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ホシゾラノクニ

ホシゾラノクニ カイのこと

作者: たびー

どこかの場所で暮らす、カイとレンの物語。

カイは食べたことのないものへの憧れを募らせる。

物語の始まり。

 重厚な歯車が胸に食い込む。

「……う」

 声と同じくして、カイの唇から血が滴り落ちた。誰かが、止めろと大声で叫んでいる。カイのぼやけた視界にはさっきまで作業していた細い通路がある。

 今日は動力部分の点検と補修が仕事で、天井から吊り下げて設置された通路の先の制御盤まで行こうと……行こうとしていたら、落ちたのだ。

「カイ!」

 あの声は班長のヨンだろうか。機械はまだ止まらない。

 みしっと体が音をたてた。

 幕が下りるように視界が闇に閉ざされた。

 落ちるとき、一瞬なにかを見たように思った。水色の……袴のすそを。



『お花見にでかけましょう』

 小さく読み上げて仰向けにベッドに寝ころんだカイは、腕を伸ばして目の前に広げた摩りきれたページを繰った。

『夏は海水浴』

 次のページには青い水と、何か白っぽいものの上に広げられた敷物、大きな傘。写真でしか見ることのない、小さな人の後ろ姿があった。籐で編んだバスケットと水筒が敷物のうえにある。

「こうよ、……もみ……じ、がりへ、ふあみ……ふぁみり」

 たどたどしく読み上げて寝返りを打つと、二段ベッドのスプリングがきしんだ。ページの中のバスケットをよくよく見る。いや、すでに何度も見ているのだ。すっかり覚えてしまった。

 色とりどりのおかずは食べやすいように一口サイズになっていたり、小さなカップに入れてあったり、取り出しやすいようだ。頼りなく見える皿に、プラスチック素材らしきフォークとナイフが何組か。

 華やかな『お弁当』の作り方は、みひらきページの裏面、白黒で印刷されてある。

 材料、サンドイッチ用の薄切り食パン、卵、きゅうり、ハム、チーズ、トマト。それから塩や胡椒の調味料が数行ならんでいる。

「ねえ、リン。これって何て読むんだっけ?」

 下段のベッドをひょいと覗いて、カイは気づく。空っぽのベッドは整えられ、誰もいない。

「おまえはうるさいんだよ、静かにしていろ」

 わずかな間隔をあけて隣のベッドの下段で電子端末を見ていた最年長のヨンに怒られ、カイは首をすくめて壁の方へ体を向けなおした。

 リンがこの八人部屋から出て行って、もう半年ほどになる。臣民から殿上人の世話係の正八位上へと出世して住まいが変わったのだ。

 リンはたくさん字が読めたから。カイは、ひらがなと簡単な漢字はいくらか読める。そしてカタカナはあやふやだ。もっとも、読めたとしても意味の分からないものばかりだが。

 もうカイに字を教えてくれる者はいない。

「さんどいち、おいしいのかな」

 そういいつつも、カイには美味しいという感覚は分からなかった。薄ぼやけたカラー写真の詰まった料理の本は、なかば背が壊れて今にもバラバラになりそうだったが、カイの宝物だ。

 ほかの皆が電子端末でそれぞれゲームに興じたり、昔の動画を見ているときも、ただひとりページをめくっていた。

 見るたびに思う。こんな緑や茶色のものが食べられるものなのだろうか、と。

 むろん、昔の動画にはこれらとよく似たものを食べている場面を見ることもある。けれど、カイはふだん自分たちが食べているものとつい比べる。もっと、白かったり紫や青だったり、ピンクだったり……なにより、整った形をしていないと。

 食べ物は丸や四角であるはずだ。こんなバラバラの不格好なものが、食べ物? 何度見ても、カイの中ではふに落ちないものが残るのだ。しばし考え、さいごには殿上人の食べ物なんだろう、と結論をつけて本を紙製のケースへと戻し、ベッドサイドの小さな灯りを消して眠るのだった。


『お祝いの日に。お赤飯をたきましょう』


 オイワイ、ってなんだろう。

 色鮮やかな奇妙な見慣れない服装の小さな人が写っている。

 髪を長くし、頭に赤い蝶結びをつけて明るい画面の中に納まっている。

 これもまた、殿上人の姿だろうか。

 ――リンだったら、教えてくれるかもしれない。

 会いたいな……胸の中でつぶやいてみるのだった。


 カイの日常は淡々と過ぎていく。

 部屋のメンバーと割り当てられた、いくつかの仕事を四週で一巡りする。四週を三回繰り返したなら、また別の仕事を回っていく。

 プラントで緑色や茶色のものを作る、チューブの中で作られた『ブタ』や『トリ』と呼ばれるものを捌く、水槽から『サカナ』をすくいあげる。重機の点検修理をする、館内の清掃に当たる。

 今日からしばらくは、掃除が仕事だ。

 カイは掃除が好きだった。ほかの仕事は、ひどく汚れたり重いものを持ったりして疲れるけれど、館内掃除ならば、それほどきつくはない。

 それに、ふだんは窓ひとつない館内の最下層での仕事だけれど、掃除のときにはいくらか上の階層へと移動できるから。何より外が見られる小さな窓があって、真っ黒い中に青い球体が見えるのが嬉しい。

 球体はカイが知るどの色よりもきれいで、いつまでもいつまでも見ていたくなる。

 だから、球体が見える窓を飽きることなく拭いて磨く。

 大きな窓の付いた部屋に住まうのは三位(さんみ)以上の特別な人々だけ。殿上人と呼ばれる高貴な血を引く一族だけだ。リンはその方たちのお世話係として働いている。

 十も二十も年上の同室者のなかで、二人は歳も近く、起きてから寝るまで文字どおり一緒だった。切っても切っても跳ね踊るくせっ毛のカイとは違い、リンは素直な髪を短く刈っていた。少し吊り上がったまなじりが、リンを賢く見せた。

 実際、リンは他の誰よりも読み書きや計算が上手にできた。気づけば、仕事の分担や手順を考えたり指示したりするのは、いつもリンだった。そしてほかの年長者をおさえて、二十歳の若さでリンは班長になった。

 リンが班長になったのは、上からの命令だったから、みんなは文句こそ言わなかったけれど、なんとなくリンへの風当たりが強くなっていくようにカイは感じた。リンの私物が隠されたり、わざと仕事の手を抜いて班長のリンだけが怒られる羽目になったり。

 だから、最下位とはいえ正八位上への抜擢はリンにとって良かったのだ。

 これでよかったんだ、と思うことにしているけれど、もう会えないかも知れないという淋しさから、カイは不意に涙がこぼれそうになることもある。

 けれど、その淋しさも体を動かしているあいだは、思考の片隅へ追いやることができる。カイは埃ひとつ残さず、窓を磨き上げていった。

 出しぬけに天井から、澄んだ音曲が流れてきた。

御成(おなり)だ、道具をかたせ、頭をさげろ」

 班長のヨンが大声で皆に声をかけた。殿上人がやってくるのだ。

 こんな何もない下層部へと足を運ぶことなど、めったにないのに。

 みなは掃除用具を背後にまわし、床にひれ伏した。

 かつん、かつん、と沓音を鳴らして先ぶれの者が二人、床に這いつくばるカイたちの前を通り過ぎると、黒光りする沓がゆっくりと進んで来た。

 まったく隠されている天子さまはとは別に、ふだん臣民はモニター越しにのみ殿上人を見るのは許されている。臣民は直接、殿上人を見てはならないというのは常識だ。カイもわかっている。けれどリンが殿上人に仕えている今、その姿を一目見てみたいとい思った。

 カイは上目づかいに恐る恐る眼前を過ぎゆく、袴よりも裾の長い白い指貫(さしぬき)と青い狩衣をわずかに盗み見た。自分たち臣民が着ている、上下がつながった作業服とはまるで違う。見とれるような光沢がある柔らかそうな布で仕立てられている。

 予期せぬことに、沓がカイの前で止まった。

「おまえ」

 鋭く通る声が頭上からカイを貫いた。途端にカイは両脇から肩を押さえつけられ、顎を激しく床にぶつけた。痛みが脳天まで走る。瞬間、目の前が真っ白になった。

「われを見たな」

「……あっ」

 言い淀むカイの肩を抑える力がさらに強くなった。腕を後ろにねじりあげられ、カイは悲鳴を上げた。

 痛みに体をのけぞらせ思わず開いた両目は、カイの瞳を覗く貴公子がいることに気づかされた。

 抜けるような白さの肌のなかに、強く光る切れ長の(まなこ)はカイをひたと見つめている。

 カイはとっさに目を固くとじ顔を背けた。

「お、おゆるしください……」

 カイの声は震え語尾が頼りなく消えた。

「目が潰れると思うているのか?」

 声の主は面白がるように、カイの顎に手をかけると無理やりに顔を正面へと向けさせた。

「臣民ごときに顔を見せようなどと、悪趣味な」

 別の声が聞こえて足音が近づく。

「目を開けよ。わが命に従え」

 カイは命令に逆らえず、瞼をふるわせながら、わずかに目を開けた。

 (かり)(ぎぬ)から、ふわりと微かに甘い香りがした。

 そこには烏帽子をかぶった青年がカイの目の前にいた。艶めく黒髪を烏帽子から長くたらした青年の顔は鼻筋がとおり、濃い紫色の瞳をしていた。恐ろしいほどに整っている。

「カイ……(みずのと)か」

 カイの作業服の襟に刺繍された「癸」の文字を読み上げると、青年の後ろに立った若者はあからさまに眉を顰め、わずかに広げた蝙蝠(かわはり)で口元を隠した。

「もう少し若ければな」

 とたんに興味を失ったように、カイの顎から手をはずして立ち上がると、供の者たちに先に行くよう指さした。

 痛みから解放されたカイは、床に倒れたまま殿上人を見送った。


「馬鹿が!」

 殿上人が去ったあと、カイはヨンに怒鳴られた。

「とんだ命拾いをしたんだぞ、オレは殿上人をじかに見てその場で手打ちにあった奴を何人も知っているんだ」

 カイは痛む肩をさすり、うなだれた。

「おまえだけじゃない、この班全員が処罰されることだってあるんだ」

「すみ、すみません」

 みなに頭を下げ、カイは何度も詫びた。

 同室の痩ぎすの男が険を含んだ声で言った。

「後から知らせがくるかもしれないぜ」

 ヨンは男をひと睨みして黙らせ、カイの肩に両手をのせた。

「二度と、あんなことはするな。ただでさえリンが抜けてうちの班は七人だ。何かあっても、すぐ戻ってくるとはいえ、これ以上人手を減らしたくないからな」

 ヨンの言葉の意味がわからず、カイは肩の痛みを瞬間忘れた。

 すぐ戻ってくるとはいえ……? リンが戻ってくる? 違う、何かあっても、とヨンは言った。

 まえにも聞いたことがあるような、でもどこで聞いたのか思い出せない気持ち悪さ。

 カイは胸の中に重いものが落とされたように感じた。


 それから数日、カイは生きた心地がしなかった。

 もしも、なんらかの呼び出しが来て罰せられたらと思うと、水の入ったバケツをひっくり返したり、床磨きに使う薬剤の手順を間違えたりした。

 明日からはまた違う仕事、掃除が終わりの日だった。

「カイ」

 床を布ぶきしていたカイは通路の曲がり角から小さく名を呼ばれた。

「リン!」

 そこには、宮中に仕える者たちの装束を着たリンがいた。カイはリンに駆け寄った。

「わあ、リン、すごい、かっこいい」

 ときおり食堂のモニターに映る、宮中に住む貴人たちの姿と似通っていた。

「これ、水干(すいかん)っていうんだ。履いているのは袴」

 上に着ている水干は桃色で、袴は水色だった。袖は七分に裾は膝下で引き絞られて、動きやすいようにしてあった。伸びた髪は後ろで結び、右の額にだけわずかに前髪を下ろしている。そんなリンは、以前より凛々しく見えて、カイは溜め息をついた。

「やっぱりリンは違うなあ。ところでどうしたの? お仕事はいいの?」

「今日は午後からお休みになったんだ。もうすぐここにも知らせが入るはずだよ」

 壁の陰で声をひそめて話していると、館内放送がかかった。

『すべての臣民は本日の作業を終えよ。各自休養せよとの、天子さまよりのありがたき(みことのり)である』

 放送が廊下にも響いた。ヨンがみなに集合をかける声がした。

「ここで待っているから、行っといで」

 リンに押されてカイもみなと一緒にヨンの前に並んだ。

「本日の作業はこれまでだ。あとは部屋で休むなり好きにしていいそうだ。ふろにも入れると連絡が来た。夕飯はいつも通りの時間だ」

 口々にみなは驚きの声をあげ、そして道具を手早く片付け始めた。カイはリンの様子を伺った。リンの水干の肩口あたりが曲がり角の壁から少しだけ見て取れた。片づけが終わると、解散になった。みなが帰っていくのとは反対方向、カイはリンの待つ場所へそっと戻っていった。

「どうして休みになったのかな」

 カイが首をかしげると、リンが袂を探りながら答えた。

「天子さまに、日嗣ノ宮がお生まれになったんだよ」

「ひつぎのみや?」

「そう、お世継ぎが生まれたから。それで特別に臣民へも休みのおふれを出したんだ」

「ひつぎのみやは、頭に赤いものをつける?」

 わずかの間合い、きょとんとしたが、リンには察しがついたのだろう。首を左右に振った。

「ひつぎのみやは、女じゃない。男の子に決まっている。それでね、宮中で配られたんだけど」

 リンは小さな包みを袂から取り出してカイの掌にのせた。

「……これ」

 それは透明な膜に包まれていた。ほんのりと桃色で、赤紫色の楕円のものが混じっていて、そして温かった。

「ほんとうは、サンドイッチを持ってきたかったんだけど」

「そ、そんなことないよ、オイワイノヒ、の、オセキハン、だよね」

 意気込んでカイは声が詰まった。本で見ることしかないお赤飯がカイの手の中にある。カイはうっとりとお赤飯のおにぎりを見つめた。

「よかった。いつもカイに本を見せてもらっていただろう? どうしてもカイに食べさせたくて」

「ありがとう、ありがとう、リン。ぼくひとりでなんて、そんな。一緒に食べよう」

 二人は連れだって、青い球体が見える窓辺へ行った。美しい青が目の前にある。カイはリンからもらったおにぎりの包みを慎重に剥がすと、両手で半分にした。

「カイ一人で食べてよかったのに」

 リンが苦笑いした。

「二人で食べたいんだ」

 カイとリンは二口もあれば食べ終わるくらい小さなお赤飯のおにぎりを、めいめい手にした。

「これ、すぐに食べても大丈夫なんだよね?」

 リンはうなずいて見せた。

「ふだん食べているのと、色も形も違うけど、食べられるから」

 それから、カイの不安を解くようにリンはお赤飯をぱくりと口に入れた。

「リン!」

 ほら、大丈夫とでも言うように、リンは横目でカイをちらりと見ると、お赤飯をよくよく味わうように目を閉じて、ゆっくり噛んだ。ほどなくリンの喉が大きく上下した。ほっと、リンが溜め息をついた。それからリンはカイに目で勧めた。

 目を閉じて、カイは思い切っておにぎりにかぶりついた。口の中で柔らかく弾む『お赤飯』をリンはおっかなびっくりしながら、かんでみた。

「……よく、わからない……」

 憧れ続けた本の中の食べ物を口にふくんでいるというのに、カイは戸惑った。

「ゆっくりかんで。だんだん美味しく感じてくるよ」

 美味しく? リンは言われるままにあごを動かし続けた。ふだん食べているもの、丸かったり四角だったりするものとは勝手が違う。けれど、徐々に優しい味に変わっていくのが分かった。

「甘いだろう?」

  これが、甘いということなのだろうか。カイはゆっくりと飲み込んだ。

「……アマイ、ってこのこと?  ゆっくり眠れた夜みたいな、寒い所から戻って、お湯を飲んだ時みたいなことがアマイ、なのかな」

 おにぎりを見つめて話すカイをリンは微笑んで見ていた。

「そうだよ、甘いし美味しいだろう」

「……うん、オイシイ。これが美味しいって言うんだね」

 残りをカイは思い切って一口で食べた。こんどは、何度も胸の中でつぶやく。甘い、美味しい、甘い、美味しい。

「ありがとう、リン。ほんとうにありがとう」

 お赤飯を食べ切ったカイは、リンの手を握ってお礼をくりかえした。カイと二人、ならんで見る青い球体。自由に休める、わずかの時間をリンといられたことをカイは忘れまいと思った。



 それから、二日後の作業中……。カイは歯車に巻き込まれた。



 金属が触れ合う音がした。白い空間に浮いているような心もとない感覚、水をかきわけるように腕を動かすと、硬いものに指がふれた。

「まったく、あのかたの気まぐれにも困ったものだな。どうせまたえげつない手を使われたんだろうよ」

 カイはすでに目を開けていたことに気づいた。白衣を着た二人の人物が見えた。

「ここのシステムを私的に使いすぎだ。おおかた、目に止まったはいいが、もっと若ければと思ったんだろう」

 技師だろうか。背の高い男たちだ。

「しかもミズノト。素体が咎人の中でも重罪犯じゃないか。いつ豹変するか知れないぞ」

 似通った背格好の二人はマスクで口を覆い、どちらが話しているのか分からない。

 カイは硬い台の上で身を起こした。ぐらりと体が揺れて台からずり落ちた。鈍い痛みが一拍遅れてやってきたが、落ちた高さに比べて、痛みは薄いように感じた。

 カイが床に落ちた音に二人が振り返った。

「いきなり動くなよ」

 駆け寄った一人がカイの体を支えた。もう一人が慌てるでなし、ゆっくりとやってきた。

「まだめまいがするだろう、育成水槽から出たばかりだ」

 二人に両側から支えられて、カイは立ち上がった。袖なしのシャツと膝までのパンツだけを身に着けていた。透明な壁に仕切られ、同じような部屋が左右に広がっているが、使っているのはここだけのようだ。視線をあげると、壁が鏡のようにカイたち三人を写した。

 白ずくめの男の間に十三・四の少年がいた。

「最終検診が終わったら、もとへ戻すから。外で迎えが待っている」

 言われるままに、カイはさっき落ちた台のとなりの椅子に座り、問診を受けた。

 もっとも、もうまく舌が回らず声は出なかった。カイはただうなずいた。

 気分の良し悪し、視力・聴力の測定。簡単な文字の読み、ごく初歩的な計算。カイは正確に答え続けた。正解のチャイムが鳴りレベルがあがるたびに、同席している二人の技師は目線を交わす。

「臣民はバックアップをとらないが。基礎の焼き付けだけで甲種の結果が出るのは珍しい。前野、見ろよ」

 前野と呼ばれた技師はマスクを取って一緒に机の上の大きなモニターを見ている。えらが張っていて、マスクをはずした顔は正方形に見えた。

「廻成は……七度目か。以前の記憶が残っているとは思えないが。しかし、七度目とは多すぎないか?」

 廻成、とはなんだろう。カイは無意識に胸から腹を撫でた。傷ひとつないなめらかな肌だ。

「素体は甲種だったらしいが。ここ数回は乙種にとどまっていたのに。興味深い。追跡対象だな」

 前野はキーボードを叩いた。

「まずは正常に動けそうだ。自分の名前はわかるか」

「……カイ……コウサカ、カイ」

 カイは喉の奥から声が出たように感じた。知らない名前だった。

「おいおい、杉田。苗字まで言うのは初めて聞いたぞ」

 いまだマスクをしたままの技師は杉田というらしい。カイは自分の口から出た言葉の意味を思い出そうとしたが、すべては霧のむこうだった。

「事故のショックか。機械に巻き込まれたんだろう。いずれ、このことはあのかたのお耳へいれておこう」

「そうだな。紫の君なら、どうにかするだろうよ。カイ、そこにある服を着て」

 技師の話は終わったようだ。カイは促されるまま、カゴに入っている作業服に袖を通した。大きい。身幅も長さも。着ることに手間取っていると、杉田のほうがやってきて長すぎる袖や裾を折り返してくれた。

「すぐ、ちょうどよくなるさ」

 部屋の扉が開いて、無精ひげが伸びた壮年の男が入って来た。

「カイ」

 呼ばれてカイは男を見上げた。男は眉根を寄せて、唇をかんだ。

「今日明日は作業を休んでいいそうだ。館内を歩け。感覚を取り戻していけ。うちの班は、リンとおまえが抜けてたった六人でもう何か月も回している。早く仕事に戻れ」

 リン、という名前にカイの体が反応した。どこかで聞いたような気がする。大きすぎる靴の中で足が遊ぶ。リンという名をどこで聞いたのか思い出そうと、ぼんやりするカイを男は見つめていた。

 難しい顔をしていたが、男はふっと唇のはしをあげた。

「……そうだったな。おまえはこんなに小さかった」

 そう言って、カイのくせっ毛の頭をくしゃりと撫でた。

「まだうまく歩けないから、よろしく頼む」

 杉田に言われ、男はうなずくと、カイを軽々と抱き上げた。

「つかまっていろ。服は仕方ないにしろ、靴は申請してちょうどいいやつを配給してもらおう」

 おっかなびっくり、言われるままに男の首に手を回す。男は技師に一礼した。男につかまり、ゆらゆら揺れる。この感覚は、いぜんもあったような。疲れているわけではないのに、ただ眠い。

 いつしかカイは男の肩に頭をあずけて眠ってしまった。


 次に起されると、そこは二段ベッドの上段だった。

「カイ、宮中からの呼び出しだ」

 そう言った痩せぎすの男の声は震えていた。ベッドから下を見ると、殿上人の使いがいるのが見えた。みなに囲まれて、質問攻めに合っている。ベッドの柵につかまってみているカイに気付いたのだろう。使者の青年がカイを見た。

「カイ、迎えに来たよ」

 親し気にカイを呼ぶ青年は、ぎこちない笑みを浮かべて片手をあげた。二十歳過ぎくらいだろうか。少し吊り上がった目、いくぶん長い髪を後ろで結び、淡い桃色の水干に浅葱色の袴……カイはその青年を凝視した。穴が開くようにでも感じたのだろうか、リンは視線を逸らした。

「降りられるか」

 昨日、カイをおぶってきた男が梯子に足をかけて伸びあがり、カイの様子を伺った。慌ててうなずくと、カイは支えられながら、ゆっくりと梯子を下りた。

「これを」

 カイがやってくると、青年は懐から(ふみ)を出してカイにつき添う男に渡した。

「……正八位上に任ずる……カイを? ほんとうなのか、リン」

 リンと呼ばれた青年は唇を引き結んでうなずいた。誰かが、お召しだ、と小さく口にした。男は文を見つめたまま舌打ちをした。

「まだ廻成したばかりで、何もできないぞ」

「宮内よりの命ですから。今からすぐに異動します、ヨン班長」

 いきなりすぎるだろう、と男は文をリンへと戻した。カイはやり取りの欠片も分からず、ただ立っていた。

「カイ、ここの部屋から宮中へ行く。私物を持て」

「しぶつ?」

 リンを見たまま固まったカイに代わって、ヨン班長がカイの寝所からケース入りの本を取ってくれた。

「おまえの私物はそれだけだ」

 渡された本は古かった。カイが広げた掌よりいくらか大きいくらいで紙のケースに数冊収まっている。カイはみなに頭を下げると、リンに付いて廊下へ出た。

 通路を行く間、ほかの臣民がリンへと会釈する。大きすぎる靴では余計に歩きにくく、おぼつかない足取りのカイに合わせてリンはゆっくりと進んだ。

「……カイ」

 特別な階級の者しか使えない昇降機の前まで来た時、リンはカイの名を呼んだ。

「はい」

 リンはカイのまっすぐな目に臆するように一度うつむいた。握った拳が震えているのが見えた。

「ごめん……いまはそれしか言えないけど……」

 リンが思いつめたように、言葉を続けようとしたとき、チャイムが鳴って昇降機の扉が開いた。

「早くつれて来い。あの方がお待ちだ。この愚図」

 扉の向こうから鋭い声が発せられた。振り返ったリンの体がぎくりと動いた。声の主は扉をおさえるようにして頭を傾けていた。装束はリンと同じだった。しかし、見たこともない金色の短い髪に青く輝く瞳。耳たぶには赤い石が光っていた。

「今、いますぐ。蔵人(くらと)殿」

 リンはカイの手を引いて籠の中へと入った。金髪の君は鼻を鳴らして扉を閉める釦を押した。軽い浮遊感がわずかにあってカイは瞬間めまいがしたが、次に目を開いたときには、籠が透明だったことに気付いた。

 目の前に青い球体が白い帯をまとい、漆黒の空間に浮かんでいるのが見えた。

「地球のことも、ろくに知らない(みずのと)に正八位上をねぇ。とんだ酔狂」

 しかしカイの耳には届いていなかった。思わず壁にはりついて青い地球を見つめた。その肩をリンがそっと触れた。

「友だちになろう、ぼくたち」

 リンはカイの掌に小さな粒つぶのあるものを数個のせた。かすかによい香りがする。

「友だちごっこかよ。いつまで続くか楽しみだね」

 蔵人は腕を組み、鼻で笑った。蔵人の声など聞こえていないかのように、リンのまなざしは穏やかに見えた。

「食べて」

 カイの記憶にある、食品と似通っている。抵抗感なく、カイは口へと粒を入れた。かいだことのない華やかな香りと味が、口の中に広がった。

「……アマイ」

 なぜか、その言葉が唇からこぼれた。カイはリンを見上げた。

「甘い、美味しい……リ、ン」

 不意にリンの頬を涙が滑り落ちた。思わずカイはリンの涙をぬぐった。

 青い、青い球体。こんなことが前にもあったはずだ。

 昇降機の籠の中には、甘い香りがあった。



                                            了



お読みいただき、ありがとうございました。思い立ったら、また続きをシリーズものとして投稿する予定です。いつとは申せませんがぁぁぁ(*- -)(*_ _)ペコリ

カイは幼すぎ('_')

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