第十七話 死の襲来
狂猛な殺意をむき出しにした追跡者に、良太と美鈴は背筋を凍らせる。
「わ、私、戦えるよ!」
悲壮な決意と共にそう宣言したのは美鈴だ。
傷だらけの少年は歩くのも辛そうにしている。このまま小崎に追いつかれれば、抵抗できるのは少女しかいない。
凶器を持った成人男性が相手だが、それでも美鈴は怯まない。少年を守るためなら、己の危険など頓着しない少女である。だが、
「早まっちゃだめだよスズ。……タオル持ってたよね。足の傷を縛ってくれる?」
と、少年は冷静な声で諌める。
出血により顔色が悪いが、それでも彼は意識をしっかり保ち、懸命に思案を巡らせている。
「裏口の方から入ってきたみたいだ。まだ距離はある。隠れてやり過ごそう」
少年は痛む足を引きずりながら、作業場へ続くクリーンルームの前へと進む。
そこで立ち止まると、美鈴に頼んで太ももの裂傷を緊縛してもらう。
如何にも二人が作業場に逃げ込んだように、床に残る血痕で小崎を誘導するのだ。
作業場は広い上に機械が大量に設置してあり、見通しが非情に悪い。
窓が少ないため薄暗く、小崎も混乱するだろう。
グロブに周囲を取り囲まれている以上、二人の姿が見つからなければ避難を優先するかもしれない。
「プリザーブXは後回しにしよう」
二人は偽装を済ますと、作業場とは逆方向へと足早に進む。冷凍室や機械室があるエリアだ。
「一先ず、ここで……うっ!」
「りょーちゃん!?」
だが、血液を失った上に、激しい運動をしたためだろう。
良太は急な眩暈に襲われ、足を縺れされて転倒してしまった。
悪いことに、少年は倒れた際に、廊下に置いてあったスチールワゴンを倒してしまう。
薄暗い廊下に、金物が打ち合わされるけたたましい音が響く。
「そこかっ!」
異音を聞きつけ、小崎が叫んだ。慌ただしい足音が聞こえる。完全に位置を補足されてしまった。
「りょーちゃん頑張って!」
「僕が一緒だと追いつかれる。スズだけでも逃げて!」
「そんなの出来る訳ないよ!」
迫り来る小崎を前に、二人が言い争う。
現在位置から出入り口は遠い。別の部屋に入り込み、窓から外に出るしか逃げ道はない。
しかし、手負いの良太を連れていてはそれも不可能だ。
「見つけたぞっ!」
そうこうしているうちに、二人に眩いライトが向けられる。
「殺してやる。殺してやる……」
廊下の向こうに姿を現した小崎。その相貌は一変していた。
美鈴に投げつけられたビール瓶で額が切れ、顔が鮮血に染まっている。その上、怒りの余り正気を失っているらしく、目はつり上がり、歯をむき出しにして、まるで鬼の形相である。
「逃げられると思うなよ。二人纏めてズタズタにしてやる……」
小崎の左手には、事務所内から持ってきたライトが、そして右手には工場でくすねた肉切り包丁が握られている。
男は廊下の端に追い詰められた二人を威圧するように、一歩一歩緩慢に進んでくる。
「く、来るな! ぶちのめすよ!」
と、美鈴が壁に立てかけてあったモップを掴んで吼える。
逃げ場はない。戦ってこの男を倒さねば、確実に殺される。
とはいえ、幾ら美鈴が身体能力に優れているとはいえ、成人男性と少女では腕力に差がありすぎる。武器の殺傷力も段違いだ。まともに遣り合っても、勝ち目は薄いだろう。
「待って、待ってください小崎さん! なぜ僕らを殺そうとするんですか!? 理由を教えてください! グロブに狙われない僕は、貴方にとっても利用価値があるでしょう!」
すると、少女の隣にいた良太がそう叫んだ。
会話で少しでも時間を稼ぎ、事態の打開策を考えるつもりだ。
「…………」
その問いを耳にして、小崎が立ち止まった。激昂しており会話は不可能かと思われたが、多少は冷静さも残していたらしい。
「……お前らが、知りすぎたからだ」
と、小崎が意外に平静な声でそう呟いた。
「この災害に俺が関与していた記録は残さない。お前たちは殺すし、この建物にも火を掛ける。利用したのは悪いと思ってる。だが、薬を手に入れた以上、お前は用済みだ」
死刑囚に判決理由を告げるように、小崎は淡々と言葉を紡ぐ。
だが、内容には些かの齟齬がある。災害に関与していたとは、いったいどういう意味なのか。彼は災害を止める為に、データを欲していたのではなかったか。
「まさか、あなたは……」
勘の良い良太が、顔面を蒼白にして呟く。
「あなたは、この工場の職員じゃなかったんですか!?」
詰るような少年の問いかけに、
「ああ、俺は橘花食品の社員だ。此処の連中に薬を使うよう強制した、本社の人間だよ」
小崎は自嘲の笑みを浮かべて答えた。
「な――馬鹿げてるっ! そんな事で、ホントに事態が隠蔽できると思ってるんですか!」
良太が声を震わせて怒鳴りつける。
この災害が終結すれば、政府や警察は徹底的に事件の原因を探るだろう。
そうなれば、食品会社の関与は必ずや明るみになる。薬剤がどのような経緯で鶏肉に用いられたか、なぜグロブの発生を隠匿したのか、何から何まで調べ上げるだろう。
勿論、関係者も一人残らず聴取を受ける筈だ。
この工場を一つ燃やしたところで、小崎が司直の手を逃れられるとは思えない。だが、
「ここの連中が垂れこもうとしていた告発書の中に、俺の名前が入ってるんだよ。グロブの発生を握りつぶした、忌々しい本社の人間としてな。――それさえ消せば、知らぬ存ぜぬで切り抜けることもできる」
と、小崎は嘯いた。
男は最初から、事件に己が関与した証拠を消すために行動していたのだ。事故を起こしたのも、工場に向かう道中を急いでいたからだ。
そして、そこで偶然出会った良太がグロブに狙われなかったため、己の計画に巻き込んだのである。
「もういいか? 抵抗しなけりゃ痛くないように殺してやる。死体は二人一緒に並べてやるよ」
包丁をぎらつかせて、そう嘲る小崎。
「りょーちゃん下がってて」
美鈴は覚悟を決め、モップを構える。
「……いや、スズの前で恰好悪い事できないよ」
そんな少女の隣に、傷を負った少年が並んで立つ。
どんな窮地に陥ったとしても、決して諦めない。
最後まで、二人は共に生き延びる未来を探す。
「ちっ……」
澄明な男女の決意は、しかし小崎にとっては鼻持ちならない抵抗にしか映らなかった。
男は舌打ちを一つ打つと、包丁を構える。
薄暗い路地に張りつめた空気が漂う。もはや衝突は不可避と思われた。その時、
「な――」
一触即発の事態にも関わらず、居合わせた全員が驚愕に動きを止めた。
「くそっ! 入ってきやがったか!」
小崎が叫ぶ。
廊下の奥から、濡れた雑巾を床に叩き付け、引きずったような、びちゃびちゃズルズルという異音が聞こえる。
敷地に入り込んだグロブたちが、生存者を嗅ぎ付けこの工場に押し入ってきたのだ。
「っ……」
進入路は正面扉だろう。一同の居る場所は奥まった通路の突き当りで逃げ場がない。
お互い殺し合いに気を取られて、グロブの脅威を忘れていたのだ。
「――まあいい。こうなったらお前らの処理はグロブに任せるか」
だが、小崎は瞬時に動揺を抑えると、不穏な事を呟いた。
そして男はライトを床に転がすと、空いた左手をリュックサックに伸ばす。
取り出したのは、プリザーブXが入ったボトルだ。
「死ね」
小崎はボトルの口を開け、二人に向けて投擲の構えを取った。
良太がいくらグロブに狙われないといえども、薬剤を直接掛けられてはその限りではない。小崎は二人を生贄に捧げ、工場からの脱出を図るつもりなのだ。
「きゃ――」
だが、美鈴は小崎には反応せず、悲鳴を上げて身を竦ませた。
これ幸いと、男が薬剤を放り投げる。
だが、その手からボトルが離れるその刹那。
――凄まじい衝撃が小崎を襲った。
「何っ!?」
なすすべも無く廊下に倒れ込む小崎。
その身体の上にプリザーブXのボトルが落ち、薬剤をぶちまける。
「何だこいつは! うわあぁ、やめろ! 離れろ!」
小崎が悲鳴を上げる。
彼に突撃を仕掛け、地面に押し倒したのは、畳一枚ほどはあろうという巨大なグロブだ。
桁違いの質量と速度を持つ巨大グロブが、なんと廊下の奥から這い寄っていたのだ。
良太と美鈴の動向に注視する余り、背後から迫る怪物を小崎は感知できなかった。
「やめろ! 助けて! うぎゃあぁああああ!」
自らの上にプリザーブXを溢してしまった為、他の小型グロブまで押し寄せてくる。
見る間に、小崎の体は醜悪な肉塊によって埋め尽くされてしまった。
廊下を寸断するように現れたピンク色の小さな山。
周囲には小崎のくぐもった悲鳴が木霊し、何かが焼ける異様な匂いが充満する。
男は良太らと同じレインウェアを着込んでいたが、グロブに此処まで隙間なく張り付かれては効果もあるまい。そうでなくとも、数百キロを超す肉塊に押し潰されているのだ。救出はまず不可能である。
「う……」
知人がグロブに焼き溶かされる姿を目の当たりにして、美鈴が吐き気を催す
しかし、どうすることもできないままに小崎の悲鳴は擦れていき、やがて途絶えてしまった。
「…………」
「――スズ! スズ! ここにいちゃ駄目だ、避難しよう!」
虚脱する美鈴の腕を引き、声を掛けるのは良太だ。
集まったグロブは廊下を埋め尽くさんばかりの数になっている。
今は小崎が溢したプリザーブXに夢中になっているが、それが無くなれば次に狙われるのは少女だ。
廊下を突っ切るのは自殺行為である。良太と美鈴は背後にあった機械室へと逃げ込んだ。




