00 プロローグ
この物語に登場する団体名人物名土地名はフィクションです。
見る人によっては不快な気分になる描写があります。
静かな校舎に足音が響く。
一段また一段と階段をのぼり進めて行けば目の前には古びた鉄製の扉が見えた。
人の気配がないこの高校は俺の母校であり、二、三年程前の夏に校舎の取り壊しが決まって今や無人の廃校である。
この校舎に別段思い入れも無ければ思い出すのは嫌な事ばかりで、正直あまり来たいと思う場所でもなかった。
ならなぜ俺はここに居るのだろうか、答えは簡単だ。都合が良かったからだ。
かつては無断で立ち入らないように施錠がされてあったであろう頑丈な鉄扉は、施錠用の南京錠は錆び付いて古くなっており、非力な自分の力でも簡単に壊すことが出来た。
学生時代のトラウマを払拭しようと就職活動で躍起になった挙句失敗。諦め悪く派遣職に着いて働き出しても人間関係と労働環境に耐えられず逃げ出した。
俺は腐っていた。
外の世界に希望が持てずに部屋に閉じこもった。部屋の中には自分を傷つけるものがなかった。使い古した布団が、ネット世界の賢者が、スイッチひとつで心地よい温度にしてくれるエアコンが、全てが俺を傷つけなかった。優しく守ってくれるようでもあった。
俺は外に出る理由をなくした。
そうして醜く変わり果てた俺はその部屋から10年と出てこなかった。俺は今年で35になるらしい。歳なんて考えたくもないがマメな祖母がカレンダーの俺の誕生日に35と書いているのをみればいやでも理解する。何かを期待してくれていたのだろうか、そう思うと頭の奥の方からジワジワとナニかが蝕んでいくような感覚がして考えるのをやめた。
曾祖母と祖母との3人暮らしで数年前に曾祖母が死んだ。祖母もどんどんと歳を取って体のあちこちにガタがくるようになった。
支えてあげなければならなかった。でも俺にはどうすることも出来なかった。外の世界が怖い俺には祖母を守ることが出来なかった。
そして先日。祖母が死んだ。
原因は通院の最中に信号を見誤ってT字路から出てくる車に突っ込んだらしい。
突っ込まれた車には子供を含めて4人乗っており、子供二人は死亡、運転手の男は重症、助手席の女は男に庇われる形だったために比較的軽傷ですんだが衝撃で腕を折った。被害の大きな事故だったために夕方のワイドショーに乗り、お偉い学者さん方が「高齢者の免許を早急に取り上げるべきだ」などと好き勝手に述べていた。
若い頃は生気の有り余る人で「死ぬ時は最大限人に迷惑かけて死んでやる」と冗談めかして言っていたが実際にやってくれやがったから笑えもしない。
それでも祖母は唯一の家族だった。その家族が死んだ。本当は俺が連れていけばそんなことは起きなかった。
俺が外に出ることが出来れば世間は高齢者ドライバーが犯した罪だと囃し立てることもなかった。
罪は罪。それでも自分の肉親が世間から白い目で見られることに耐えられなかった。そして俺は生きる理由がついに分からなくなってしまった。
そして今俺はここにいる。
重い鉄扉を押せば隙間から夕日が漏れて目に入った。燃えるような赤い夕日は普段であればとても綺麗なものであっただろうが、今の俺には祖母の俺に対する怒りのように思えて目を逸らした。
ただでさえも勇気を振り絞って外に出た俺への評価は散々だった。俺のような汚らしく、体重が3桁に近いデブは余程目を引くようで、ここまで来る道ですれ違った人には露骨に目を逸らされたり、クスクスと笑われたり、鼻を抑えるジェスチャーをされたりとかなりメンタルに来た。また同じ道を変える勇気は持ち合わせちゃいない。
だから今持つべき勇気は、夕日の輝くこの空に我が身を投げ出すための勇気だった。これでやっと全てが終わる。価値を見いだせなかった自分の人生に終止符を打てる。心が軽くなったように、羽でも生えたかのように、自分自身にそれ以外の選択肢を許さなかった。
重たい体を引きずるように錆びて朽ちた柵に近づくと、秋の少し冷えた風が体積のでかい俺の体を揺らした。
近づいてくる結末にここに来て足が震えてきたようだ。頭で理解していても体がついてきてくれない。奥歯が小刻みにカチカチと音を出し、暑くもないはずなのに冷たい汗が流れ落ちた。もっともこれは俺がデブだからかもしれないが。
人の作ったレールに乗せられるだけの人生だった。だからいざ自分の力で進み出さなければならないとなった時に動けなくなってしまった、その結果がこれなんだ。
最後の瞬間くらいは自分の力で決める。
それを俺という男のピリオドとする。
「結局また逃げ出すのか?」
声が聞こえた。俺の声だった。この場に来て語りかけてきたらしい。ふざけやがって。
口に出せない悪態を頭の中で返して、すくんだ足を奮い立たせて柵に手を着く。柵は低く、屋上に人が来るという前提が無いためにか短い俺の足でも跨ぐことが出来るものだった。恐怖を押さえつけて策を乗り越えて校舎の端に立つ。目に入る風景は校庭と自分の住んでいる街。思い出なんて輝いたものはないがそれでも馴染みの街だった。
「ハァッ……ッ!!ハァッ………ッ!!」
自然と息が荒くなる。目の奥がチカチカとスパークを放つ。カチカチだった歯の音が大きくガタガタという音に変わってくる。ズボンが湿ってきたのは汗のせいだと信じたかったた。
「逃げるんだな」
「うるせぇよ…」
また聞こえた声に今度は震える声で返す。
聞こえてくるもう1人の俺の声は呆れているようにも、愁いでいるようにも聞こえた。
「やり直したくないか?」
やり直す?出来るものなら。こんなクソみたいな人生を、クソみたいな俺を変えれるなら。やり直してもいいと言ってくれるのなら。俺にその価値があるのなら。
「やり直すか?」
再度声は語りかけてくる。答えなんてYesに決まっていた。
「やり……直し…たい…」
震えながらも絞り出すことが出来たその声はなんと弱々しかっただろう。自分の意見を誰かに伝えるなんていつ以来だろうか。
引きこもっていた頃に家族に吐いた言葉が意見に含まれるのなら割と最近の物になってしまうが。聞こえてくる声は納得したようだった。
というか俺は誰に言葉を返していたんだろう。心の声に言葉で返して居たのなら一人でいた時間の長さを実感してしまう。だがどうしてもその声は俺の後ろからした気がして仕方がなかった。
気になることを残していては死んでも死にきれないと振り返ろうとした時、
俺の体は空に投げ出されていた。
振り返る直前に肩に衝撃があった。押されたのだ。誰に、何のために、一体なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ
頭が疑問でエラーを起こす中で地面が目の前に迫っていた。生への醜い執着が頭を埋め尽くす。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない
「死にたくな」
グチャっと嫌な音が響いて。冷たい水の底に沈んでいくような感覚に浸りながら、神田琉斗クソみたいな人生は驚く程簡単に幕を閉じた。