1 どうして
「ねえ、ねえ、お父さん」
「ん? どうしたんだ」
「どうして、人を殺してはいけないの?」
まだ幼い少年が父親に問いかける。その目にはまだ善も悪もなく、ただ自分の知的欲求を満たすことに貪欲である。
父親はやれやれといった感じで苦笑いをする。前は「どうして、雨が降るの?」と聞かれて納得してもらうまで30分はかかった。そのうえ、今回はデリケートな内容なので、息子の道徳を育むために十分に思案して答える。
「例えばさ、お父さんやお母さんが死んだら悲しいだろ?」
「うん」
「じゃあ、お父さんやお母さんを殺したらいけないだろ?」
「うん。……じゃあ、あの近所の猫おばさんは殺してもいいの? 死んでも悲しくないよ?」
「おいおい、外でそんなこというなよ? えっとな、猫おばさんにも家族がいるからさ、その人が悲しいと思う。誰にも死んだら悲しんでくれる人ってものはいるもんだ。だから誰だって殺してはいけないんだよ」
うまくまとまったと父親は安心してふぅと一息つく。しかし、それを見た少年はちょっと意地悪な笑みを浮かべて、問を重ねる。
「でもさ、他人が悲しいと思っててもどうでもいいと思ってる人もいるよ? そういう人達は人を殺していいと思ってるの?」
「おまえはそんな大人になってほしくないな……。そうだな、むしろそういう人がいるから、人を殺してはいけないというルールがあるんだ。自分は殺さないから、みんなも殺すなってことさ」
少年はふーんとうなずき、呆けたような顔で父親の言葉を整理する。
「……うん、わかったよ。お父さんありがとう、またいろいろ教えてね」
「おう、またな」
少年は自分の部屋に帰ろうとしたが、また何かひらめいたようで、振り返る。
「あのさ、もしも人が死んでも生き返るなら、誰も悲しくないから殺してもいいのかな?」
「さあな、でもそうなったら……」
父親は想像して思ったまま答える。
「そしたら、誰も人を殺さなくなるんじゃないか?」
「ううっ、寒い、寒い」
北風がじんわりと僕の体温を奪っていき、そろそろ本格的に冬になったことを感じる。空に敷き詰められた灰色の雲を眺めると、雪でも降るのではといった感じである。
実際には、地理的条件からここ、岳ヶ島市に雪が降ることはほとんどない。風は海からではなく山の方から吹き降りてくる。
太陽はまだ沈みきっていないが辺りは薄暗くなってきた。
絶好のストーキング日和である。
今日で僕が彼女(ここでいう彼女とは恋人のことではない。いや、できればいずれはその意味で用いたいと思っている)のストーカーを始めて五日目だが、今回はいつもより接近して彼女を観察できそうで、僕の心臓の鼓動が速まる。尾行に気づかれることにドキドキしているのもあるけど。
街には帰宅途中の人たちがほどほど歩いているし、距離もしっかり取り、いつでも物陰に隠れられるような位置取りをしているので大丈夫だと思いたい。むしろ、道行く人に不審者として通報されないように気を配るべきか。
いずれにせよ、この行為がばれる危険は常に残るので、早く彼女の情報を集めねばならない。彼女と話すきっかけをつかむために。
彼女の尾行をしているのは僕が探偵だからだとかでなく、僕はただの高校生であって、彼女は僕の同級生であって、それを付け回す動機はもちろんLOVE以外ありえない。
つまり、僕は、近衛紋羽は、彼女に、河澄夕顔に恋をしている。
彼女のためなら、僕はなんだってしてみせる。
河澄さんの髪がゆれる。サイドを編みこんでそれを後ろでリボンを使ってまとめているという女子力あふれる髪型である。リボンとマフラーは共に紺色で彼女によく似合っている。制服の上にコートを着ているので僕と違って暖かそうだ。細身ですらっとしているので大きく見えるが、身長は155cmほどらしい。
そんな後ろ姿を追いかける。
僕たちの高校から最寄駅である白秋駅までは徒歩で10分ほどである。それを彼女は寄り道をしながら3、4倍の時間をかけて帰ることが常のようである。
今日は一緒に帰る友達は何か用事があるようで、1人での帰宅のようだ。1人では寄り道をする気が起きないらしく、迷いなく駅へと歩いている。いつもより早歩き気味だ。それともこれが彼女本来のペースなのだろうか。
新しい情報を手に入れたが、このままではせっかくのチャンスに収穫がほぼゼロになってしまう。今まではリスクの面から敬遠していた駅以降の尾行を行ってしまおうか、と僕は考えを巡らせる。
そんな計画を検討していたので、彼女との距離を少し離してしまっていた。
その時ちょっとした事件が起きた。
どん、と小太りの中年男が彼女とぶつかった。相手がよそ見をしていたのか、それとも彼女が帰路を急ぎすぎたのだろうか。彼女の体が大きくふらつく。
さっと現れて支えてあげたかったが、そんなことができるはずがないので、ただ心配して見守ることと、彼女に接触した男に嫉妬するぐらいしかできなかった。
幸い、どちらも怪我をすることもなく、互いに軽く謝ってそれで終わりのはずだった。ところが、男は彼女に何やら難癖をつけ始めた。
今いる位置ではうまく会話を聞き取れないが、彼女の困り顔と不機嫌顔が混ざったような表情は見ることはできた。
男のグチグチは続く。彼女のきれいな顔につばを飛ばしたら許さねえ。
不意に彼女が駆け出した。えっと男が驚く。僕も驚く。彼女の性格から事が過ぎるまで、耐えるものだと思っていた。まだまだ観察が足りないということか。
彼女は路地に入っていき見えなくなった。虚をつかれて固まっていた男はようやく何が起こったのか理解し、もうよせばいいのに彼女を追いかけて行った。
さて、どうしよう。今日はこれで打ち切りか。
駅から伸びている大通りをそれて路地に入ると道は細かく、複雑になり人通りも極端に減る。
河澄さんの運動能力は女子高校生の平均よりは上でスポーツをしている人には負けるといったところだ。
対する男はちょっと運動不足だと思われる。とはいえ成人男性の体力なら直線でなら追いつくかもしれない。
まあ、8割方追いつけず彼女は無事帰宅すると見ていいだろう。
しかし、どうしても2割が気になる。人のいない路地に女子校生とおっさんが二人。青年向けコミックによくありそうなシチュエーションである。
気にしないように思考を別に移そう。あ、今日月曜日かー、ジャンプ買わなきゃ。
少年漫画……。ピンチになるヒロイン。颯爽と登場する主人公。華麗に敵を退ける主人公にヒロインは……。
こ れ だ 。
僕はいつの間にか走り出していた。体力には自信がある。中学では「テニスのゴールキーパー」と呼ばれたものだ。
二人の走っていった方向から推測すると、ぐるっと回り込んで線路の向こうから駅に逃げ込もうと彼女は考えている……かな?
彼女がピンチになるまで時間はあるだろうから、焦らずいこう。
運良く5分くらいで河澄さんを見つけることに成功した。
鉄道の高架下、車は入れない小さなトンネルで一応電灯はあるが切れかかっていて、薄暗い。そこに彼女と中年男はいた。
いや、すでに男はおらず、そこには男だったものが存在しているだけだった。
赤い、紅い景色だった。
仰向けに倒れている男の上半身は真っ赤に染まり、体から乱暴に溢れ出す血は地面をぬめりと流れ、まだ血が体に残っていることを知らせる。凶器を抜いたときに出たのであろう血飛沫の後がトンネルの壁に描かれた落書きを上書きしていた。
男の顔は苦痛を全力で表現していて、いつだったか葬式で見た柩の中の死体の顔とは全く別種の物だと思った。その強烈な死のイメージを湧き立てる表情は、直視したままだと発狂しそうだった。
そして、何より僕を錯乱させたのは彼女がそしらぬ顔で男のズボンでナイフの血を拭いていたことだ。
普通、金切り声でも上げるべきだろう。実際に僕は「うぼえぁ!」と変な声が出た。
その声で彼女は僕に気づき驚愕の表情を浮かべて僕を見た。こっちが驚きだよ。
数秒、無言で見つめあう。
整った顔に絶妙に配置されたくりっとしたかわいい目がこちらをじっと見ている。こんな状況でなければとても幸せだたろう。
僕はヤケクソで、用意していたセリフを言う。
「や、やあこんなところでどうしたの?」
彼女は立ち上がり答える。
「そこの人を殺してました」
そして、僕の好きな素敵な笑顔で続ける。
「あなたも死にます?」