04 神田雅人という男
結構期間空いたのにこれだけという事実をお許しください……
麗奈が消えた裕貴の家は中々に静かだった。
それは麗奈が騒がしい人間だったという意味ではなく、生活の中から人が一人消えると確かにあったという存在感のようなものが欠如するのだ。人生長いからわかる。
よーく分かる。だって1人長かったもん(個人の勝手です。)
あれから家に帰ってきた裕貴は置き手紙を見て、なにか悟ったように息をついて、静かに涙を流していた。多分こうなることも、と言うよりこの結果を知っていたのかもしれない。いくら意識が35歳だろうと体は生後3ヶ月ちょっとだ。動ける範囲も出来ることも限られている。こんなクリームパンみたいな腕じゃジャイアントフランクもゴシゴシできないもんネ!
………今のうちから触ったらでかくなりますかね?
とりあえずその晩の裕貴は荒れていた。酒飲みだった裕貴の父からかっぱらって来たと思われる度数の高い酒をグイグイと煽って、普段はゲロだとバカにしているウイスキーを現役で流し込む。大人になれば吐くほど飲む、なんて経験は一度二度するもんだが今の裕貴は吐き出すために飲む。それが一番近い。
だから多分今こいつをそうさせているのは麗奈への気持ちなんだろう。
………本気で惚れてたんだな、裕貴。
初めて見た自分の父親の崩れる姿は、なんとも放っておけない、惨めで、なんていうか凄く、可哀想だった。自分に語彙力というものがあればもうちょっとマシな言い方も出来るかもしれないが彼の姿を言い表せる言葉を俺はこれ以上持っちゃいない。
案の定気分が悪くなってトイレに吐き出しに行って、戻ってきた裕貴の顔はげっそりと痩けている。日頃の疲れにバカ酒だ。なんというか、見ていられない。
「ぁう〜ぁっあ〜!」
バカヤローと言ったつもりだったのだが俺の口から出た言葉は安物AVに出てくるマグロ女優の棒読み喘ぎ声みたいな声だった。これはそっち系のお仕事いただけちゃいますね。子役募集してます?親子物の。
だがそんな棒読み喘ぎ声でも裕貴の意識を向けることには成功した様で、ハッとした顔で「悪ぃ」と一言漏らしつつ抱き抱えて揺らしてくれる。いや別に抱かれたかった訳じゃないんだけどね?
にしてもやつれ疲れのボロボロ顔ではあるがこの親父中々イケメンである。生前東北で家庭を持った裕貴とは歳を重ねるごとに疎遠になっていた。父親だと思って頼ろう、とは思えずにそっちに出来た新しい家族を大切にして欲しい。その想いが多かった。故に結び直した父親との縁を解いて、俺は実家でゴロゴロ……もとい、自主的自宅警備の職務に就いていた訳だ。
父親と関わりたくなかった理由もあるにはある……が、まぁそれを言うのは今ではないだろう。今よりも数段歳を重ねたやつれ顔の裕貴が目の前の若い裕貴と重なって見えてきてついつい目を逸らしてしまう。
幼い時代の恐怖心こそ薄まれ、苦手意識は未だに持っているのが事実だ。そんなことを思いながら裕貴に抱き抱えられる時間がしばらく続いて次第に頭が垂れ下がって寝息が聞こえ始めた。
………抱えたまんま寝やがった。
やれやれと言った心持ちで、今日のベッドをこの父親の腕の中と決めて意識を弛緩させる。赤子の寝付きの良さは素晴らしく、一度ゆるゆると思考を溶かせば、砂糖のようにトロトロと意識が流れていく。
どんなことからでも逃げられる、この体はすごく便利だ。
____
殴られた顔がジンジンと痛む。ガラスの破片が刺さった後頭部からトクトクと液体の流れる感覚が首筋を伝った。
左目が開かない。酷く腫れているらしい。唇がめくれ上がっているような気がして、塞がらない口に無かったはずの酸素の通り道を感じた。
服を汚している赤い液体は僕から流れているものだろうし、床に転がった白い石は僕の口から飛んだものだ。
指先ひとつに力が入りやしない。フローリングの冷たさと硬さが背中をつなぎ止めて離さない。僕に跨るこの男が振り上げている拳を生涯忘れることは無いだろう。スローモーションの様にゆっくりと振り下ろされる拳と見下ろす瞳が目に入って僕は。
……なんでそんな顔で殴ってんだ、○○○
____
あれから数日。寝室に移されたベビーベッドで惰眠を貪っていた俺の耳に、襖越しでも十分な音量の怒声が響き渡った。
「お前一人の力で琉斗を育てるんは無理や 」
「……なんとかする」
「できとらへんやんか」
「するって!」
「お前のわがままで子供殺すんか!!」
「俺が育てるんや!!!!」
「己が歳と力を弁えよ!!出来へんもん抱え込んでどないしで行くつもりやんな!?」
「ほなやったらオカンが育ててくれるんけ!?」
「それも考えとるがいな!!」
「それやったら……それ……いや……ごめん」
「アンタらの子供なんや。育てたいのも父親としての意地が出来たんもわかる。けどな?ウチやってアンタがそれなりに大きいなってたからウチの手1つでも育てられたんやで」
「……」
「今のアンタに……生まれた間なしのやや子抱えて生きていくなんて……正直無理やと思うてる。アンタだけの話ならもちろん勝手にすればええけどアンタには琉斗がおるんや。そうも言ってられへん」
「じゃあ……どないすれば……」
「………」
怒鳴り声が収まって沈黙が続く。父親としての義務を果たしたい裕貴と明日を見据えて子供を手放させようとする瑞希。瑞希の正論に裕貴の我儘は何の効力も持ちやしないのだ。このまま俺を育てようとすれば十中八九揃ってお陀仏するしか無くなるだろうし、実際結果として裕貴は俺を手放した。
今回もそれは変わらないだろう。
「もしかしたら…の話やけどな、お父さんが引き取ってくれるって言うてるんや」
「……お父さんって雅人じいちゃんの話か…?」
「そうや。雅人じいと明恵ばあの2人が琉斗の事を見るって言うてくれてるんや」
「でも……そんなろくすっぽ挨拶も行けてへんのに……」
「それでも……お前でもウチでも出来ることやないんや……後はもう丸山に言うしかない」
「嫌や!!親父だけは……絶対……!!」
瑞希の言った丸山とは俺の祖父に当たる男で性格は粗暴。酒癖が悪く借りた金で玉を弾く典型的なクズだ。生前会ったことはあるが長く話していたい相手ではなかったように思う。
リビングで行われる家族会議に耳を傾けながら以前の記憶と擦り合わせる。盗み聞きする予定なんかは無かったが、声が大きいので致し方なし。
話の流れ的に俺がこの家にいる時間はそう長くはないだろう。思い入れがある訳でもないが、だからと言ってはいそうですかーと気分一新させるほど薄情でもない。何分こちとら10年以上引きこもりやってたんだ。環境と気温の変化に耐えられない動物だぞ?甘やかせ?
「今晩とりあえず向こうの家に行ってくるから。今日言って明日って話にはならんやろうけどな。」
瑞希はそう言いながら離れていく音が聞こえた。2人分の足音が聞こえて裕貴が背中を追ったのだと予想する。瑞希がボソボソと何かを裕貴に吹き込んで扉の閉まる音が聞こえた。最後の言葉を聴き逃して喉の奥に小骨が刺さったようなもどかしさが産まれてきたが、なんて言われてたの?などと聞ける訳でもないので諦めるしかなさそうだ。
今、裕貴はどんな顔をしてるんだろうか。
※※※
「今日明日って話にはならんやろうけどな…。」
嘆息混じりの瑞希の言葉に胃の奥がキリキリと傷んだ。子供の前でする話ではないと思って寝室に寝かせた琉斗は今頃すやすやと寝息を立てているのであろう。聞かれたとて理解できない歳なのが精一杯の救いだと思う。
___だってこれは琉斗を手放す話なのだから。
思い出して、焦がされる。内蔵に薪をくべてチリチリと炙られる様な重くて長い絶望感。自分の無力を心の底から呪った。伸ばす腕の短さを、自分自身の小ささを、慢心を、感情を、血液の脈動一つ一つを呪うしか無かった。
結局、俺に麗奈を救うことは出来なかった。一目惚れを、出会いを、運命だと騙って麗奈に必要のない重りを残してしまった。
あの手紙はきっと俺への恨みなのだと思う。でかい口を叩くだけの惨めな俺への恨み言だなんて思うといよいよ胃に穴が空きそうだった。
目の前に座っていた瑞希がため息を零しながら立ち上がる。今瑞希はどう思っているのだろうか。馬鹿な息子を、産まれた孫を。この先彼女にかける計り知れない負担を考えて玄関に向かう背中を呆然と眺めてしまった。
我に返って立ち去る瑞希の背中を追う。玄関に並べた少し古いスニーカーの踵を潰しながらこちらを振り返らない瑞希にかける言葉が見つからなかった。
「裕貴」
「………?」
「恨めよ……自分を」
瑞希はこちらを見ることなく一言言い残して家を出た。見送りには到底出れそうにない。瑞希の消えた玄関先に立ち尽くしながら拳を握り締める。拳の皮が裂けて血が流れればいいのにと思いながら爪を食い込ませた。
「……なもん………ッ…わかってる…………」
力の込もり過ぎた拳をプルプルと震わせながら見えない背中に向けて絞り出した声を投げつける。
全部、俺の失敗なんだ。
だから誰も
_________悪くない。
※※※
白い漆喰壁の瓦屋根で構成された、全体的に年季を感じる大きな家が目の前にあった。昔聞いた話が確かなら、この家の土地壺は100と少しある程の庶民サイズの豪邸。
そんな家に付けられた鉄扉の前で、生まれた間なしの子供を抱えた青年と静かにマイルドセブンをふかす女性との3人が黒のストリームを背に立ち尽くしていた。
「琉斗、見えるか?ここがお前のひいじいちゃんのおうちやぞぉ」
裕貴と瑞希との話し合いを経てはや2週間が経過していた。
おそらくは極力最短という形で決まったのであろう俺の処遇は記憶通りに、曽祖父の性である神田家に引き渡されることとなった。
生後もうすぐ半年、夜泣きもグズりも噛ましちゃあいない俺ちゃんだが子供は子供。
拒否も決定も選ぶことなく、あれよあれよと流されたわけだ。
まぁ正直この結果を恨むような気持ちなんてとうに持っちゃいない。強いて言うなら、子供はちゃんと育てれるようになってから産もうね!お兄さんとの約束だよ!(キモオタコミュ障デブ荒い息)と心の中のブサメン前世俺が語りかけてくるくらいだ。あまりにも醜いのでちょっとモザイクが必要かもしれない。
今は純新無垢な赤さんやぞ!?舐めるな!!
………それは置いておいて。結局この2週間最後の思い出作りや送別がある訳でもない平凡な日常のまま過ごして、今日を迎えてしまったのだ。
まぁ物事理解できないはずの稚児に送別開いたところで意味が無いのは当たり前なのだが、急に来ましたはいこの日って言うのも釈然としないものがある。あれ以降も裕貴は相変わらず忙しく過ごし、時間の隙間で俺のオムツを替えてミルクを飲ませる。今の生活圏に彼の自由時間というものは1分たりとありはしないと思う程に動き回る姿を、俺は何とも言えない気持ちで眺めていた。
手足をばたつかせてもブロックを積み上げても運んでもらわない限りはろくすっぽに動き回れやしない体なのだ。もちろん意思がある分他所の子供より大人しいし成長も早いだろうが、肉体がついてこれるかは別の話。迷惑をかける年頃なのだ。どうしようもない。
だから俺に出来ることは傍観。苦労に晒される実父を物言わず文字通り指咥えながら眺めるしかない。
居心地の悪さと罪悪感に潰されそうだった。
そして今、神田家の門扉と外観を見せるために俺を持ち上げて裕貴は語りかけてくる。ここまで連れてきたのは瑞希なのだが、いつも口数の多い2人が静かに車に乗っている状況はとても居心地がいいとは言えないものだった。
久しぶりに聞いた裕貴の声も、明るく取り繕うとしているのが見え見えのどこか覇気のない悲痛混じりの声で話を振ってくるのだから、聞いているこっちの胃が痛くなってくる。
「雅人じいの家やでぇ大きいやろ」
「ァう(知ってる)」
「琉斗がじいじとばあばに会うんは初めてやもんなぁ楽しみか?」
「ぁぁぅあ?(楽しみも何も20年近く生活させて頂きましたよ?)」
「ははっ…心配せんでもええよ、2人ともすっげぇいい人やさかい…お前のこともちゃんと育ててくれるわ…」
「………(………)」
い、いたたまれないっ……!
当たり前のように会話は成立しないが、会話が進む度にドンドン裕貴のHPが削られていくのが手に取るようにわかる。瑞希もそんな姿を見て黙ってしまっていて赤子の俺ちゃん(0歳35年4ヶ月)はお手上げである。世間がクリスマスムード一色なこの時期に、暖を取るでもなく目の前の扉を叩くでもない2人の様子が物語っていると言っても過言じゃない。
「あっ……雪や」
会話を滞らせて進まない俺たちを後押しするかのように、ハラハラと白い決勝が頭のてっぺんから白く染めあげようとしてくる。パラパラからふわふわ、ふわふわからしんしんと、緩い勢いだったのが次第に勢いをつけ始め、体だけでなく外付けの車のボンネットや熱を奪われたコンクリートを同じ色に染め始めた。
もうこれ以上外でロスタイムを過ごすのは不可能だろう。
「入ろっか」
賛同の声はない。だけどそれ以外の結論は誰一人として持ち合わせちゃいなかった。
「はぁいいらっしゃあい〜」
大きなチョコレートを模したみたいな形の玄関扉を開けると、30畳ほどの広さをしたリビングの中央から、玉の転がるようなコロコロとした明るい声が俺たちを出迎えた。足元が悪くなってきたらしいとてとてとした歩き方に不似合いな艶の肌と、生命力を感じさせる笑顔。黒く染められた髪はクルクルとパーマが当てられており、この当時70をもうすぐ迎えるはずの人間とは思えないくらいに若々しい。美魔女というのなら間違いなく彼女に適応されるはずだ。
「寒かったやろぅ、はよぉはいり」
そう言って目の前で笑顔を向ける彼女こそ、神田 明恵……つまり俺の曾祖母である。この先人生20年以上に関わってくる女だ。
久しぶりに会った生きている明恵に、懐かしさのような嬉しさのような何とも言えない感覚を抱いていると、リビングに置かれた大きなダイニングテーブルの向こう、部屋の奥側に位置する場所にもう1人の人影を見つけた。
おい、おいおいおい。そうか、そういうことか……!戻ってきたってことはまた会えるってことじゃないか……!!!
「はよ玄関しめぃ…ワシが寒い…」
老年の男性特有である掠れのある低い声が聞こえて心臓が感動に震えた。懐かしさと寂寥感が一瞬で心を満たして赤子の体なのに思わず涙ぐみそうになってしまう。どうせ白くなるならと染めた上で短く刈り込まれた銀髪をオールバックにした髪型。年相応の深いシワの彫り込まれた目付きの鋭い人相に真一文字に結ばれた口元。年季を感じるルックスに相反する年齢を感じさせない雰囲気を纏った男。
「ただいま、雅人じい」
「おぅ…よぉきたな」
短く返して少しだけ口角を上げてECHOに火をつける。
俺にとって最愛と言っていい人物。それが神田 雅人という男だった。
___
「この子が琉斗やんね」
明恵が確認するように俺の顔と裕貴の顔を交互に見比べる。
「うん…俺の息子。なかなか合わせに来れんくてごめん…」
「馬鹿やねぇ…あんたはまだ本当は高校生なんよ…?ずっと働き詰めの癖に子供なんて……」
「お母さん…」
「瑞希…あんたの責任でもあるんよ?前に裕貴が連れてきた女の子なんやろう?この子のお母さん…」
「………っ」
「明恵、もうええ」
「お父さん……」
思うことが多かったであろう明恵のお小言を雅人がスパッとした口調で抑える。よろしいとは言えない目つきは雅人も一緒で、鋭い眼光で言い放たれる圧の強い言葉は初対面でなくても気圧される所がある。雅人は裕貴の顔を凛とした眼差しで見つめて、ちらりと俺を見ながら口を開いた。
「なぁ裕貴よ…お前が大変なんはわかってる。けどな…?ワシはよ、嬉しいんや」
「……?」
厳しい目付きでこそあるものの穏やかな表情で紡がれた一言に裕貴は戸惑いの目を向けている。
「ワシもこうして年取って、ジジイと呼ばれるようになってや、孫こそようけみさしてもろうたけどやな、曾孫っちゅうもんは初めてなんや」
「でも…」
「お前のしてきた事が正しかったとも、間違ってたとも言わん。やからな、曾孫まで見せてもろうた。これが正直なワシの気持ちじゃ。……裕貴、顔あげてもういっぺんちゃんとソイツの顔みたれ」
「……っ」
裕貴は思い当たる節でもあるのか、目線から雅人を外した。まさか雅人にいきなり言われるとは思っていなかったのだろう、それは裕貴が意識的に避けていたこと。
裕貴はあれ以来俺の顔を見ようとしていなかったことだ。
避ける理由も避けたい心情も理解しているからこそ感じる裕貴の態度。だがそれを雅人は遠回しな言い方で突き付けた。
時折見せるこの人の勘の良さは尊敬しているが、少し恐ろしいものがある。
優しく、諭すように、だけど絶対に筋を外さない。穏やかさに力強さを織り交ぜた雅人だからこそ伝わる言葉だと思う。そうして告げられた裕貴は、ゆっくりと覚悟を決めるように息を吸い込んで、俺と向かい合った。
息が詰まる。裕貴が感情をごちゃ混ぜにした瞳に俺を映している。刻まれた苦悩が、後悔が、悲しみが、罪悪という塊に飲み込まれて喉に詰まらせたような息苦しさを感じさせる表情に、裕貴はずっとこんな顔をしていたのかと気付かされた。
……顔を見ていなかったのは、俺もだったらしい。
「裕貴、何があってもな、ソイツの親父はお前なんや」
穏やかに告げる雅人の言葉に裕貴の顔がぐちゃぐちゃと歪んでいく。泣き出す前の子供みたいな顔が視界いっぱいに映り込んで、改めて裕貴の年齢を思い出した。そうだ、コイツは今18歳。成人と同じようで違う、子供と大人の境目。昨日までの子供が次の日に一足飛で大人になるような、曖昧な年齢なのだ。当然父親になるには早すぎるし、責任逃れするには遅い年齢。
生まれてきたことが罪だと言われりゃ文句のひとつでも言えるがこいつはそうじゃない。全部受け止めて、整理して、理解して、自分のしなきゃ行けないことがわかっているから今の裕貴はこんな顔をしてるんだ。
こいつはちゃんと、父親なんだ。
「俺はァッ……!!こいつを……育てだいッ!!けど……今……俺が育てても……こいつを……琉斗を……幸せに……できへん……ッ!!」
間近で声を震わせて、目元に溜めた涙を抑えつけるように絞り出して告げられた独白は、なんの脚色も無い裕貴自身の願望で、誰がどうできる訳でもない事実。父親として生きたくても出来ない、弱さと無力を受け入れて吐き出された言葉に誰も口を開くことが出来ない。
「だから……だからッ………!!琉斗を……育ててくださいッ……!!!!俺じゃあダメなんです………!!!!お願いッ……します…………!!!!」
俺を力強く抱えながら深く、深く頭を下げる裕貴。涙を零して、声を震わせて、無力を嘆いて、擦らんばかりに頭を下げている。酷く惨めで、滑稽で、救いようがないほど
父親だった。
頭を下げた裕貴を一瞥して深く考え込むように目を瞑る雅人。この沈黙を破っていいのはこの男の人ことだけだ。横槍を投げ入れていいような空気でも、投げ込んでタダで済むわけでもない真剣さで行われた会話。雅人が沈黙を破るまでの短い時間が途方も無い長さに感じられた。
「……琉斗の父親としてか?それとも孫のワガママか?」
「親として…こいつの父親として…頭下げてます」
「……そうか。お前の気持ちはよぉわかった……顔上げろ」
雅人は目を瞑ってゆっくりと頷く。顔を上げた裕貴に目を合わせて、ニィッと口角を釣りあげた。
「お前の息子……ワシが預こうちゃる……安心せい」
「………!!!」
「頭下げるんやったら明恵にも下げぇ。ワシよりもよっぽど世話焼くやつやさかいな」
「お願いします……ばあちゃん…」
「お父さんの決めたことやもの……新しい息子ができるには……ちょっと遅かったけどね」
明恵はやれやれと言った様子で裕貴に言い聞かせて、コーヒーを入れにキッチンへ消えてしまった。小言の多い人ではあるが、根の優しい変わらない正確であることに正直安心もした。
変わっていなくて、本当に良かった。
____
あの後、裕貴は何度も頭を下げながら涙を流していた。静かに様子を見守っていた瑞希は、咥えていたマイルドセブンを灰皿で擦り潰して、裕貴の肩を抱いていた。声をかけて宥めないのが瑞希らしさを感じさせる。ファンキーで掴みどころのない女ではあるが、その実筋が通っていて人情味のある瑞希の生き方には憧れるものがある。
だからといってこの人になりたいかと言われればNOなのが子供心ってやつなのかナ!
………知らんけど
それは置いておき、裕貴は夜からまた仕事があるらしく瑞希も長くは居れないらしい。要はつまり、お別れの時間と言うやつだ。
期間にしてだいたい半年くらい。俺が正しく親子という形で生活を共にした時間。世の中のご家庭では父親、母親が家族というカテゴリーで締めくくられて同じ家で共存し、人によっては更に兄弟というものが含まれた上で10年20年と生活を共にしているご家庭があるらしい。当たり前と言えば当たり前の家庭環境なのだが、その当たり前が半年足らずで終了して、前世との総合算で1年にも達していない俺からしてみれば理解しろと言う方がちゃんちゃらおかしい。
世の中こんな気分で浸ってるやつも多くいるんだろうと思えば、案外普通の幸せ、普通の家庭ってやつを享受して育ったやつってのは実は結構すごいんじゃないだろうかと思えた。
俺は昔裕貴と麗奈を恨んでいた時期があった。
「……僕が普通の家族の元に産まれていたらこんな事にならなかったのに」
お門違いな恨み言を呟きながら畳三畳の隔離室で蹲っていたことを思い出す。児童が暴れても怪我をしにくいクッションの壁とカビの匂いが鼻につく畳、入所のマニュアルと書かれたプリントを睨みつけて抱えた膝に爪を食い込ませていた。
今でもあの時の恨みを持っているかと聞かれたら答えはNOだ。あの時は自分の出生や裕貴と麗奈の事なんて欠片しか理解していなかった。こうして理解出来る頭脳と、記憶を持った上で過ごすことのできた半年は、何も知らなかった前世の俺とは感じるものが違う。こんな顔したヤツを見て、後生恨み続ける方が無理ってものだ。
「それじゃあお父さん、私らそろそろ戻らなあかんさかい」
「そうか」
瑞希は今日何本目かも分からないマイルドセブンを灰皿に押し付けて立ち上がった。対する雅人も溢れそうなほど詰まった灰皿に大部分が灰に変わったECHOを突っ込む。
神田家の人間には雅人を筆頭にヘビースモーカーが多い。
裕貴も家ではスパスパとセッターを灰にする作業に勤しんでいるし、雅人に至っては日に1箱は確実に無くす。
ECHO自体吸いやすいイメージは無いのだが週一ペースで消えていくカートンは子供ながらに吸うペースの異常さを感じさせてくれた。この時代電子タバコなんてものは普及しちゃあいないし、雅人が生きていたとして電子タバコを吸うとは思えない。
まぁ俺がアメスピを紙巻で吸ってたのはただイキってただけなんですけどネ。
「じゃあ……じいちゃん…琉斗のこと、よろしくお願いします…」
荷物を持った裕貴は雅人に深々と頭を下げる。俺を抱えている手は裕貴から明恵に変わっており、いよいよか…なんて少し哀愁漂う空気になっている。個人的には知っている結果だからこそ思うことも少ないが、裕貴達にして見れば初めての経験で、最初で最後にしたい思い出だろう。夏休みの間親戚の家でお泊まり!なんて気安いものではない。
これは、1度親子の縁を断ち切る。そう言った物だ。
そんな裕貴の姿を前に雅人はそっと裕貴頭に手を乗せる。そしてそのまま拳を固めて頭頂部に振り落とした。ゴチッと言った骨同士の硬い音が響く程力強いゲンコツ。
「〜〜ッ!?!?」
「裕貴。よう覚えとけ。親子っていうのはな、離れていようが国をまたごうが縁っちゅうもんが繋がっとるんや。ワシらと、瑞希やお前とも家族っちゅう縁が繋がっとる。わかるな」
裕貴は真剣な顔の雅人の言葉に、殴られた頭を押さえながらこくりと頷いた。
「その縁はな、お前と、この子にもきっちりと繋がっとる。やからワシは琉斗を自分の子供やとは言わん。自分の曾孫やと突き通す」
それは一見理解のできない言葉だった。だけど少し考えて理解する。裕貴に父親という肩書きを残すと言っているのだ。俺は、琉斗はお前の子供だと、お前が父親なのだと、裕貴を逃がさない楔であり、親子としての縁を断ち切らせない雅人なりの優しさ。
これが、これこそが神田雅人という男だ。
厳しく、それでいて海のような優しさを持つ彼しか持ち合わせない極限の愛。俺が、皆がこの人を死してなお素晴らしい人だったと言わしめる所以だ。
裕貴は雅人の言葉の意味に気づいたのか、止まっていた涙をまた流し始め瑞希も目元を押さえている。明恵は静かに俺を揺らしていた。
「せやからな、裕貴。しっかりと琉斗の顔を見て、前向いて、励めよ。自分を恨んで歯を食いしばって、父親になれ」
力強い、熱の篭った雅人の目。神田の男に受け継がれていく鋭い目元は俺にもあったはずなのに。同じ目とは思えないほど腐って淀んだ目を俺は知っている。2人、知っている。
「ごめんっ……ごめんな……琉斗ッ……!!俺……ちゃんと父親として……お前のこと……迎えに来るさかい………!!!!」
大粒の涙をボロボロと零しながら明恵に抱えられた俺にしがみついて声を震わせる姿に、俺まで鼻の頭が痛くなってくる。誤魔化すように、餞別の代わりに空いている左手を裕貴の顔に突き出した。小さな握りこぶしに裕貴が頭をぶつけて、クッシャクシャの笑顔を向けた。
「またなっ……!!」
そう言ってひとしきり挨拶を済ませて2人は家を後にした。瑞希もチラホラ話していたがツーンとする鼻頭を我慢するだけで精一杯だったのであまり聞いていない。抱えられたまま2人の消えた玄関を見つめて数分前の裕貴の表情が頭に焼き付いて離れなくなる。
最後に見た笑顔は、凄く……父親らしかった。
___
拝啓
お父さん、お母さん。冬の寒波が肌に痛い今日この頃、お身体は大丈夫でしょうか?
みんなの愛されベイベー(巻舌)丸山琉斗……改め、神田琉斗です。きゃぴ。
こうしたお手紙を出すのははじめてですね。あの頃の私は随分と幼く、達筆でもありませんでしたから。うふふ。
さて改めてお手紙としてお渡ししようと考えていた内容としては………
助けて
「だぁから、お前の持ってくるかび臭いようなもんより新しいこうたもんの方がええやろう!」
「どうしてお父さんはそんな言い方ばかりするんですか!それにこれは裕貴がつこうてたやつですよ!?」
「お下がりにしてももうちょっと小綺麗な奴にせんだら琉斗の気ィが悪いやろ!!」
ガルル…ガルル…と牙をむき出して向かい合う猛獣……もとい雅人と明恵。孫をとことん可愛がって目新しいもの、綺麗なものを買い揃えようとする裕福思考の孫馬鹿雅人。
あるものは使え、無いものは使え、思い出含めて捨てられない貧乏精神の孫馬鹿明恵。
可愛い孫の為という根本は揃っているのに、そこまでの途中経過が全くと言うほど対立するこの2人は知る限りであってもよく似たような喧嘩をしていたように思う。それであっても最終的に60年の添い遂げをしているのだから喧嘩するほど仲がいいと言うのは事実なのだろう。
なんだかんだでおしどり夫婦…な2人を尻目に俺は今後の計画を立てていた。
ここまでは事前に知っている筋書き通りに事が運んでいる。細かいことは分からないが大まかなところで変更は無いはずだ。前世の俺はここから10年間、神田琉斗であると刷り込まされて生きて行き、自分が丸山であるという事実は伏せられてきた。
生まれや出身なんてどうだっていいが、ここで大事なのはそう、10年というタイムリミットだ。小学校4年生の終業式、この日までに準備を整えなければならない。生きていく上で大切なことを、失敗しないためのメソッドを、腐らないための自分自身を作り上げる。
その為に、俺はここに戻されたのだから。
容姿、人格、運動能力、学力、体格、言葉遣いに発音発声、髪型や動きの一つ一つ全てを矯正する。 完全で、完璧な神田琉斗を作り上げ、カンダリュウトを払拭した上で10年を生き、未来のルートを書き換える。
大掛かりで荒唐無稽、誰にも真似出来ない自作自演のハッピーエンドを作り上げるみたいな夢物語ではあるが、これをしない事にはなにぶんやり直した意味が無い。
やってやるぅ、やってやるぞぉ!……心の中の島田を奮い立たせて明日からの作戦を……
「琉斗!!どっちがええ!?(いい??)」
………な、何だコイツらのパワーは!?目が笑ってねぇ!!
生後半年の乳児に着せるベベをついにど真顔で本人に聞き出した孫馬鹿2人。ていうかもう両方着るから……私のために争わないでぇ!………(ゴン太ボイス)
ぶにぶにとした腕で自分の前に掲げられた2つの服を両方がっしりと掴んでベビーベッドに引き込めば、取り上げられた2人は、おもちゃを取られた子供のような顔でキョトンとして、お互いの顔を見合って吹き出した。
「コイツは……ククッ……賢くなりよるわ…」
「そうですねぇ…ふふっ」
何がそこまで笑いを誘う要因になったのかは理解できないが、剣呑としていた雰囲気がたち消えたので結果オーライである。
形は複雑だが歪な家族の幸せの欠片は確かにここにある。あとはこの炎を一日でも多く感じながら自分を成長させて、人生をリトライしてやる。後悔も、妥協もない、自分に出来る全力で人生様に再チャレンジするために戻ってきた。
もう一度心の中の島田を奮い立たせて、邪魔されたシリアスモードを取り戻しながら腹を決めていると、抱き抱えた明恵にもみくちゃにされた。どうやら僕にシリアスは許されないらしい……早く成長しないとネ☆
いやまじで。
その後明恵と雅人、裕貴の家から持ってきた俺のお着替えで散々きせかえ人形にされたのは別のお話。
リ○ちゃんの偉大さ……感じました……。
雅人……すごく……すき……(個人の感想)