第十五話 凶刃
薄暗い室内に、振り抜かれた包丁が鈍い光芒を描く。
小崎が突如として、手にした肉切り包丁で良太を斬りつけたのだ。
「う――」
首筋目がけて迫る刃を、良太は反射的に腕を上げて防ごうとした。
「ッ……」
凄まじい衝撃が腕と身体に走り、少年はバランスを崩して後方に転倒する。
左腕が痺れて感覚が無い。見れば、レインウェアから鮮血がしたたり落ちている。
「う、痛ぁ……」
傷口を確かめると、途端に灼熱感と激痛が良太を襲う。訳の分からないまま小崎に襲われたことで、頭は酷く混乱していた。だが、
「クソ! 大人しくしろ!」
少年は苦痛に泣き叫ぶことさえ許されない。
先の攻撃で仕損じた小崎が、再び襲い掛かってきたからだ。
「うわああぁぁぁっ!」
刃物を振りかざし凄まじい形相で迫る男に、良太は腕の痛みも忘れて逃げ出す。
颯、と空を裂く音。
小崎の振るった二撃目が、背中のリュックサックを切り裂いた。
「――なん、なんで!?」
パニックに陥りながらも懸命に逃げる良太。
小崎は明確な殺意のもと、その背中を追いかける。
「くっ……」
物が散乱した床を踏み越え、事務所のドアを体当たりするように開ける。
そしてそのまま廊下を疾走し、事務棟の外を目指す。
後ろにはぴったりと小崎がくっついてきている。
良太はあまり運動が得意ではない。成人男性の脚力から逃げ切るのは不可能だ。
それでも少年は懸命に走り続け、事務棟の正面扉から外へ出た。
途端に、少年の瞳が驚愕に見開かれる。
「グロブ! そんな――」
フェンスを乗り越え、焼き溶かし、或いは隙間から身をねじ込んだのだろう。
施設の敷地内には、ピンク色の肉塊が多数這いずり回っていた。
「待て!」
背後から小崎の怒声が聞こえる。
少年は躊躇なくグロブ目がけて走り出した。
グロブは良太を狙わない。追跡を躱すのに格好の盾になる。だが、
「な――!?」
こちらを無視するだろうと思われたグロブたちが、なぜか一斉に少年目がけてにじり寄ってくる。
そこで初めて、良太は己の失策に気付いた。
「しまった! 鞄が……」
慌ててリュックサックを降ろしてみれば、裂け目から白い粉が漏れている。
小崎が包丁で切り付けたために、プリザーブXの保存容器が破損したのだ。
「くっ!」
今にも飛びかからんと迫り来るグロブを前に、良太は寸でのところでリュックサックを遠方へと放り投げた。
途端に、肉塊どもはそれを追って遠ざかっていく。
一先ず、グロブの脅威は退けた。その安堵感が、少年に隙を作らせた。
「うわっ!」
凄まじい衝撃が下半身を襲い、良太は抗することもできず地面に倒れた。
見れば、小崎が少年の両脚にしがみ付いている。強烈なタックルを見舞ったのだ。
「やめろ! 離せっ!」
大声で叫んで身を捩るが、拘束はまったく緩まない。
それどころか、小崎は慣れた手つきで馬乗りへと移行すると、少年の顔面を強かに殴りつけた。
「うぐっ!」
目の奥で星が瞬く。暫し良太の意識が混濁する。
その隙に、小崎は再び肉切り包丁を取り出していた。
「な、何で……」
「悪いな」
少年に馬乗り姿勢になったまま、小崎が包丁を振り下ろす。
「っ、抵抗するな!」
刃が胸に突き立てられるその刹那、良太は信じがたい速度で両手を伸ばし、小崎の腕を付かんだ。
明らかに体格で劣る良太ではあるが、火事場の馬鹿力を発揮して、ぎりぎりの所で包丁を押し留める。そして、
「く……何で、理由を教えてくださいっ!」
命の危機に瀕しても尚、少年の口からはそんな問いが零れた。
小崎が裏切る理由が、皆目わからない。
薬を手に入れ、当面の安全は確保できた。物資の確保も手間取らないだろうし、上手く警察や自衛隊に渡すことができれば、事件解決の糸口にさえ繋がる。
万事、上手くいっていたのだ。なのに何故、男は少年を殺そうとするのか。
「……お前たちは知りすぎたんだ」
そう呟きながら、小崎はさらに力を込めて包丁を押し込む。
良太の抵抗も虚しく、刃の切っ先がレインコートに触れる。もとより腕力で劣るうえに、左腕は怪我をしている。再び押しのけることは不可能だ。だが、
「お前、たち?」
小崎の言葉に、良太の表情が変わった。
小崎は良太のみならず、美鈴もその手に掛けるつもりだ。その事実が、少年の闘争心に火をつけた。
「やああぁぁっ!」
少年は残る力を総動員して、全身を海老反りに逸らせる。包丁が胸を突くが、レインコートのお蔭で刺さりはしない。
そして少年は体を捩ると、小崎の股間に膝をねじ込んだ。
「ぐぉ……」
急所に痛撃を喰らい。男がよろめく。
その隙に、良太は拘束を解いて逃げ出そうとした。だが、
「この糞ガキィ!」
「――うあ!」
怒鳴り声と共に、小崎が力任せに肉切り包丁を振るった。
そしてその刃は、立ち上がろうとしていた良太の腿を切り裂いた。
「ぐ……」
途端にバランスを失い、尻餅をつく少年。
「てめえ舐めた真似してくれるじゃねえか!」
予想外の抵抗に合い、小崎は激昂している。
倒れた良太を引き起こし、意趣返しのつもりか包丁の柄で顔面を二度三度と殴りつけた。
少年は鼻血を噴き出し、口元から血を垂れ流すも、両目だけは刃のような鋭さで小崎を睨みつけている。
「スズに手を出したら、殺してやる……」
柔和な面差しからは考えられない、心の底からの殺意。
「ッ……」
その剣幕に、小崎が一瞬たじろいだ。
しかし、それが却って冷静さを取り戻してしまったらしい。
男は良太に止めを刺すべく。再び包丁を握り直す。
少年には最早、暴虐に抗うだけの体力は残されていない。
血に染まった肉切り包丁が、少年の喉に押し当てられる。その時、
「――りょーちゃんから離れろ!!」
少女が心の底から発した叫び声が、天地を揺るがせた。




