第十八話 重なる思い
分厚い鉄の扉越しに、びちゃびちゃと不気味な音が聞こえる。
良太と美鈴が逃げ込んだ機械室には、幸いなことにグロブの姿はなかった。
扉を厳重に施錠すると、二人は床に座り込み、ようやく息を付く。
「う、く……」
「痛いよね。でも我慢して!」
窓の無い真っ暗闇の機械室。美鈴はLEDライトを口に咥えて良太を照らしながら、左腕と右太ももの傷口の治療に取り掛かった。
良太の衣服を脱がし、傷口を改める。
着込んでいたレインウェアが刃を防いだため、見た目ほど傷は深くない。
けれど、凶器の肉切り包丁は工場の作業場から持ち出された物だ。どんな菌が潜んでいるか分からないので、消毒は念入りに行う。
少年が苦悶の声を漏らすが、少女は一切手を抜かない。
清潔な布を傷口に押し当て、包帯で硬く緊縛する。とりあえず、これで出血は抑えられるだろう。
だが、浅いとはいえ縫合が必要な傷だ。なるべく早く、医者に手当てを受けさせねばならない。
顔の傷は見た目こそ痛ましいが、そう大した傷ではなさそうだ。
頭部を殴られており予断は許さないが、一先ず鼻血と口元の血を拭ってやり、腫れた頬を濡らしたタオルで冷やしてやる。
一通りの処置を済ませると、二人は疲労も露わに床に割り込んだ。ライトの光をペットボトルに通して乱反射させ、ランタン替わりにする。
「…………ごめんね、りょーちゃん」
すると、ぽつりと美鈴がそんな言葉を口にした。
「どうしたのスズ? なにも謝ることなんてないよ」
意気消沈し、今にも泣き出しそうな表情の美鈴に、良太が優しく声を掛ける。だが、少女は力なく首を振ると、
「私が、あの人を助けようなんて言い出したから……」
小崎を招き入れてしまった己の判断を悔いる。
あの男と接触しなければ、二人は今でも無事に衣料品店に立てこもっていた筈なのだ。
この危機を招いたのは、本を糾せば自分の我儘の所為だと、少女は真剣に謝罪する。
「……正しいことをした人が、謝る必要なんてないんだよ」
だが、良太は春風のような微笑みを浮かべると、美鈴に話しかける。
「きっと僕一人なら、あの時小崎さんを見捨てて逃げたと思う。でも、スズはあの人を助けようとした。その行いが間違いだったなんてことは、絶対にない」
断固たる口調でそう言い切ると、少年はそっと手を伸ばし、少女の手を取った。そして、
「いつも元気で、明るくて、まっすぐで……そんなスズだから、僕は一緒に居たいんだよ」
心から溢れる思いを、そのまま言葉にする。
「あぅ……」
満腔の思いを込めた告白に、美鈴は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
手袋を外した少年の手には、包帯が巻かれている。
我が身を省みず少女を助けた、勇気と愛情の証だ。
「うん……私も、りょーちゃんとずっと一緒に居たい」
少女は切々とそう呟くと、少年の手を優しく握り返した。
暗闇に支配された機械室。扉を隔てたすぐそこには、人肉を啜る肉塊が蠢いている。
しかし、良太と美鈴はこの上ない幸せの中に居た。
愛する人と、心が通じ合う喜び。
ほんの僅かの時間であったとしても、この一瞬は彼らにとって永劫なのだ。
「……喉、乾いちゃったね」
手を繋ぎ、心を重ね、至上の幸福に遊んでいた二人であったが、暫くして、美鈴が照れたようにそう言いだした。
「ああ、うん。動き回ったし、汗も沢山かいたからね」
「――う! 大丈夫かな、匂ってないかな? 昨日からお風呂入ってないし……」
「スズは何時も部活で汗みどろじゃないか。僕は気にしないよ?」
「私が気にするの!」
危機的な状況にあるとは思えないほど、のんびりとした会話を交わす二人。
小崎が撒いたプリザーブXが無くなれば、グロブは次に美鈴を狙うだろう。
機械室の扉は頑丈だが、金属製のため酸には弱い。
またそれでなくとも、三百キロを超える巨大グロブが体当たりを仕掛ければ、何時かは扉も破られるだろう。
だが、そんな事実は今の良太と美鈴にとって関係がない。
死を受け入れた訳ではない。二人は生を決意したのだ。
どんな困難が襲いかかろうとも、最後の時まで二人で懸命に抗い続ける。
覚悟が定まれば、狼狽える理由もない。グロブが扉を押し破れば、彼らは再び生きるために戦うだけだ。
「はい。りょーちゃんの分だよ」
リュックサックを漁っていた美鈴が、笑顔と共に良太にペットボトルを差し出す。
「ありがとう。――ってこれ、柿葉茶じゃないか!」
さっそく飲み物を口にした少年が驚喜する。
ペットボトルに詰められていたのは、少年の大好物である柿葉茶だったのだ。
「こんなの何処で手に入れたの? ――あ、薬局か!」
物資の確保に訪れた薬局で、美鈴が健康茶のコーナーを物色していたのを思い出す。
工場に赴く前の僅かな準備時間に、少女は少年の為に茶を淹れていたのだ。
「ありがとうスズ。ホントに美味しいよ」
口中の切り傷を避けながら、ゆったりと茶を啜る良太。慣れ親しんだ味だが、美鈴が用意してくれたなら格別だ。
そうして少年が茶を楽しんでいると、
「うう。やっぱり私は苦手だなぁ……」
と、美鈴の苦々しい呻き声が聞こえる。
見れば、少女は柿葉茶のボトルをもう一つ取り出し、渋面を浮かべながら飲んでいるのだ。
「どうしたの? それ嫌いじゃなかったっけ?」
良太が微笑みと共に尋ねる。
これほど仲の良い二人だが、不思議と食事の好みだけは完全に正反対であり、片方の好物はもう一人が酷く苦手にしていることが多い。
にも関わらず、少女は柿葉茶をごくごくと飲んでいる。
「お水まだあるよ? こっちにしたら?」
ランタン替わりに使っているのは、傷口の洗浄に使った水のボトルだ。柿葉茶と交換し、無理をせずそれを飲めばいいと少年は勧める。すると、
「……だって、やっぱり好きな人と、同じものを飲みたいじゃない?」
少女は頬を桜色に染め、弾けるような笑顔でそう答えた。
「――っ!」
その愛らしい笑顔に当てられ、良太の鼓動がどくりと跳ね上がる。
顔を真っ赤にした少年を見て、少女もまた己の告白に赤面してしまう。
そうして暫く無言の時間が流れたが、
「ねえスズ。この騒動が終わったら、今度また唐揚げを作ってくれないかな――あ、もちろん、ちゃんとした鶏肉でだよ」
と、少年が照れたように話しかけた。
「僕も、スズと同じものが食べたいんだ」
微笑みかける少年は、心よりの愛情に輝いていた。
「……うん。一緒に、いっぱい、いろんなものを食べようね!」
少年の告白に、少女も顔を輝かせて応じる。
愛を確かめ合った二人は、飽きることなく何時までも、幸せな会話を楽しんだ。




