延原藍
「おはようございます」
「おはよう」
いつもの挨拶を交わすと、藍はバックヤードに入った。
信とは対照的に、彼女はスレンダーなその身体に張り付くような、ピッタリとした服が好みだった。濃いブルーのスキニージーンズに、真っ白なシャツ――アイロンは自分でかけており、襟がパリッと姿勢を正している。黒い、仕事用のシューズ。細い脚はスラァッと伸び、背筋もしなやかに、百七十ある身長を更に伸ばさんとばかりに、ピンとしている。左腕に巻いた皮ベルトの腕時計は、父の形見だ。ベルトは一回ボロボロになってしまったので、新しいものに交換した。
彼女の父は、彼女がまだ幼かった頃に、何処かへ行ってしまった。だから、生きているのか、死んでしまっているのかもわからない。いつも笑顔で自分を育ててくれた母には、結局その理由を聞けずじまいだった。母は三年前に、藍を置いて逝ってしまった。
彼女はエプロンをかぶるようにして着ると、次にハンドクリームを両手にすりこむように塗って、次に袖をまくった。右と左、どちらも四回ずつ。毎日繰り返す動作だった。バックヤードの扉のマジックミラーで前髪だけ、一瞬だけ整えた。黒いショートカットは、冬の間に少しだけ伸びた。店に出ると、作業を始めている信の近くへゆき、加勢に入る。
開店前の店内は暗く、静けさに満ちている。色鮮やかな本の表紙、背表紙も、瞳を閉じているかのように主張をせず、まるで森の中にいるかのような空気を醸す。それは大量の紙達が元々は植物由来の物であるから、当時の、生きていた頃の息遣いを思い出して、眠っているかのようだった。
「最近、どう? みんな」
信が手を動かしつつ、聞いた。シンとした開店前の店内では、ささやくような声量でも会話が可能だった。
「特に問題はありません。安定しているといえます」
藍もそちらを見ずに、手を動かしながらいった。
「チエリはコミックの仕事だけではなく、最近では私のサポート役も買って出て手伝ってくれてます。倉田君は、接客に向いてますよ。いつもニコニコしてて、お客さんにも親切ですから安心してレジを任せられます。赤木君は無愛想ですけど、悪いコではないですから接客も丁寧ですし。仕事も対応も一通り、完璧に覚えてしまっているので、もう夜の責任者を任せても良いのではないでしょうか」
信は苦笑いを浮かべると、藍の方を向いて、
「でもなぁ。大学生のコに責任者を任せるのは悪い気がしちゃって……」
「わかります」
藍は切りのいいところで、手を止める。
「でも、彼は常に落ち着いているというか……肝が座ってますから」
なんてことないと思います。藍はそう締めると、大量の本を抱えて立ち上がった。後ろでは信が、「じゃあ、話をしてみようかな」と呟いた。
「夏目君は?」
藍の背中に向かって、声をかける。藍は本を棚の前に積み上げながら、
「彼も問題ありません。飲み込みがよかったですし、もう一人前の書店員ですよ」
と返した。元の場所に戻り、作業の続きを始めると、「わからないことは自分で判断せず、ちゃんと聞きに来てくれます」と付け加えた。
信はフフ、と、笑った。「何か?」「イヤ、何でもない」。信の脳裏に、少し前に見た場面が浮かんだ。夏目慧が、彼女に仕事を教わる場面。その目には尊敬や、秘めた強い憧れのような感情が、にじみ出てしまっていた。信はわかりやすい若者に、感情移入してしまった。自分の若い頃もああだったのかなと、昔のことを思い出した。
「おはようございますぅ〜」
いかにも眠そうな声が、店内に響く。「おはよう」。信と藍が返事をする。次にシャッターをくぐって現れたのは、クールな藍とは正反対に暖かみのある、少女のような女性。小川千映里だった。




