夢縋人
昼下がりの住宅街。無計画に家を増やしたために道も家も入り組んで、独特の空気が流れるその街に柔らかい春の日が射し込んでいる。
日に照らされた細い道を、買い物袋を下げた若い女性が幼い子どもの手を引いて歩いていた。子どもは間延びしたテンポで楽しそうに歌いながら、あたりをきょろきょろと見回している。
ふとその目が空へと向いた。そのまま、何かに見とれたように立ち止まる。
「ママぁ、おそらにだれかいるよぉ?」
若い女性は、えー?と高い声を上げて同じように空を見上げた。
「…ああ、そうね。あの雲、人の形に見えるわね」
そう答えると、女性は子どもの手を引いて歩みを促した。促されるままに歩きながら、子どもはなおも空を見上げ、そしてなおも訴える。
「ちがうよう、くもじゃなくて、おそらにひとがいるんだよお」
女性はくすくすと笑いながら、そうね、と受け流した。
「…子どもはこわいねぇ」
その様子を空から眺める人影がひとつ。そのモノは空を移動しながら、ぽつりと呟いた。移動、と言っても、飛行機やヘリを使っているわけではない。そのモノは空中を歩いて移動していた。
「まあ、空を人が歩いているなんて言っても、大人は誰も信じちゃくれないがね」
そのモノはまだ空を見上げている子どもに手を振る。子どもは興奮したように女性の腕を引き、必死に空を指した。そのモノはしばらくその姿を眺めていたが、やがて興味をなくしたように視線を逸らす。
否。そのモノは、興味と視線を移した。その先には一軒の家、庭を望む軒の奥の和室。
そこには昼間だと言うのに布団が一組敷かれ、浴衣を纏った青年が上体を起こしていた。
「みーっけた」
そのモノは悪戯に口の端を吊り上げて、そこへと足先を向けた。
「いらっしゃい」
青年は空から軒に降り立ったモノに驚くことも無く、笑顔でそれを迎えた。
「君ははじめましてだね?いつもの<死神>さんは、どうしたのかな?」
「<死神>はもう来ないさ。お前は今日から、管轄が移ったからな」
そのモノが全身をすっぽり覆う黒いローブから腕を出すと、そこには鎌が握られていた。ただの鎌ではない。刃渡りがそのモノの身の丈ほどもある大鎌だ。その刃先がそのモノの黒い瞳と同じ高さできらりと閃く。
「…そっか、君は<死神>さんではないんだね」
青年は物理の法則を無視したその登場にも全く動じることなく、ただ目を伏せて身体を抱くように腕を組んだ。
「ああ。俺は、<執行人>だ」
青年は確かめるように、執行人、と口の中で呟いた。
この世界の基本は円、つまり循環である。
それは地球を初めとした惑星の多くがどこから見ても円を成していることからも、また、地上において全ての物体が形を変えながら循環をしていることからも証明できる。
肉体は死すれば土に還る。そしてそれは巡り巡って、また新しい身体を作る。
だとすれば、同じように魂が循環するとしても何の不思議もないだろう。
魂には、二つの要素がある。陽魂と陰魄だ。思考する陽魂と、身体を動かす陰魄。どちらがかけても人は人たり得ない。その両方を携えて人は生まれ、そしてそのどちらかを失えば人は死す。死すればその魂は天へと昇り、また新しい人として世界へ生れ落ちる。
だがいつからか、その循環が滞るようになってしまった。現世に強い未練を残したため、死を拒む人間の魂魄達がそれを滞らせるようになってしまった。そうなればその循環を管理する必要が出る。当初は神がそれを担っていたのだが、その数の異常な多さに手が回らなくなってしまった。その時神が目をつけたのは、循環を滞らせるもうひとつの原因――世界への憎悪が激しく、生まれ変わりを拒む魂魄。神は彼らを組み込み、魂の循環を管理するシステムを作り上げた。
それが、<道導>というシステムだ。
「…っと、こんな話は<死神>の奴らから聞いてるか?」
<執行人>を名乗ったモノは、大鎌を片手で弄びながら語った。その姿は今は布団の傍らにあり、長い足をもてあますようにして胡坐をかいている。
「いや…聞いたことがないな。続けてくれるかい?」
その様子だけを見るならば、まるで旧友が語らうよう。けれど冷たく光る刃が、その空気を異質なものにしていた。
「そうか?じゃあ、続けるぜ。つっても、話はこう終わるだけだがな」
<道導>には、四種ある。<死><死神><語り部>そして<執行人>。
<死>は、その名の通り死ぬこと、死した魂魄が循環する、本来の形。
<死神>は、死をもたらすもの。未練を持ち、死を拒む魂魄に死を運ぶもの。
ほとんどの魂は、この<死><死神>によって導かれ、魂の循環の円へとはまっていく。
だが中には、強い強い未練を持ち、<死神>が運ぶ死を拒む魂魄や、死したものの循環の和へと戻らない魂魄がある。
それらを処理するのが、<語り部><執行人>である。
「…さて、話は分かったかな?」
そのモノが問いかけると、青年は静かに目を伏せた。
「ああ」
びゅん、と空気を割きながら、大鎌が振り上げられる。
「君は、僕を殺しに来たんだね」
サシュ…
静かに答えた青年の首元に、その鎌が振り下ろされた。
「…やっぱり、ダメか」
けれど、その首は繋がったまま。
青年は微動だにせずに、ニコニコと笑ったままだ。
「わるいけど、僕の命をあげる人は決まっているんだ」
そのモノはさして驚きもせずに、大鎌を持った右手を振った。すると大鎌は初めから無かったかのように霧散する。
「…腐りはじめたその魂で、よく耐えるよ。その未練の強さだけは買うぜ」
そのモノは呆れたように付け足した。
「何がそんなにいいのかねえ…」
「世界を拒んでしまった君には、きっと分からないことだよ」
二人の視線が、しばし交差する。
「…じゃあ、また来るぜ」
「いつでもおいで。次は君自身の話も聞かせてくれると嬉しいな」
それには答えないまま、<執行人>はまた空へと戻っていった。