03 母について
___あれから大体1週間ほどだろうか。
カレンダーやスマホも手元にないので正確な日付はわからず、遠くに見える窓の光と声をかけてくる看護師、麗奈と悠貴との会話で日付を想定する。
俺が生まれてからおよそ5日。日付は8月の中頃およそ13〜4日だと予想される。俺の誕生日は8月8日だからだ。この一週間綺麗な看護婦さんにケツ振りながら考えてみた。今の日付当てにしてもそうだし、両親にしてもそうだ。
俺はこのルートを1度プレイしている。
途中で投げ出してしまったゲームではあるが中盤まではプレイ済みなのだ。つまり経験にある人生に倣うこと、または背くことで今度こそ投げ出さずにクリアすることが出来る……はずだ。
何せ1度投げ出した身で気安く今度は大丈夫〜なんて言えるわけが無い。今は活力?に満ち溢れちゃあいるが中身は自分。1度諦めた人間に2回目はいけるなんて信用は無いだろう。
それに、だ。
正直第1関門までそうそう日数もない。あとから聞かされた話だったから感じるものは少なかった。だがそれが意識のしっかりとしている時に行われれば俺は一体何を考えるのだろうか。
恐怖がない、と言うのは嘘だ。
そうこう考えていると同室で横になっていた麗奈が看護師に呼ばれて外に連れ出された。一人ぼっちにされるかと思っていたがそんなことも無く俺もすぐに別室に連れていかれる。可愛いナースさんにお呼ばれしたからホイホイ(柔らかいニュアンス)されちゃったのだが、いざ蓋を開ければ60過ぎのジジイが待ち構えていて、体に触れたり口を開けて光を照らしたり、ついでに身長や体重も取られた。
横で見てる可愛いナースさんにやってもらいたかったってのに……
恐らくは産後の検診ってやつだろう。てことはこの病院にいる時間もあんまり長くはなさそうだ。
ニコニコしているジジイから意識を外そうとここ数日間の病院での生活を振り返る。生まれてすぐは色々診られたり洗われたりと忙しかったが、次の日ぐらいからは親子の絆を深める時間みたいな扱いだった。
俺にとっては産んだだけの相手でも今の麗奈に取ってみれば生まれてきた我が子だ。時間を見つけては病院に来る悠貴もデレデレとしたバカ親父のようでこいつの今の歳が高校生だとは思えない。疲れて老けた顔もあって俺に物心がついて親父だと明かされた時と寸分変わらないように見えるほどだ。
今の環境が環境か…
生まれた日のすぐ俺にとって大きなイベントがきた。
楽しみにしていたおっぱいの時間だ。もちろん現実を知るまでの話だが。
正直な感想を言おう。
色々きつい。
生前搾乳プレイなんてものには随分とお世話になったものである。
ロリっ子キャラに似合わぬ大きなブツや小ぶりなお姉さんキャラが恥を忍んで男に搾られる様。ミルクを飲めばミルク(マイルド)が出るよね!という話は置いておいてだ。人の乳を吸う。母乳を貪る。これは赤子時代にしか体験することの出来ない男のロマンなのだ。
だがしかし、だがしかしだ。相手は以前俺を捨てた女で俺としてはトキメキも興奮も一切ない。仮に母親というフィルターをかけたとしても尚更アウトだ。勿論麗奈の顔はそれなりに整っている方だし胸のサイズも申し分ない。だがそれを差し置いても好きになれない、いずれ消える女の乳を吸うことに激しい拒否感が湧いてくるのだ。申し訳ないが2度目からはやんわりと拒否させて頂いた。
母乳にいい顔をしない俺を見て麗奈はどこか傷ついたような顔をしていたがこればかりはどうしても耐えられるものじゃなかった。看護師も飲んでもらった方がいいが時々ある事だからと新生児用のインスタントミルクを持ってきた。
赤子の腹はよく減るようで勢いの緩いミルクをガツガツ飲み込んだ。悠貴が始めてきたのはそれからしばらくしてからだったか。
2日目3日目と看護師も手伝って母乳を推奨されたが俺は頑なに必要としなかった。俺の酒が飲めねぇってのか!?とちゃぶ台ひっくり返されそうな気分だが無理なもんは無理。
粉ミルク…最高にうめぇっす!
というわけで俺の密かな期待であったおっぱいタイムはなんとも切ない感じで崩れ落ちてしまった。
今だに乳から吸い上げたミルクも一回コッキリで味もよくわかってない。できたら可愛いナースさん(名前は佐川さんだった)の乳搾らせてもらいたい……。あ、すんません佐川さんおしり拭く時あんまり根元触らないで……来ちゃうから……赤子の赤子が成人式迎えちゃう……!原理的にできないだろうが気分がね?根元の方に手添えられて汚したケツ拭かれるとか一体いくら払ったらそのプレイ受けられるんです?
……赤ちゃん最高ぅ…。
とやかくしてつまらん事を考えてるうちに荷物をまとめだしている姿に気がついた。どうやら退院のようだ。麗奈も俺に微笑みかけて「一緒におうち帰ろうね〜」と声をかけてきている。手続きやその他もろもろのために悠貴も駆けつけてきたので佐川さんに会えるのももうすぐ終わりだろう……。
今んとこ1番のショックである。
___
「ほんとにお世話になりました」
「ありがとうございました」
麗奈と悠貴が頭を下げて佐川さん(とその他有象無象)に頭を下げる。
俺も習ってペコッとやろうとしたが上手いこと首も座ってないので下手なことはしない方がいいだろう。とりあえず未練がましく佐川さんに手を振るとニコッとして手を振り返してくれた。
ボクズットココニイル。
悠貴が手早くタクシーを呼ぼうとしたところプップーと軽快なクラクションを鳴らしながら黒のストリームが正門前に入ってきた。みんな揃ってキョトンとしていると左ウィンドウが開いて助手席に身を乗り出したサングラスを装備した女性、祖母 丸山 瑞希 が後部座席を親指で指さして
「乗ってきなボーズ」
とやたらカッコをつけて言い放った。
……まったくカッコイイババアだぜ。
___
この頃の瑞希は旦那と別れ、地元で一人暮らしをすると言った悠貴を置いて2県ほど跨いだ所で仕事をしていた。
本来は産まれた報告と一緒に来る予定だったららしいが、どうにも予定が合わず、悠貴にそっちに連れていくという話をされたがために待っていたらしい。だが本人の性格的にやはり我慢ができずこっちまで出向いてきたとのこと。病院は曾祖父母に聞いたらしい。ナイスタイミングだった訳だ。
「麗奈ちゃんお疲れ様〜!」
「ありがとうございます…車だしてもらっちゃって…」
「かまわんかまわん!はよ琉斗見たかったし!(いいよいいよ!早く琉斗みたかったから!)」
「それは有難いやけどおかん仕事ホンマに大丈夫け?(それはありがとうなんだけど仕事本当に大丈夫なん?)」
キツめの関西弁になまりの交じった会話が往復する。長らくネット社会の標準語に触れてきた俺からしてみればこんなにきついものだったかと思い返す。
デュフフワロスメシウマ
……これもこれできついな
助手席に座った悠貴と話をする瑞希は当たり前だが若かりし頃の瑞希と全く一緒で、事故直前までの姿を知っている俺からすれば胸に溢れかえるものが多すぎた。この人の棺入りだけは見ることが出来なかったほどだった。
嫌なことを思い出したとため息をついて気分転換に車内を見渡す。
赤子の体には広すぎる車内にはティッシュボックスやゴミの入ったコンビニ袋、芳香剤、助手席のヘッドレストには某ポップコーンはいかが〜?な白猫がぶら下がっていた。
車内に溢れているタバコと芳香剤の混じった匂いはいかにも人の車という感じで落ち着かない。確かこの時の我らがお袋はそれなりにヘヴィスモーカーだったはずだ。運転席の下にマイルドセブンのカートンが転がっていることからも俺の記憶と相違無いだろう。
今は赤子を乗せてるから控えてると言ったところか。
「はーい到着ぅー」
緩い瑞希の言葉に一瞬なんのことかと考えたがおそらく家に着いたらしい。麗奈に抱かれたままの状態では車内を見渡すことが精一杯だし、そもそも土地勘がないので車窓を見たところでわかりゃしない。
麗奈は俺を抱え直しながらドアを開けて外に出る。
夏の匂いで噎せ返りそうなほど夏を具現化したような日だった。瑞希と麗奈も今日は暑いな、ですね〜と刺すような日差しに驚いた言葉を交わす。
さっさと家に入ってしまおうということで車の鍵を閉めてすたこらと目の前にある少し小汚いアパートに入っていく。学生一人暮らしといえばこんなものだろうかと考えながら、仕事の中で生気を失って気絶するように眠るだけの部屋はこれよりもっと小汚かったことを思い出した。
どうやら部屋は2階のようでエレベーターこそないものの赤子連れでもさほど苦労することなく部屋の前まで上がってこれた。悠貴がジーンズの尻ポケットからキーケースを取り出して玄関の鍵を開ける。
玄関には作業靴とすり減ったサンダルが転がっており、いかにも男の一人暮らしと言った感じだ。芳香剤も置いてあるが切れてから随分と経つのだろう埃を被ってタバコに匂いを統治されていた。
「悠くんまた部屋散らかしてない?」
「んんん…まぁおいおいで……」
「産まれたての子供がおるんにそんなんでええ訳あらへんやろボケ(産まれたばかりの子供がいるのにそんな事で言い訳がないだろうバカ)」
……安定で口が悪いな瑞希よ…いやまぁその通りだけども。
悠貴はバツの悪そうな顔で「うぃっす…」と緩く返事してとりあえず部屋に入っていった。麗奈と俺、瑞希も習って入る。
部屋の中はよくある1DKで、風呂とトイレが扉を分けて玄関の横にあり、すぐの所にキッチン、その奥がダイニング兼リビングで右の襖越しに寝室があるタイプだ。
中の方もゴミが散らばっているなんてことは無いが物が溢れている。
よくある自分はどこに何があるか分かってるからいいの状態が繰り広げられていた。ちゃぶ台上の灰皿にはタバコの吸殻が山のように積み上がっていたし、中身の少なくなったセッタのカートンが転がっている。クローゼットに収まりきっていない、もしくは収めていない服がテーブル脇を占拠していて、部屋の床を消すのに多大な貢献をしている。
寝室の襖は閉じているがまぁ大した差は無いだろう。しばらく触っていないだろう埃を被った大きめのデスクトップは静かに上に物を置かれながら部屋の隅に鎮座していた。
そんな部屋の中の窓際にポツンと異色を放つカラフルな存在。イルカや星の形をした疑似シャンデリアの様なものがぶらさがったプラスチッキーなベッド、所謂ベビーベッドが置かれていた。その周りにはガラガラやおしゃぶり小さいタンバリンのようなものが置かれている。
35歳ニート。ついにベビーベッドで寝ることになりました。
麗奈は部屋の惨状に軽く溜息をつきながら俺をなんの迷いもなくベビーベッドにのせる。当たり前だが扱いは赤子、これからこのベッドに寝かされ続けるのかと思うとゾッとする。
動ける時に動こうと決めた。
だってそうじゃないと永遠に周りでガラガラゴロゴロタンバリンやらなんやら鳴らされるんだぜ…?
赤子って辛い!
麗奈が悠貴の部屋を片付けている間に瑞希が俺を覗き込んで「きゃぅわぁいいい」と破顔している。
完全に孫バカの顔だ。
将来が思いやられちゃうネ✰なんて考えていると瑞希は俺の頬をつつき出す。やめ!ヤメロぉぉぉ!結構こしょばいんだからんな!?
中身35歳は頬をつつかれる経験が乏しすぎます。たまらず身を捩っても喜んでいるようにしか見られていないらしく完全に面白がられている。
そんな中に悠貴も掃除をサボって混ざりに来るのだから子供可愛さここに極まれり……あ、悠貴が麗奈にバレて連れてかれた。
やーいやーい
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幼い頃の両親の話はチラホラと聞いていただけだった。それこそ知ってる範囲でいえば父は高校を中退して働き詰めていた頃で、母はその時に出来た何人目かのガールフレンドだった。
その間でできた俺は周囲からはやはり腫れ物のような扱いではあったらしい。
勿論両親や家族は愛してくれていたが母の親族はいい顔をしておらず、しばらくの後に母は育てきれないと出ていってしまった。父も男手1つで育てきるには厳しいと判断し祖母に委ね、忙しかった時期の祖母もまた曾祖父母に委ねた。
と、まぁこれが俺の聞いてきた経緯だ。
そして今実際、目の前に父 悠貴と母 麗奈、祖母の瑞希がいる。悠貴と祖母の話は度々聞いていたが麗奈については聞かされていた分以上には知らなかったように思う。
偶然ながらにも自分の母について知る機会を得た訳だ。勿論この人を許したわけでも母と認識した訳でもない。
ただ俺の知らなかったこの人を知りたい。どんな風に生きてどんな風に考えてどんな風に俺を捨てたのか。ただそれを見届けたいのだ。そう思って俺はここ数週間を狭苦しいベビーベッドと連れられるときの抱っこ紐、ベビーカーで過ごしてきた。
赤子のフリも大変だぜぇ……楽しんでない、楽しんでないよ?
ホントダヨ?
そういえばこの時代の麗奈についてだが悠貴の家には半同棲に近い形で住み込んでいるようだ。もちろん俺がいるからというのも大きいだろうが。彼女の実家は一体どう言う所なんだろうか。とりあえずはもっと彼女を観察しようと思う。
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時間にして約2ヶ月。
とにかく観察してきたのだが、まあ一言率直なこの女の感想を述べようと思う。この女はただただ優しい女だった。
純粋ないい人だった。
迷子がいれば手を引いて探し、落し物があれば拾って走って追いかける。子供が泣いていれば励まして笑顔にする。見た訳では無いが恐らくこの女はそれらを純粋に実行できる女だろうと思う。
悠貴と付き合えているのがいい例だろう。悪い父親という訳では無いが基本的に高校を3日でやめた族上がりで手の速さや口の悪さは純粋なチンピラ同然。
派手な脱色こそ無くなったがかつてはピンクや緑に一日で変わっていたという髪色、ピアスの穴も多く絶賛未成年でセッタのカートンが部屋に転がってる時点でお察しだろう。
周りの目からすれば麗奈は弱みでも握られているか優しいところに付け込まれてるようにしか思われない。言ってしまえばそれくらい不釣り合いなのだ。勿論顔が良くて努力ができるという美点もあるにはあるのだがパッと見じゃ理解できようもない。だが麗奈は真剣に悠貴を愛しているようだ。どこに惚れたかなんて声帯の出来ていない赤子の口では聞けやしないが何気にすごいことだと思う。
この間ベビーカーに乗せられて近場の公園を散歩していた時もそうだ。
ランニングコースの付いた広めの公園の中で芝の感触をタイヤ越しに感じていた時、目の前を横切った3〜4歳くらいの男の子が派手にすっ転んだ。
男の子は当然泣きじゃくるが近くに両親は居ないらしく、周りで遊んでいた子供やその親族から好奇の目で見られていた。
そんな中でただ1人動いたのは麗奈だった。麗奈は俺に「少し待っててね」と言ってベビーカーのロックをかけるとカバンから小さなポーチを取り出して男の子に駆け寄った。
「ねぇ君、大丈夫?」
声をかけると男の子は涙ぐんだ顔で麗奈を見て瞳をうるうるとさせている。返事はないがどうやら膝を擦りむいただけのようで麗奈は少しじっとしててねと言ってポーチからウエットティッシュと絆創膏を取り出した。ウエットティッシュで傷口周りの土と血を拭って絆創膏を貼り付ける。
「もう大丈夫だよ、立てる?」
「……ぅ、ん、立てる…」
「そっか…強いねそれじゃあ今度はコケないように気をつけるんだよ?」
「ありがと…おねぇちゃん」
男の子は照れくさそうに手を振って来た道を戻って行った。
周りの人間は何事も無かったのように遊び続ける中、コケた子供に手を貸せる。当たり前の親切心だが果たしていざ自分が同じ状況になった時に動くことは出来るか?と聞かれて俺は容易に首を振ることは出来ない。
周りにいる人間達と同じ1部になると思う。人間は自分第1でいざ人のために動こうと思うには周りからはみ出す勇気がいるのだ。それを臆さずできる麗奈は実はとてもすごい人なんじゃないだろうか。そう思った日だった。
それ以外でも瑞希がいる時なんかは率先してコーヒーを沸かして差し出していたし、頼まれたことは断らずに行う。産後すぐの人間にやらせることでは無いのではなかろうかと思うほどに率先して動くのだ。よく言えば優秀悪くいえば落ち着きがない。ひたすらに他人の喜ぶことのために動き続ける。
……善人を超えてただの病気じゃないか。
何が彼女をそうつき動かしているのかは分からないが俺としてはいつかは自分の中の善人とやらに潰されてしまいそうだと思う。
それほどまでに自分を顧みず行われる偽善を悠貴や瑞希は抑えようとしていた。産後の彼女だということもあるだろうが悠貴はこの病的な偽善を理解しているようで、悠貴が率先して麗奈の仕事を肩代わりして行く。正直に言うと口が利けないことをこれほどまで厄介に思うとは思わなかった。
まぁ口が利けるからって「どうしたん?話聞こか?」とかいう全身キノコ(優しい比喩)みたいなセリフは出せる気がしないが。
そういえば麗奈はまだ在学中になっているらしい。
しばらくすれば復学することになるようだ。あの性格での学校生活なんてろくなもんじゃないだろうがそれなりに苦労するだろう。
悠貴の方は3日で学校を辞めているので問題は無いが、麗奈はそういうわけじゃない。復帰の時には悠貴に仕事の時間を減らしてもらう事になるみたいだ。むしろまぁその為にここしばらくの働き詰めを行っていた節もあるようなので悠貴はその話の時には任せろと言っていた。
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麗奈が復学し始めた日から悠貴と二人の時間が増えるようになった。男二人の空間なんて花も思い出も無いので語ることは無いが、タバコを片手にミルクを飲ませる姿はなんだかシュールだった。
頼むからその灰落とさないでくれよ…?
頭の中で唱えながら悠貴に意識を向ける。彼はまぁ良くも悪くも変わらない。そうコロコロ変わる性格でもないし一つ一つの物事を大きく受け止めるタイプなら3日で学校も辞めないだろう?それになんとも考え方も瑞希に似ている。全くもって親子だ。
2人で麗奈を待って麗奈が帰ったら悠貴が交代で仕事に行く。これがここ一週間程の日常となっていた。
夜勤のバイトから帰って俺の世話をするってのは可哀想なので俺は極力寝ている。もちろん腹が減っても泣くことは無いしクソだってプリプリさせちゃってるが匂いで気づかれるまでは放置してる。手間がかからない僕ってすっごく良い子〜わぁーい!
……虚しくなってきた。
35歳のおっさん(中身)がぷりぷりジョバジョバ漏らしてバレるまで置いとくのって結構メンタル来るマジで。
という話は置いておいて。
最近麗奈の様子がおかしい。
行動言動はいつも通りだし別段変わったか事をしてる訳でもない。
だが細部で少し抜けたようなところが多くなったように見える。母親特有の病み期と言うやつなのかもしれないが、学校に通い直したあたりから雰囲気がおかしいように思う。同年代の中で子持ちのママというレッテルなんてあればそりゃ勿論クラスでは浮くだろう。
明確ないじめがあるかなんて判断はできやしないが0ではないのが確実だと思う。
悠貴と麗奈の会話で聞いたのは麗奈の復学は親父さんのご意向らしい。
親としては子供に高卒という肩書きを渡したいだろうし分からなくもないのだが、普通に考えて今の状況から復学すれば白い目で見られるに決まっているのだが…まぁそれが分かる親なんていやしないのも理解している。子供を持って母親になろうがあくまで18の高校生なのだ。
社会的権力なんて親の名の元にしか効力を発揮しない。
仕方がないことではあるがやはりそういうのは気に食わないものだ。自分の価値を認められていないような気になる。親の力が無ければ何も出来ない未熟な弱者というレッテルに虫酸が走って人は皆反抗期というものを迎えるのだろう。おじさんになったから理解出来ることである。
今の麗奈の心理状況を察することは出来ないが、まぁ多分その日は刻一刻と近づいているのだろうと思う。
まともな発音ができる訳でもない口で
何時あなたは僕を置いていくの?
と聞ければ随分と楽かもしれない。
勿論それが出来る訳でもないので俺はただ、過去の自分に思いを馳せながら、一日でも長く限られた家族の時間を続けて行けるようにと願った。
___
隙間風が冷たくなる季節が近づいてきた。生後3ヶ月にもなる俺の体はガラガラだったベビーベッドに詰まるようにして膨らんできている。子供の成長というのは恐ろしい。
秋が終わり冬へと移変わろうとする11月の第3日曜日。クリームパンのような腕と縮んだフランスパンのような指を巧みに使いデカいLEGOブロックでモンサンミッシェルの建造に取り掛かっていた俺を麗奈は穏やかな表情で眺めていた。
なんとなく気になって麗奈を見つめると麗奈は一瞬キョトンとした後に俺の頭を優しく撫でた。聖母マリアのような穏やかな微笑はどこか儚げで見るものを惹きつける美しさを伴っていた。だからこそ気づいてしまった。
これが最後なのだろうと。
麗奈は俺の考えを知ってか知らずかよっと立ち上がるとテーブルに置かれた紙に一言何かを書き記して
「お買い物行ってくるね」
と俺に言い残した。俺はそんな麗奈を見つめ、左手を掲げて軽く振ってやった。
玄関口に向かった麗奈は俺の仕草に気づくことなく靴を履く。出かける時にいつも持っていたポーチを肩にかけてくるっと振り返った麗奈の表情は軽やかな笑顔に見えるのにその実ひどく悲しそうな顔をしているように見えた。
なにか思うところがあったのか玄関の取っ手に手をかけて動きが止まる。縋るような瞳で俺を探して見つけようとする。俺と目が合うと一瞬表情を変えて、やがて戻した。そして崩れるような笑顔を浮かべて
「いってきます」
と言った。
俺は多分この瞬間、この表情を生涯忘れられないだろう。母の愛と人の愚かさをミキサーにかけてグチャグチャにすり潰して滲んだような表情を。自らを優先した後悔、苦痛から逃れられる開放感、自分が行おうとしていることへの苦悩全てを顔に滲ませて絞り出した言葉だったのだろう。
分かってはいたが…それ以降麗奈が戻ることは無かった。最後に残った手紙には
「ごめんなさい。琉斗をお願いします」
とだけ書かれていた。
今はもう残っていないアメスピに焼かれた指の焦げ跡が酷く疼いた気がした。