これまでの道程、これからのーー
日向と高崎ーー日向が主人で高崎が従者の、主従関係。
『いかがでしたか? 感動の再会は』
そう聞いてきた日向の目の前にいる男ーー高崎は口の端を吊り上げ不遜ともとれる態度だが、別段日向は苛つかなかった。
五年以上の付き合いだ。今さら高崎の態度に文句を言っても始まらない。
リビングダイニングの中を進み、ソファの上にカバンを置いてから座る。
「俺に、会いたくなかったって」
「へぇ、それはそれは…」
「それに怒られたよ。馬鹿だって言われたり、許さないって言われたり」
「その割には嬉しそうですね」
「当たり前だ。あおの言葉は俺のためのものだから。ーー可愛いだろ? こんな俺のヒーローでいようとするなんて」
日向の側近である高崎は、日向の黒い部分を誰よりも知っている。それゆえの言葉だった。
「よかったですね。あなたはこの日のためにずっとご尽力されてきましたから。でもまさかーー」
ここで高崎は寸の間笑った。
「ここまでの成果を見せて下さるとは。さすがに私も予想していませんでした」
「…お前が条件を出したくせに」
言って、日向は遠い目をした。
※
六年前ーーひなたには力がなかった。あおいを探すための力が。
有峰の力を使えば、人探しなど訳ない。
だが、ひなたにその力を使うことは不可能だった。
両親からの愛情もなく、世話をしてくれる使用人からもなめられる。誰もひなたの話など聞いてくれない。
もし万が一両親が話を聞いてくれたとしても、有峰に何の利益ももたらさない庶民の子供などとは関わりを持つな、などと言われてお仕舞いだろう。
おまけにあおいのことをひどく言われる可能性が大いにあった。
ベッドから抜け出しあおいの姿を求めたあの日、家に帰ったひなたは意を決してひなた付きの使用人の男に協力を求めようとした。
が、やはり、忙しいのでと言われ全く相手にしてもらえなかった。
必死に訴えたのに一笑に付されたことが悔しくて悔しくて…
その時ーー
「私が協力しましょうか?」
そう声をかけてきてくれたのが高崎だった。
※
当時のひなたは高崎のことを知らなかった。
高崎ーー男の第一印象は冷たく怖そうな人で、彼の声音も抑揚がなく全く感情が読み取れなかった。
少し前のひなたなら怯んでしまっていただろう。でも今はそんなこと言っていられなかった。
「…ほんとに…?」
「はい」
ひなたは希望の光を見出し、顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「ただしーー条件があります」
男がほんの少し声を強めて言った。
「有峰のトップに立って下さい」
「……え?」
ひなたの顔が強張る。
今、なんてーー?
男がひなたを見てふっと小さく笑った。ひなたの動揺を見透かしたように。
「いずれは、です。あなたにその可能性があることを私に見せていただきたい。そうすれば喜んであなたに協力致しましょう」
ひなたは自信がなかった。優秀な兄達や厳格な父は怖く圧倒的な存在で、顔を合わせただけでも胸がひゅっとなる。
争おうなんて大それたこと、今まで考えたこともない。
日向が俯いていると、男のため息が聞こえてきた。
「自信がないのですか? やれるかどうかじゃなく、やるんです。ここで尻込みをするなら、あなたの探したい人への想いはその程度ということになりますが」
かっとなってひなたは顔を上げた。
自分のあおいへの想いを馬鹿にされたことに腹が立った。
そしてそれ以上に、少しでも怯んでしまった自分が恥ずかしかった。
あおいに合わせる顔がない。
自分にこんな思いを味わせた男が憎らしく思えて、ひなたは男を睨んだ。男は少しも動じていない様子で提案してきた。
「そうですね…まずは分かりやすく、学校の成績を参考にしましょうか」
「やるよやる。満点でも一番でもそっちが望むものは何でも取るから、僕に力を貸して」
ひなたは即答した。あおいに会うためならどんな努力も惜しまない。
さっきとは違い迷いも躊躇いもないひなたの目を見据え、男は静かに頷いた。
「分かりました、期待しています。ああ、申し遅れました。私はあなたのお父上の第二秘書ーー高崎です」
※
それからひなたは勉強や習い事に身を入れ、半年もしない内に結果も付いてきた。
ひなた自身驚いたことに、ひなたは意外に器用で要領がよかった。
今まで誰からも期待されなかったこともあり、ひなたは何に対しても本気で取り組んでこなかったが、自身の内なる潜在能力の高さに気付いた。
自信がつき、より一層出る成果。
学校ではずっとトップの成績だった水無瀬に勝った頃、約束通り高崎があおいについて調べた情報を少しだけひなたに教えてくれた。
あおいのプロフィール、そしてあおいの居場所を突き止めたことを。
「あおちゃんは今どこにいるのっ!? 元気なのっ!?」
それを聞いた時、ひなたは高崎に詰め寄った。ひなたが声を荒らげるのは珍しいことだが、高崎はいつも通り冷静だった。
「ーーで、この中原 蒼さん。居場所はまだ教えることは出来ませんが、今は『白石』という遠戚の家で暮らしているそうです」
高崎がそう言って、ひなたに一枚の写真をくれた。
写真は最近のものだろうか。そこには一人の少女が写っていた。
肩くらいまでの髪に、ジップパーカーと長ズボンといったラフだけれども暖かそうな格好をしている。
はにかんだ笑みを見せるその少女はーーあおいだった。
よかった……
あおちゃんはどこかで、ちゃんと、生きてる。
幸せそうに笑ってーー
嬉しさの余り、一体どうやってこの写真を手に入れたのかという疑問は今のひなたにはなかった。
最近は勉強や習い事漬けで、ゆっくりと思い出に浸ることも出来なかった。
それでも蒼のことを一日たりとも忘れたことはない。けれど、こうしてはっきりと姿を見ることでより鮮明に記憶が蘇る。
写真の中のあおいは、顔色もよく頬もあの頃よりふっくらしていて健康そうに見える。
ひなたは写真を胸に抱き締めた。
それだけで温かく幸せな気持ちなれた。
高崎のことはまだよく分からない。
彼本来の仕事をしているため、毎日ひなたの側にいてくれるわけではない。
ひなたの様子を伺いにか、時折ふらりと現れては二言三言会話して去っていく。
信じていい男なのか判断がつきかねていたが、今のひなたにはこの男を信じるしかなかった。自分一人ではあまりにも無力だったからーー
高崎が言葉通りちゃんと調べていてくれたことに、ひなたは感謝した。
それからずっと抱えていた嫌な予感を思い切って聞いてみた。
「…どうして…あおちゃんは、遠戚の家で暮らすことになったの?」
「…それはまたいつか、お教えします。今のまま励んでいれば必ず。その時まで楽しみにしていて下さい」
細めた目と薄く笑う高崎の表情は意地悪く見えた。
そして、その事実を告げられる時が来た。
それは何の予告もなく、不意に訪れた。
※
ある冬の寒い日。
ひなたの住む地域には夕方から珍しく雪が降り、静けさに包まれていた。
ひなたは自室で勉強をしていた。机の上には問題集が広げられ、湯気の立つホットココアが入ったマグカップも置かれていた。
ココアはたった今しがた使用人の女が持ってきたものだ。
最近は両親と兄達のひなたを見る目が変わり、使用人達の態度も変わってきた。
前はひなたに対して最低限のことしかしなかった使用人達だが、気を利かせてくるようになった。
ひなたが帰宅するなり、何かお飲み物でも用意しましょうか、と聞かれたので、後でココアを持ってきて欲しいと答えた。
ココアは熱く、猫舌のひなたには飲めたものではなかった。使用人達の今までのひなたへの無関心ぶりが分かる。使用人達はよかれと思ってやっているのだろうが、完全に裏目に出ていた。
勉強で頭を使うので糖分は欲しい。仕方なくひなたは立ち上がり、本棚にある瓶の中からミルクキャンディーを手に取った。
ひなたがそれを口の中に入れ、机に戻ったところで高崎がやって来た。
偵察されてる気分になるんだけどなぁ…
口の中の甘い濃厚なミルクの味にひなたが意識をやる中、高崎は手にしているA4の書類に目を落として言った。
「ーー中原 蒼さんは実の母親から虐待を受けていたようです」
「……は…?」
突然の言葉にひなたの頭は追い付かなかった。
「ですから遠戚の家に引き取られることになったと。こちらには児童相談所の保護時期や通院などの記録が記載されています。目を通されますか?」
声が出ず、ひなたは口をはくはくさせるだけだった。そんなひなたを高崎は少しの間見ていたが、やがて机の上に書類を置いた。
「…なに…これ…」
書類に添付された写真が目に入ったひなたは震える声で言った。
「虐待された形跡の写真ですね。そちらは未就学児頃のものです」
「悪趣味な!」
バン、とひなたは机を叩き付け、立ち上がった。大きな音を立てて椅子が倒れる。手が触れてしまったマグカップも倒れる。ココアが溢れ、書類に染みが広がっていく。
「そうですね。蒼さんの母親が当時交際していた男性が暴力を振るっていたようですがーー」
「僕が今言ってるのは高崎さんのことだ! どうしてこんな……」
写真に写っているのは幼女の上半身だ。がりがりのその裸身には、あざや小さな丸いやけどのような跡がいくつもある。
それはとても痛々しくて、ひなたは地獄を見た。
「蒼さんの情報は全て知りたいかと思いまして」
「何でそんなに淡々としていられるの!?」
「こういった境遇の子供は大勢います。いちいち感情移入していられませんよ。それに私は蒼さんとは面識もない。ただ日向さんに協力し、情報収集しているだけです」
ひなたは乱暴に机の引き出しを開けた。そこに入っていたあるものを手にして高崎の側へと行く。
「私に八つ当たりしないで下さい。あなたが怒りを向ける相手はーー」
ひなたが持つあるものーーハサミを見ても、高崎は顔色一つ変えなかった。
「蒼さんの両親や、彼女に虐待をした人達でしょう?」
目を伏せ、ひなたは大きく深呼吸をした。
冷静になるために。
息を吐けるだけ吐く。
………………
考えることが出来た。
あおいのこと、自分のこと、色々なことをーー
長い時間をかけて振り返った。
冷静になど、なれるわけがない。
色んな感情に襲われ、心が壊れそうだった。
次第にひなたの心は染みの広がっていった書類のように、黒い感情が侵食していった。
部屋に漂う甘ったるこいココアの匂いが鼻につく。
ひなたは無意識に、口の中のキャンディーを噛み砕いていた。
そして、さらに時間が経った頃。
心の中でひなたはーー誓いを立てることが出来た。
強くハサミを握り、その手を上げる。
高崎は眉一つ動かさず事の成り行きを見守っていた。
ジャキッ
「……日向さん」
ひなたの行動に、さすがの高崎も少し意外そうな顔をした。ひなたは自分の髪の毛を無造作に大胆に切ったのだった。
ハラハラと髪の毛が床に落ちる。
「……さすがあおだ。あおの言ったことは正しい。俺は…甘かった」
「日向さん……?」
口調が、目付きが、顔付きが、いつものひなたとは違った。
高崎が怪訝そうな表情を見せる。
「あおを苦しめた奴は、悪趣味を通り越して人間じゃない。人の皮を被った化け物だ」
憎悪と怨讐を滲ませたひどく静かな声だった。
窓の外、まだ雪が降っているというのに、稲光がし雷鳴が轟く。
日向が高崎を見た。
「高崎、お前には感謝してる。お前のおかげで俺が知らなかったあおのことを知ることが出来た。他の使用人達は俺を…『ひなた』を見限ってたのに」
そう言うと、高崎に向けられる日向の視線が射抜くようなものになった。
「お前が俺に説教したっていい。どんな態度を取ったっていい。けど使えなかったらーー切るからな」
その言葉に高崎が目を見開く。が、すぐに不敵な笑みを浮かべ、手を伸ばして日向の髪に触れた。
「ヘアスタイリストを手配致します。よろしいですか? ーー日向様」
「…ああ」
満足気に日向が応えた。
この時には、ミルクキャンディーもココアも、その甘い余韻は跡形もなく消えていた。
※
「ーーどうぞ」
物思いに耽る日向に、高崎がマグカップを差し出してきた。
それを受け取った日向は中の液体を一口飲む。飲み慣れたブラックコーヒー。
「ところで、蒼さんを送って来られたのですよね? 車で送迎くらい致しますのに」
「何度も言っただろ? 余計なことはするなって。どうしても必要な時は命令する」
「しかし…蒼さんの発言を聞く限りでは、送られることをよしとしなかったのでは? あまり強引過ぎると嫌われますよ」
「分かってる」
日向は強い口調で応えると、コーヒーをもう一口口にした。
「でもよかったよ」
マグカップをサイドテーブルに置いた日向は、蒼とのやり取りを思い出して言った。自然と表情が和らぐ。
「美智江さんに挨拶も出来たし」
「蒼さんの養母ですか」
実は、日向は半年前に一度ーー美智江に会ったことがある。彼女の夫、つまり蒼の養父でもある俊昭も交えた三人で。これは蒼のあずかり知らないことだ。
日向が蒼の養父母に会おうと思ったのは、蒼の前に自分が現れることで、彼女が昔の辛い記憶を呼び起こすのではないかと思ったからだ。
蒼に会わないという選択肢は日向にはなかった。が、彼女の負担になるならば対応策を考えねばならなかった。
蒼の養父母に電話で連絡を取ると、二つ返事で承諾してくれた。
養父母は日向のことを覚えていた。彼らが蒼を引き取りに来た日ーーそのたった一度しか会っていないが、蒼と日向の別れ難そうな顔に二人を引き離すのは心苦しく思ったそうだ。
それに、養父母のもとに来てからもあまり友達を作ろうとしない蒼が、時折日向の話をしていたらしい。
あの頃の日向の容姿と、蒼の『日向は可愛らしい女の子』という勘違いのせいで、今の日向を見た蒼の養父母は驚いていたが。
美智江と俊昭の二人と話している内、彼らが蒼のことを大事にしているのが分かった。家族として愛しているのが伝わってきた。
安心した。
彼らの人柄や評判は調べて知っていたが、こうして顔を合わせて話すことで確認することが出来た。
蒼の養父母が言うには、日向と再会しても大丈夫だろうという話だった。
それにもし何かあれば養父母は全力で蒼を支えるともーー
この対話時の美智江の言葉が印象に残っている。
「あの子は私たちに甘えることも頼ることもしない。出来ないのよ。幼い頃にそうすることが出来ないでいたから。あの子は優しくて遠慮してしまうから。大切な友達であるあなたには、甘えたり頼ったり出来たらいいのだけれど…」
この時美智江も俊昭もどこか寂しそうな顔を見せた。彼らもまた、蒼に対しての己の無力さを知っているーー
「そういえば、日向様」
再び考えを巡らせていた日向に高崎が声をかけた。
「松原製薬の社長が日向様にお会いしたいとのことですが」
その言葉に対し、日向は重いため息をついた。
「断って。…いちいち俺に聞くな」
高崎なら日向が会おうとする人物くらい判断出来る。
「一応確認のためです」
「そいつは大した人間じゃない。会っても時間無駄だ」
「…日向様の全ては蒼さんのものですからね。しかし…彼女が今のあなたを知ったら、どのような反応を見せるでしょう」
「俺は、あおを守ることが出来ればそれでいい」
「彼女はーーあなたに守られたくないとしたら?」
日向は冷たく鋭い目で高崎を睨んだ。
高崎はいつも遠慮なく日向の痛いところをついてくる。
「用件を済ませてさっさと帰れ。ーー報告しろ」
こっちに引っ越してから、高崎と顔を合わせるのは必要最低限にすることに決めた。
それなのに高崎がわざわざ会いに来たということはーー
「実はーー」
高崎の報告を聞き終えた日向は、自分の中から湧き上がる負の感情を抑えるのに必死だった。
今夜は気持ちよく眠れそうだったのに邪魔をされた。
「…分かった、俺が何とかする。しばらくは様子見だな」
これまでうまくやってきた。これからもあおのためにならーー何だって出来る。