


大きな声でそう呼ぶ声がした。

それは負の思考の沼に飲み込まれていく自分を、強く引っ張り上げた。


「っ…あ……」


それでもまだうまく呼吸が出来ない。

手が痺れて硬直する。

すると、突然。

蒼は頭をぐいっと抱き寄せられた。


「あおは見なくていい、聞かなくていい。ゆっくり息をして。…大丈夫だから」


蒼を宥める低く落ち着いた声。

強く胸に抱き竦められ、蒼は段々と平静を取り戻してきた。

自分が顔を埋めているその胸は引き締まっていて逞ましい。


呼吸が楽になる。

手が動かせるようになる。

同時に。

蒼は、情けなくなった。


今の自分はこんなにも弱かったのか。

子供の頃の自分の方が強かった。

優しい人達に甘えて、ぬるま湯に浸かりすぎていた。

このままじゃ、いけない。


「……ありがと、ひな。もう放して。大丈夫だから…」


蒼は日向から身体を放そうと手を動かした。


「あおーー」


少しも力を抜いてくれない日向を、顔を上げてきゅっと見る。

「……………」

日向の力が弱まった。

ゆっくりと日向から身体を放した後、蒼は恭子の方へ向かう。


「……分かったよ。私があなたの面倒を見ればいいんでしょ」


恭子の姿をさっきよりも冷静に見ることが出来た。

髪型や服装の雰囲気は昔と変わらない。だが、少し疲れた顔は蒼の記憶の恭子よりも明らかに年を取っていた。


この人は今更自分を必要とするのか。

いらない、と昔は平気で捨てたくせに。

今更、今更……

しかも今必要とされているのは、自分がお金を稼げるような年齢になったから。

決して恋しくなったからなどではない。

分かってる。そんなことくらい。でも…この人の望むようにしよう。


「そうするから、あなたの言うようにするから、もうおばさんたちに迷惑かけないで」

「蒼ちゃんっ!!」


いつも穏やかな美智江が声を荒らげている。

彼女が怒ったところを、蒼は見たことがなかった。

もちろん彼女の夫である俊昭と夫婦喧嘩をしたところもだ。

愚かしい自分達のせいで美智江を激昂させてしまったことが悲しかった。


「あお」


不意に後ろから、蒼は腕を掴まれた。

構わず歩き続けようとしたが、自分の腕を掴む手を振り解けない。


「今は、俺の言うことを聞いて」


いつもと違う日向の口調に蒼は戸惑った。


何で、「俺」って言ってるんだろう…?

なんで、私のこと…「あお」って呼んでるんだろう…?


「………ひな…?」

蒼は振り返った。

「これ以上ーーあの女の相手はするな」


そう命令するように言った日向が、蒼にはいつもより大人びて見えた。見慣れない彼の私服姿ーーグレーのシャツに黒のパンツという、シンプルだが洗練された着こなしのせいもあるかもしれないが。


「借金があって、大変なんですってね」


日向が蒼ではなく、恭子に話すようにして口を開いた。


「何でも、付き合っていた男性の連帯保証人になって、結局その人には逃げられたとか」

「なっ、何なのあんた!」


小馬鹿にしたような日向の態度に腹が立ったのか、それとも日向の言ったことが図星だったのか、恭子が顔を赤めて叫ぶ。


「俺がそのお金を肩代わりします。手切れ金として。それであおーー蒼はあなたから自由になれますよね?」

「ひな、何言って……」


それ以上蒼は言葉が出て来なかった。


私の前にいるこの人は……

この…男の人は……だれ…?


「高崎」

「ーーはい」


日向の呼ぶ声に返事があった。

家の前の道に一台の黒い車がとまっており、その側に立っていた男が歩いてくる。

ダークグレーのスーツ姿のその男は恭子の方へ向かうと、手にしているビジネスバッグを彼女に差し出した。

「な、何よ」

「どうぞ受け取って下さい」

男ーー高崎がそう言うと、恭子は怪訝そうな顔をしつつもバッグを受け取った。


「中には丁度一千万入ってます。それがあれば借金を返せるでしょう?」

「えっ?」


日向の言葉に、恭子が急いだ手付きでバッグを開ける。そして中に入っている札束を一つ取り出した。

まだ状況が飲み込めないのだろう、恭子の顔がぽかんとする。

「確認して下さい。それとーー」

言って、日向が高崎に目配せをする。高崎はビジネスバッグとは別に持っていたクラッチバッグから一枚の紙を取り出した。


「誓約書にサインして下さい。もう二度と蒼に近付かないという、ね。それがそのお金をあなたに差し上げる条件です」


恭子は高崎が差し出す誓約書を一瞥した後、日向を見た。

「あなた…何者?」

恭子はしばらく日向の顔を見ていたが、やがて視線を下から上へやり、日向の全身を嘗めるように見た。

恭子は大分冷静になってきたのだろう、日向を品定めする余裕が出てきたようだ。

最初は胡散臭そうな目だったのが、次第にギラギラとしたものになっていく。


恥ずかしい……


蒼は居た堪れなくなった。

非常識なところも男好きなところも全然変わっていない。

この人と同じ血が流れているなんてーー


「この方は、有峰財閥の有峰 日向様です。ちなみに私は日向様に仕える高崎と申します」


高崎がスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、恭子に一枚の名刺を手渡す。

恭子は名刺に視線を落とすと、


「ありみね、ざいばつ……はっ」


ははは、と乾いた笑いを上げた。やがて笑い止むと艶かしい目付きになった。


「ねぇ、有峰さん。あなた蒼とどういった関係?」

「やめて!」


蒼は思わず叫んでいた。

恭子は男なら誰でもいいというわけではない。顔や体型といった外見が好みか、金や地位といった経済力があるか、といった条件がある。

日向はその二つをクリアしてしまっている。

相手が実の娘ほどの年齢ということなど、恭子は気にもしないだろう。

恭子が誰と付き合おうが昔の蒼は興味なかった。暴力を振るわない相手ならいいな、とは思ったが。

今は違う。自分や恭子の心配などもちろんしていない。日向を、巻き込みたくなかった。

「何よ、蒼」

「やめて…やめてよ。この人は…有峰、くんはただの同級生で…私とは別に、何の関係もなくて…」

「ふーん」

恭子が疑うような眼差しで見てくる。蒼は居心地が悪くて俯いた。

「蒼はこう言っていますけど、俺は全然そんな風には思っていませんよ」

日向が言った。

「あら、じゃあ何て思ってるの?」


「蒼は、俺にとって特別な女の子です」


「っーー」

一瞬言葉に詰まった後、恭子がからかうように笑った。

「特別…そう、特別ね。お坊ちゃんに蒼は、今までになかった変わったおもちゃというところね。その子ーー蒼は、かなりの問題児だし可愛くないでしょ?」

「まさか。とても可愛いですよ」


日向の答えに恭子は面白くなさそうな顔をした。だがすぐさま気を取り直したように口を開く。


「まあ一応、私の娘だものね」


蒼は目を見開いた。


……娘? 昔は全然言ってくれなかったのに…


今更言われても嬉しくない。

それにこうして今自分のことを娘と言うのは、この人にとって今の自分に利用価値があるからだ。

蒼はぎゅっと下唇を噛んだ。


「娘、ね…」


日向がため息混じりに呟いた。


「誓約書にサインしてもいいわ。でも有峰さん、あなたとはこれから仲良くしていきたいのだけど」


誘うような恭子の態度に日向が薄笑う。

「高崎」

「はい」

日向に呼ばれ、高崎が動いた。

「ではこちらの誓約書をご一読の上、サインを。後は私が担当させて頂きます」

高崎が恭子に誓約書とペンを押し渡す。恭子が日向の方を見たが、日向はただ黙っていた。

ややあって日向が微笑むと、恭子は躊躇いもなくペンを走らせた。

「書いたわよ」

恭子が誓約書を高崎に手渡す。高崎がそれに目を通して頷いた。

「確かに。これであなたは、今後蒼様には関われなくなります。また、蒼様の養父母である俊昭様と美智江様、そしてーー私の主である日向様に対しても同様です」

「…どういう、こと…?」

「誓約書にはその旨が記載されていますが、了承の上でサインなさったのでしょう?」

「蒼に近付くな、ってだけじゃなかったの!?」

「蒼様の身近な方達も含め、ですよ。あなたがサインされる前に、ご一読の上と私は申し上げましたが」

高崎が恭子に誓約書を見せつけるようにした。恭子がそれに手を伸ばす。

「もしあなたが誓約書を守らなかった場合、こちらにはやり手の弁護士がついていますので覚悟しておいて下さい」

恭子の手を避けるようにして、高崎が誓約書を持ち上げた。


「あなたはもう大人しくこの誓約書に従うしかありません。それとも有峰をーー日向様を敵に回すおつもりですか?」


恭子がキッと高崎を見た後、日向の方に視線を移した。瞬間、恭子が気後れしたような表情になる。日向が恭子を見据えている目は冷たくてーー


「…蒼、あんたうまいことやったわね」


恭子が低く震える声で言った。

「そんないい男、どうやってたらし込んだの? いやらしいったらありゃしない。ねぇ…あんたがここにいるのは誰のおかげ? あんたを産んだのは私よ。産んでやった恩も忘れて…この親不孝者が!」

恭子から浴びせられた罵声に、蒼はビクッとした。

「あ…ごめんなさーー」

「残念な人ですね」

反射的に謝ろうとした蒼の言葉は日向によって遮られた。

「俺の身近にもいますよ、あなたみたいな人。ほんと反吐が出る」

忌々しそうに吐き捨て、さらに日向は続ける。


「子供に対してそれまで全然興味を持っていなかったくせに、自分にとって利用価値があると判断した途端恩着せがましいことを言ってくる。その子が今までどんな思いで生きてきたか、どんなに努力してきたかなんて知らずに。知ろうともせずに」

「ひな……?」


蒼には日向がどこか苦しそうに見えた。今の言葉もひどく実感がこもっていたというかーー

「あなたはむしろ蒼に感謝するべきだ。あなたにどんなひどい目に遭わされても、蒼はこんなにも真っ直ぐ育ったんだから」

「…蒼に何言われたのか知らないけど、その子の言うことは真に受けないでちょうだい。蒼は私のことを嫌っているもの。どうせ私のことをボロクソに言ったんでしょ」

「…蒼は何も言いませんでしたよ。あなたのことは何も」

「え…?」

「蒼はきっと話せなかった。…俺もそうだったから…」

日向が小さく呟いた。

そういえば、と蒼は思う。


ひなも家のことや家族のこと、全然話さなかったな……


だから余計、ひなたといる時は辛い現実を忘れていられた。


「まだ何か文句があるなら高崎にどうぞ。俺も蒼もあなたとは金輪際関わりませんので。そのお金を持ってとっとと去って下さい」

「なっ……」

「ああ、そうそう。帰りの交通費も出しますよ。高崎、その人を駅まで送ってやれ」

「ではーー」

日向の言葉を受けて高崎が動いた。恭子の背中を軽く押すようにして彼女を車へと誘導する。

「っ、蒼!」

恭子が訴えるように叫んだ。

「あ……」

蒼は無意識のうちに恭子の方へと行こうとしーー


「あお」


日向に腕を引き寄せられた。日向の目が強く蒼を見据えてくる。

威圧的なその瞳に、蒼は目を逸らすことが出来なかった。


「ちょっと! 私、まだ帰らないんだけど!」

恭子が高崎に喚いている。恭子は身体を動かして抵抗していたが、高崎に微笑みかけられると少し大人しくなった。


「…蒼! これで終わりじゃないからね!」


車に乗る直前、恭子がそう叫んだ。


「大丈夫。これで終わりだ。終わりだよ、あおちゃん」


日向が落ち着いた口調で言って優しく笑った。


ーーいつものひなだ。


蒼は安堵した。そして軽く目を伏せ、蒼は一つの結論を出した。


          ※


恭子と高崎が乗った車が走り出す。蒼は遠ざかっていくその車を黙って見つめていた。


「蒼ちゃん」


美智江に呼ばれそちらを向くと、蒼の近くまで来ていた彼女は悲痛な面持ちでいた。

「ごめんね、蒼ちゃん。嫌な目に遭わせてしまって」

今にも泣きそうな美智江の声。どうして美智江が謝るのか蒼には分からなかった。

謝らなければいけないのはーー

「私が守りたかった。蒼ちゃんの母親として。だから…日向くんの助力を断ってまで…」


『日向』…? 何でおばさんが、ひなの名前を…?

それに…今の言い方は、まるでーー


「……美智江さん」


俯き必死な口ぶりで言った美智江の言葉に引っ掛かりを感じながらも、まず彼女に言いたいことがあった。

「あの人が迷惑をかけました。本当にすみません」

「どうして蒼ちゃんが謝るの? あなたは何も悪くなーー」

「あんな人でも一応、私の母親ですから」

そう蒼が言った瞬間、美智江の顔が強張ったのが分かった。

「あおちゃん、今の言いようはーー」

目で日向の発言を制する。それから一つ息をついて、蒼は口を開いた。

「さっきは助かった。ありがとう。…ね、ちょっと話をしたいから、悪いけどついてきてくれる?」

「ん…」

蒼の張り詰めた雰囲気を感じ取っているらしく、日向は歯切れが悪い。

「すぐ帰ります」

蒼は美智江に言うと、足早に歩き出した。




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