幸せな通過点
学校帰りの電車の中、少し先で座っている蒼の姿を見ながら日向は複雑な気持ちを抱いていた。
蒼が笑っている。昔と変わらない笑顔で。
ここからは見えないが、片方だけのえくぼは今もあるんだろうか。
蒼の幸せそうな姿を見ることは日向の望んでいたことだ。
だが、蒼の笑顔は自分に向けられたものじゃない。
蒼と一緒に帰っている友達ーー実咲に向けられたものだ。
再会してからまだ、日向に対してあの笑顔を蒼は見せてくれていない。
だから寂しくもあり切なくもあり、嫉妬のような醜い感情さえわいてくるのだった。
嫌になるな…自分勝手すぎてーー
日向はため息をついた。
今から十数分前の放課後、帰ろうとしている蒼を日向は捕まえた。
避けられているのは分かっていた。でも、逃したくなかった。
蒼にこっちの住所を言い、一緒に帰ろう、と言うと、実咲と帰るから、と断られた。
ただ、蒼と日向は帰る方向が同じだった。だから今のこの状況だ。
ちらりと実咲の視線が日向に向けられる。
駅までの道や電車の中で、何度か実咲がこっちを見てきた。鋭さのある注意するような目で。
蒼が実咲に日向のことやこの偶然じゃない再会についてどこまで話したのかは分からない。蒼のことだ、ほとんど話していないだろう。
昼休み、水無瀬も交えたやり取りの中で、蒼と昼食を食べる実咲のことを日向はそれとなく気にして見ていたが、彼女もまた日向のことをどこか警戒するように見ていた。
それに対して日向は悪くない印象を抱いた。
初対面の自分にいきなり好意の目を向けてきたり媚びを売ってくるような女じゃなくて。もしそんな女だったら、どう対処すべきか考えなければならなかった。
ただ…あの女、多分……
日向もまた実咲と同じような目で彼女を見返した。
もし日向の勘が正しければ、彼女とは分かり合えることは出来るだろうが、絶対にーー仲良くはなれない。
実咲が蒼に視線を戻す。その視線の違いに、日向は自嘲気味な笑みを溢した。
※
そうして電車に揺られ、数分が経ち、実咲が電車を降りていく。
少し前、実咲が真面目な様子で蒼に何か話していたが、蒼は笑って応えていた。
その時にも日向は実咲と目が合ったので、彼女が自分のことを警戒しているのは日向には確信に近かった。
水無瀬曰く、蒼に対しての怖くて引くほどの執着を、彼女は感じ取ったのかもしれない。
蒼はきっと実咲に心配をかけないように、そして蒼はまた、日向にはそんな度胸も甲斐性もないと思っているに違いなかった。
今日一日で、自分の見た目も中身も成長したと思ってくれただろう。
それでも。
蒼にとって自分は今も、泣き虫で優しい『ひな』だからーー
※
それから二駅先で蒼が電車を降りた。
日向は彼女の後を追った。
蒼のニメートル程後ろを歩く。
駅を出て通りを少し歩いたところで、蒼が立ち止まり振り返って言った。
「……ここ、ひなの降りる駅じゃないでしょ」
わずかに険しい表情を見せる蒼に、日向は明るい表情で答えた。
「うん、慣れてないから間違えた」
はぁーっと蒼が深いため息をつく。
「まったく…昔から嘘が下手なんだから……」
それを聞き、日向は可笑しくて笑った。そして蒼には聞こえないほどの小さな声で呟く。
「…そんなこと言うのは、あおくらいだ」
いつからか日向は嘘をうまく使いこなしてきた。『有峰 日向』という人間を嘘で塗り固めることもある。
そのおかげでーーここまで来れた。
「ごめん。こっちに来て日が浅いから、色々見てみようと思って。…迷惑だった?」
「別に…。色々見たいと思うならそうすればいいけど…。私にそれを止める権利はないし」
蒼が前に向き直り、再び歩き出す。
十分くらいお互い無言で歩きーー
「で…いつまでついてくるわけ?」
立ち止まることも振り返ることもなく蒼が聞いた。
「僕の行きたいと思ってる先に、あおちゃんがいるからなぁ」
「………」
蒼が押し黙る。心持ち、蒼の歩く速度が速くなる。
「本当だよ。僕はあおちゃんの見てきた風景を見たい、あおちゃんの暮らしてきた町を見たい。もっと、あおちゃんのことを知りたい」
「……私のことなんか知ってどうするの? おもしろくないよ」
「そんなことない」
もう…後悔はしたくないから。そしてーー
「好きな子のことを知りたいって、自然な気持ちだよ」
「…そ」
蒼には動揺するような様子はなかった。
『好きな子』という言葉も、六年前の延長線上のものだろうとしか思われていない。
無邪気に戯れる幼い関係。子供が言う単純な『好き』。蒼はそう捉えているんだろう。
確信を持って言える。
日向はまだ全然蒼に男として見られていなかった。
蒼に気付かれないように、日向はため息を飲み込んだ。
「それに、あおちゃんと一緒に帰りたいし」
「…水無瀬、くんと帰らなくてよかったの?」
「……あいつは人をたらしこめるのが得意だからね。早速クラスメートたちとカラオケに行くって」
蒼の口から他の男の名前が出たのが面白くなくて、日向は意地の悪い言い回しをした。
「ふーん…。ところでひなは…ちゃんと帰れるの?」
蒼は前を向いているため、後ろにいる日向からは彼女の表情は見えない。
けれど、小さな声で言った蒼の言葉からは、ぞんざいだったがどこか気遣いの色が感じ取れた。日向の希望的観測かもしれないが。
思わず笑みが溢れる。
「どうとでもするから。大丈夫、気にしないで」
※
「ーーあら蒼ちゃん、おかえり」
駅から二十分ほど歩いたところーー蒼と日向が閑静な住宅地にある一軒家の前まで来ると、玄関アプローチにいる女性が蒼に声をかけた。
「ただいま、美智江さん」
蒼の返事は穏やかな口調だった。
美智江と呼ばれた六十代後半くらいの女性が優しく微笑む。
彼女はこの家のガーデニングや家庭菜園をしているところらしく、動きやすそうな長袖長ズボンに日除け帽子を被っている。
ゴム手袋を右手だけ外し、彼女は首に掛けているタオルで顔を拭った。
それから不意に美智江が視線を動かし、日向と目が合った。
美智江が軽く口を開け、驚いたような表情をする。日向は小さく会釈をした。
蒼が小走りで美智江のもとへと行く。
「何か手伝います」
「あ、いいのよ、蒼ちゃん。丁度終わるところだったし」
「じゃあこれ片付けますね」
言って蒼が、敷石の上に置かれた固形肥料の袋とハンドスコップを手にしようとした。
「ありがとう。でも大丈夫よ、気持ちだけ受け取っておくわね。それよりーー」
再び美智江が日向の方に目をやった。
「お茶でもして行ってもらわなくていいの?」
蒼が美智江の視線を追いーー声を低めて言う。
「いいの、そんなんじゃないから…」
「そう…?」
美智江が蒼に確認するように聞いてから、少し困ったような申し訳なさそうな顔で日向に軽く会釈した。日向は微苦笑でそれに応えた。
「…じゃあ私、ちょっと片付けてくるわ。蒼ちゃんは先に家に入ってて」
美智江が軽く屈んで肥料とスコップを手にする。
「はい」
蒼の返事を背にして、美智江が少し離れたところにある物置へと向かった。
「………ひな」
「ん…?」
思いがけず蒼に呼ばれ、歩道にいる日向は小さく聞き返した。
蒼は玄関の方に身体を向けている。
「気をつけて」
「っ……」
瞬間、懐かしい空気が日向を包んだ。あの頃にーー引き戻される。
『じゃあな、ひな。気をつけて帰れよ』
優しく微笑んであおいが言う。
それに対してひなたはーー
「うん、じゃあね、あおちゃん。また…また明日」
現実にいる日向は六年前と同じように言葉を返した。
嬉しかった。あの頃と同じやり取りが出来たことが。
嬉しかった。あの頃は言えなかった言葉が言えたことが。
『また来週』としか言えなかった昔。
でも今は『また明日』と言える。
毎日のように蒼に会える。
蒼が日向の方に振り返った。息を呑んだような表情で。
何か言いたげに蒼の口が動いたが、何も言わないままに彼女は口を閉じた。
この時の蒼の表情はどこか幼さを感じさせた。しかしそれはわずかな時間で、彼女は強い眼差しを日向に向けた後、玄関の方に向き直った。
蒼の背中を見送る日向の顔が綻ぶ。
変わらない蒼の優しさが嬉しかった。
きっと日向のために関わらないでおこうとして避けていたんだろうに、結局は突き放せない。
そんな不器用すぎるところもーー愛おしい。
全てが報われた気がした。
蒼に再会し、これからは蒼の身近にいられると実感出来た今日一日で。
『蒼のヒーローになる』ために、がむしゃらにやってきた。
辛いとも苦しいとも思わなかった。
ただ空気が刺々しく、常に張り詰めていなければいけなかった。
まいったな……
まだここは通過点に過ぎないのに、とても甘く幸せで満たされた自分がいる。
気を緩めてはいけないのに、蒼の側にいると安らいでしまっている。
今度は自分が蒼のヒーローになりたいのに、守りたいのに、強く凛々しくあろうとする彼女はやっぱり日向のヒーローで。
なくしたはずの弱さを、殺したはずの『ひなた』を、彼女には見せてしまう。
そしてきっとそれは日向に対して彼女の望んでいる姿だと思う。
でも、本当はそれじゃあいけない。
自分を失うのは平気だ。
蒼を失うのはーー怖い、考えたくもない。
蒼が家に入るのを見届けた日向は、いつの間にか美智江が近くに来ていることに気付いた。
「ごめんなさいね。あの子何だか意地を張っちゃって…。でも、どうか蒼ちゃんのこと…」
そう言って美智江が頭を下げるように俯く。
「気にしないで下さい。僕のせいですから」
顔を上げた美智江に、今度は日向が一礼した。
「それじゃあ今日は失礼します」
「ええ…ええ、ぜひまたいらしてね」
目尻に皺を浮かべて美智江が微笑む。日向は、はい、ありがとうございます、と答え、その場を後にした。
※
三十分後、日向はタクシーから降りた。とまった場所にある建物を見上げる。
地下一階地上三階建て、低層の高級マンション。有峰不動産のもので、日向が今住んでいるところだ。ちなみに部屋は違うが、水無瀬もここだ。
日向は出来るだけ蒼の家の近くにあるアパートがよかった。古くても狭くても構わない。
二つ候補も挙がっていた。後はどちらか一つ選んで、契約の手続きをするだけだった。
が、父親の仕事の手伝いで急遽アメリカに行くことになり、こっちの引っ越し先が決まるところまで至らなかった。
そこで日向の代わりに自分がやっておきますと、側近である高崎が申し出たのだった。
日向はちっと舌打ちをした。
あいつに任せるんじゃなかった……
何でこんな蒼の家から遠い街中に住まなければいけない。
もちろん高崎に文句は言ったが、それ以上我を通すことは出来なかった。
蒼のことになると暴走しそうで怖い、と水無瀬にも何度か釘を刺されている。
それは自覚していることだ。
日向にとっては毎日ずっと蒼を中心に動いていて、蒼に再会したら歯止めがきかなくなるのは分かっていた。
蒼にとってはこの再会は青天の霹靂かも知れず、心の準備もなく、ただただ驚いただろう。
だから客観的に判断をしてくれる存在がいることはありがたいのかもしれなかった。
それに、日向は高崎に大きな借りがある。もしかしたら一生かかっても返せない借りが。
そういえばーー
日向は思い出した。
あいつからメッセージが来てたな…
ということは今ーー
マンションに入り、三階にある部屋の重厚な玄関ドアの前で立ち止まる。カードキーをかざしてドアを開け、一歩玄関に入ると煙草の匂いがした。
『本日伺います』
スマホの履歴にあった簡潔なメッセージ。
廊下を進み、必要最低限の家具調度品しかない広いリビングダイニングに、その送り主ーー高崎はいた。
「ーーお帰りなさいませ、日向様」
言葉遣いは丁寧だが、ダイニングテーブルに座ったままで顔だけを日向に向けたこの態度はなかなかに不躾だ。
ダークネイビーのカジュアルスーツ姿。銀縁眼鏡の下の切れ長の目。色白の肌に薄い唇。ミディアムの黒髪の前髪を片方だけラフに上げている。
知的で冷淡な印象を与える三十代前半くらいの男。
テーブルの上、その男の手元にはノートパソコンと吸い殻の溜まった灰皿がある。
キーボードから手を離し、座っていても分かる均整のとれた身体をくつろげて彼は言った。
「いかがでしたか? 感動の再会は」