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名探偵。
草上禅は、そんな呼称に憧れていた。そのきっかけは二年前、つまり彼が、小学三年生の時のことである。
それまでの禅は、周囲の小学生三年生と何ら変わらず、ゲームや探検、秘密基地造りなんてものに熱中している子供だった。どちらかと言えばアウトドア派で、友人である傘谷冬馬や弘法寺禎博を、無理やり家から引きずり出すこともしばしばあった。二人とも変わった人物ではあったが、幼い時からの付き合いでもあり、今では親友と呼べる仲である。
「トーマのな、上靴がどこかに行っちゃったんだよ」
ある朝、禅が登校すると、下駄箱の前で禎博がそんな事を言ってきた。浅黒く日焼けした顔が、微かに歪んでいる。
「行ったの? どこに?」
禅は上履きの踵を踏みつけてから、そう問い返した。
「そんなん、分かるわけねえじゃねえか。とにかくさあ、なくなっちゃったわけだよ」
「ああ、そういうことか……。 うーん、どうしてだろうね」
「さあな。とにかく朝、俺とトーマで登校したら、下駄箱の中はモヌケのカラだったわけだ」
蛻の空。その言葉は正しい用い方ではなかったが、禅には充分に伝わった。
「もしかして、イジメ?」
禅は戸惑いながら聞く。その兆候は、確かにあった。彼は誰とでも気さくに話す人間ではなかったし、そもそも言葉を発することがほとんどなかった。そのため、当然友達も少ない。また、休み時間には独りで本を読んでいることが多く、他のクラスメイトからは五十メートルほど浮いている存在だった。否、沈んでいたのかもしれない。とにかく、トーマは他の同年代の人間とは違った位置に存在している男だった。
「――かもな」
禎博は吐き捨てるように言った。
「トーマは? どうして、禎博はここに?」
「それが笑っちゃうよな。奴は何にも気にしちゃいないんだぜ。今だって、靴下のまんまで教室に上がってらあ。小難しい本でも読んでるんじゃないのか」
「ふうん」
禅は頷いて見せた。禎博がなぜ、この場所で禅を待っていたのか、それが分かったような気がしたからだ。彼はきっと、やり場のない憤りを、どこかに逃したかったのだろう。例えば、風船から空気を抜くように。例えば、コップから溢れそうな水を、少しだけ零すように。
「けどよう、俺は、なんつーか、その、許せねえわけだ」
「トーマの上靴を隠した奴が?」
「いや、まあ、うん。それもあるな。けど、犯人なんて見つかるわけないだろ? 大体の予想はつくけど、だからといって決まったわけじゃない。ショーメイのしようがないわけだ。そんなもんに怒ったって無駄だってことは、俺にでも分からあな。問題は、トーマなんだよ。なんだってトーマは、あんなに飄々としていられるんだ? アイツ、このままだと、また同じことをやられるぜ?」
「それはまあ、トーマだからねえ。良いんじゃない、本人が気にしていなければ」
「お前、それ、本気で言ってんのか?」禎博が禅に、鋭い眼光を向ける。「本当の、本心で言ってるのか?」
あまりの剣幕に、禅は逃げるように視線を逸らした。けれども、すぐに禎博の眼を見つめ返す。
「本心だよ。いい? 本人が望んでもいないのに、僕たちが余計なことをする必要はないでしょ」
「おい――」
全てを言い終わらないうちに、禅は禎博に胸倉を掴まれ、下駄箱に押し付けられた。
呼吸が一瞬、停止する。
「もう一回、言ってみろ」
喰いしばった歯の隙間から、禎博が威嚇するような唸り声を漏らした。彼の吐息が、鼻の先まで届いてくる。
「もう、良いじゃないか」禅は変わらず、禎博の瞳を真っ直ぐと見つめながら答えた。「僕は、トーマが好きだ。ヨシヒロだって、トーマが好きだ。それ良いじゃないか。後は、トーマの問題だよ。彼が誰に好かれようが、嫌われようが、彼自身がそれを気にしなければ、僕たちには関係がないんだよ。僕たちが良かれと思ってとった行動が、トーマにとって悪影響を及ぼすこともあるんだから」
ぐっと、握りしめられた拳が見えた。
けれどもそれは、振り上げられることもなく。
振り下ろされることもなく。
かと言って、解かれることもなく。
黙って、禎博は禅に背中を向けた。
禅には、彼にかける言葉が咄嗟には見当たらない。
「分かった――いや、分からねえよ。全然、俺には、……分かりたくもねえ」
禎博は禅に背中を向けたまま、ぽつりと呟いた。それはきっと、禅に向けたものではなかっただろう。
それから。
それから二人の関係は、急速に冷めていった。以前のように遊びまわることもなければ、休み時間に言葉を交わすこともない。体育の時間だって、二人で組むことはなくなった。
トーマはそんな二人を訝しく思っているようだったが、二人の関係に言及することなく、以前と同じように二人と接してくれた。以前と同じように、とはつまり、話しかけられるまでは話さないし、誘われないと同行しない、ということだ。
さて、そんなある日のことである。暇を持て余した禅が、校庭の隅にある鉄棒で逆上がりの練習をしていると、視界の端に妙な物が映った。赤い物体である。禅は鉄棒から手を離し、両足を地面につけた。
あれは――。
思考とは関係なく、足が一歩前に出る。クローバーの中に埋もれたその赤色は、いっそう際立って見えた。
あれは――上靴だ。まさか――。
禅は落ちていた上靴に近寄り、それを拾い上げた。ゴムのバンドには、傘谷という文字が浮かんでいる。間違いない。 トーマの上靴だ。
禅は辺りを見回す。もう片方は、一メートルほど離れた場所に落ちていた。と言っても、それは完全にクローバーに覆われており、一見するだけで発見することはできなかっただろう。
両方の上靴を指にひっかけ、禅は校舎へ向けて歩き出した。普段よりも、やや足早になっていたかもしれない。下駄箱を通り過ぎ、階段を上る。そして見えてきた、三年二組の表札。 それが、彼ら三人の所属するクラスだった。
「トーマ」
教室に入り、冬馬の姿を確認した瞬間、禅は彼の名前を呼んだ。至って普通に話しかけたつもりだったが、思いのほか大きな声が出ていたようだ。クラス全員の視線が、禅の上に降り注ぐのが分かった。
「トーマ」
禅はもう一度彼の名前を呼びながら、持っていた上靴を高々と掲げる。
「ああ、あったのか」
冬馬は窓際の席に座ったまま、静かに本を閉じた。狐のように細い目が、微かに広がる。
「あったよ」
「どこに?」
「鉄棒のそばに落ちてた」
「ああ、そこいらへんで無くしたんじゃないかと思っていたんだ」
「赤色だからね。 見つけやすかったんだよ」
「ヨシヒロに馬鹿にされてきた甲斐があったかな」
「男のくせに、って?」
「いや、オカマみたいだって」
そう言うと、冬馬はくつくつと笑った。彼も、禎博の本心に気付いていたのだろう。
禅と冬馬が話していると、二人の周りに人だかりが出来てきた。冬馬の上靴が無くなったことは、おせっかいな教師によって、既に周囲に知らされていたのだ。そのクラスメイト達は、冬馬と禅、それから上靴を見ながら、口々に言葉を投げかける。
「何々、見つけたの?」
「スゲーな、名探偵みたいだ」
「どうやって?」
「実はお前が隠してたんじゃあないのか?」
「どこにあったの?」
「良かったなあ」
男子も女子も関係なく、称賛や皮肉、疑問を口にする。
名探偵みたいだ。
その言葉が、禅にとっては妙に誇らしかった。別に、何か推理をして親友の上靴を見つけたわけでもない。犯人を捜し出したわけでもない。ただ単純に、たまたま偶然に、冬馬の上靴を見つけただけなのだ。
けれど。
けれど、皆に注目される中発せられたその一言は、小学三年生をその気にさせるには充分な言葉だった。