十五戒:朱に染まらずとも……(1)
「ねぇ、本当のことを教えてくれない? 」
朝日が直に差し込む窓から、今日の始まりを眺める男の背中に、今までオブラートに包むほど大切にしてきた事実が、破られ、突きつけられた。
男は四十半ば、恰幅がいいところでは若いが、口と鼻の間に生えた髭と、目や眉間に出来た皺は、年を感じさせる。手に持ったマグカップのコーヒーが、微かに揺れた。
その男に質問を投げかけたのは、二十後半の、どこか落ち着いている女性であった。背は普通くらいであるが、男と並ぶと小さいとしか言い様が無い。
そんな二人は、沈黙と嘘で会話をするのだが、女性はそれを上手く交わし、真実を確かめようとしている。
「う〜ん。知らなくていいって、わからないかな? 」
「わかるわ、でも、知りたいってこともわかってよ、一体何年一緒にいると思ってるの? 」
男はこういう状況には慣れていなかった。
職場での彼の立場は、生粋のサディストで通っていて、他の職場の女性は彼のとりこであり、その職場では、彼の奴隷志願者が列を成すとか、本人に自覚が無いところと、所帯持ちであるが故に、女性たちはかなわない夢を追っていることが明白である。
勿論のこと、職場の男性人からはよく思われていない。彼女を、妻をとられた奴が何人もいるからである。
話を戻すと、男は質問と、隠し事が苦手なのである。
「ほら、やっぱりだわ、貴方嘘をつこうとすると笑顔になる癖、いまだに直ってない」
「……。わかったよ、言えばいいんだろ? 」
「そう、それでいいのよ、さ、教えて頂戴、ラグロス・エルスレシュについて、あの、戦場の死神について……」
それはその職場には恐ろしく珍しい出来事が起きた三ヶ月前のことで、発端は一つのノックだった。
女性が扉を開けると、扉の向こうには第三権力の軍人が三人。訪問客すら珍しいのに、わざわざなんなのだろうと、不穏な予兆だと男は思い、女性に変わり応対する。
「第二権力からのお達しだ。君たちの部隊に、新人が一人入ることになった」
「え? 」
軍警察第四課国家安全保持武装勢力鎮圧特殊専門部隊通称“朱に染まる月”は、殉職の多さ、給料の悪さ、保険の悪さなどから、軍の中でも一番人気の無い部署である。
人気の無さを物語るように、今この場での四課メンバーは、私ことルグル・ハイムヒュートと、エマ・クロードの二人だけという奇跡が起こっている。
我々の主な任務は、民間が対応できないほどの事件が起きた場合の対処、つまり、戦争でお留守の時の軍の番犬なのだ。
創設からの殉職者の数は、途中で数えるのを止めた。故に、誰がここにいたのかなどもわからなかったりする。
そんな四課に入ろうとするのは、とんだ気違いか、バカか、アホ、或いは軍のモルモット。
最後の選択肢が一番近いであろう、でなければ、第二権力が命令など出すはずが無い。
「ラグロス・エルスレシュ……これが彼の経歴、そして、カルテだ」
「これは……」
未発達型解離性同一性障害。
解離性同一性障害は多重人格で、その手の事件を請け負ったこともあるので許容範囲内であるが、その前の“未発達型”というのが、どうも気になる。
「病気については専門のやつに聞け、今日の午後四時、王都東にある精神病院に迎えに行ってくれ」
「あぁわかったよ、特別手当は? 」
「そのことだが、長年がんばってくれたこともあって、第二権力の力を持って給料は倍だそうだ。羨ましいよ」
なんだか急に第二権力が許せる気がしてきたが、経歴を見る限り、あまり嬉しくは無い。
“戦場の死神”ラグロス君の通り名で、それはそれは凄絶なものだったらしい。
戦場での立ち振る舞いは、味方、敵関係なく薙ぎ倒し、たまに民間人にまで被害を及ぼす彼は、血しか求めていない死神として、誰からも恐れられたとのこと。
あまりにも傍若無人すぎる態度から一度は国に捕まり、幽閉中に態度が一変、おかしいと思った第三権力が精神科にて診断を行った結果、先に上げた病気とみなされた。
しかし、第二権力はそれを正しい形で戦力に出来ないかと思案。そして、この第四課で社会復帰と準備運動をさせようと、そういう魂胆らしい。やっぱりむかつく。
「ルグル、話は終わった? 」
二部屋しかない第四課の奥の部屋で、エマは私の始末書を書き終えた。いつものことに文句は出てこない。
「あぁ、新人が来るそうだ」
「あら、ご愁傷様ね、で、どんな子? 」
「戦場の死神だってさ……とりあえず、迎えに行ってくるよ」
「気をつけてね」
私を憂いてくれたのか、優しい声でエマは言う。
「心配するな、大丈夫だ」
「そうじゃなくて、貴方がスカウトしに行った人間、八割廃人になってるから、相手を心配したのよ」
「あっそ」
私は可愛げの無い後輩に、可愛げの無い返事で返し、可愛げのない新人を迎えに行くことにする。
王都と一括りにしても広く、徒歩で東の果てまで行くだけで、いったいどれほどかかるだろうか、移転魔法が普及してからは気にしたことも無い。
精神病院とは何故こうも陰鬱なのだろうか、不のオーラを感じる。
嫌な思い出しか詰まっていない思い出の病院に入り、院長室を目指す。勿論新人のカルテに書いてあった病気のことで、である。あいつと世間話など真っ平である。
礼儀としてノックを三回。
「入りたまえ……おや、まさか訪問客が君とはな、存外だよ」
「心外の間違いじゃないのか? おっさん。っと、これについて教えてもらいに来たんだ」
カルテを机に叩きつける。
首から提げたメガネを拾い、私より年をとっているジジイはカルテを凝視する。
「ああ、これかい……そうだね、平たく言えば、意味不明で」
「それでは説明になっていない」
自分で書いたくせに、ジジイは不思議そうに宙を眺めて止まる。
「ん〜、人格を一つの球体とし、解離性同一性障害はその球体が分離し、それぞれの人格を形成する。今回の未発達型解離性同一性障害は、それが分裂をしていないのに、さまざまな人格が垣間見えるのだよ。
そう、言うなれば、脳でなく反射的にその場での人格を変換するような感じだ。ある者には服従を近い、ある者には殺意を抱き、ある者には慈しみを覚える。しかし、そのどれもが不安定で、環境による変化が最も有力だと見られた」
「要するに、固定された環境の中で、人格を固めろと」
「その通りだ」
このジジイはいつでも答えを回避し、遠まわしに答えを私に見せる。じれったいのは嫌いなのだ。
「さ、とっとと持っていってくれ、こっちも対応に困っているんだよ」
どこまでもむかつくジジイだ。私は無視をすることに決め、礼も言わずに部屋を出た。
収容棟の端の職員出入り口、そこで囚人の受け渡しは行われた。全身は拘束具に繋がれ、息をするのが辛そうだ。
看守は一つ一つ拘束を解き、最後に腕の拘束を解くと、決まり文句を吐いてとっとと建物の中に逃げるように消えていった。
「なんだ? てめぇ? 」
「今日からお前の上司だ。よろしくな」
「ふん、知るか、俺はもう自由なんだよ」
「待てっ」
ふてぶてしいが、確かにこいつは血の臭いと殺気にまみれて、感情に乱れが感じられる。
大胆にも私を殺そうとしている。私は体で教えてやることにした。それが私のやり方だからだ。
大きく伸びをし、だらっと腕を下ろす。そこから斜めに拳が上げられるが、右足で軌道をずらし、そのまま右足を地面につけ、それを軸に左足を首の手前で寸止めし、主従関係を明白にする。
「わかったな? 」
「そして、今に至るってわけ」
すっかりさめたコーヒーをすすり、朝日が目を完全に焦がす前に、部屋の中心のエマへと目を向ける。
そこには、すっかり何かを疑ったエマの姿があった。
「大体わかったけど、貴方その時笑ってたでしょ? 」
「何故? 」
「貴方の一人称が私になってた。嘘をつくときの癖、その二」
笑うしかなかった。どうやら色々と彼女には筒抜けらしい。俺は嘘を止めようと決意する。
「教えてくれてありがとう。彼の心が環境に左右されるなら、私はきか無かったことにして、いつもどおりに接するわ」
「そうしてくれるとありがたい、それと、コーヒーお願い」
エマは無言で奥へと消え、コーヒーを温める音が聞こえる。
朝日はすっかりあがって、街は動き出す。窓の外には鳥がここぞとばかりにさえずりあっている。
実にすばらしい日だと、俺は一ついいことを思いついた。
その時だった。ラグロス君がいつもの時間に出勤、いつもより早い俺たちに、少し疑問符を浮かべている。
「ラグロス君もコーヒーいる? 」
「あ、頂きます」
いつもが始まる。彼女の行動に不自然は感じられず、胸のつかえだけが取れていた。やはり、嘘はよくない。
先ほど考えていたことを、少し言い迷った俺を攻めながら、改めて言葉を紡ぐ。
「そうだラグロス君。今日家でパーティーでもしないか? 歓迎の意味でね」
「あら? 私の時はそんなものありませんでしたよ」
皮肉めいた笑みと、コーヒーが届く。
「じゃ、君のも兼ねてだ」
「お断りする理由もありませんので、お言葉に甘えさせていただきます」
ラグロス君の屈託の無い笑顔を見るたび、彼の病気の存在が怪しくなってくる。
最初、一番最初に会ったときの彼の殺気は、やはり感じられない。消えないはずの、血の臭いも、だ。