終わらない夏
駐輪場に自転車を止めて、アパートの前に立った。ずしりと重いポリ袋を片手に部屋を見上げる。
瑠衣がちょうど、ベランダで洗濯物を干しているところだった。ただでさえ狭いスペースが衣類で埋め尽くされようとしている。生温い風にはためく白いシャツが、目に眩しい。
何気なくその光景を眺めていると、瑠衣は僕の姿に気付いたようで、こちらを見下ろして微かに笑った。僕は片手を挙げてそれに応えると、狭い階段を二階に向かった。
「ポリ袋、すっかり様になっちゃったね」
帰ってきた僕を見た瑠衣が愉快そうに笑う。どこがだよと苦笑して、僕はポリ袋を畳に下ろした。網戸の向こうでは、洗濯ばさみで吊された衣類が夏の日差しを浴びていた。
僕が買ってきた野菜で、瑠衣はカレーを作り始めた。玉ねぎや人参、じゃがいもを包丁で切って、牛肉と一緒に炒める。炒めたものを水と一緒に鍋に入れ、火に掛ける。いつも通りの手順だった。これで何度目のカレーだろうか、と僕はぼんやり考える。ここに来て随分経つけれど、瑠衣の料理のレパートリーはあまり増えていない。
後はルーを加えて煮込むだけだと、台所から戻ってきた瑠衣が言った。
外の明るさとは対照的に薄暗い部屋で、僕たちは寄り添い合って座った。外界からは何の物音もせず、二人の間に無音だけが横たわる。
顔を横に向ければ、黒い双眸と視線が合った。端正な、能面のような表情からは、どんな心の機微も読み取れない。僕は瑠衣の頬に触れ、そっと撫ぜた。
瑠衣がゆっくりと瞼を閉じ、それが合図になった。
そのまま顔を引き寄せて、僕はその薄い唇に口付けた。一度、二度。少し角度を変えて、もう一度。それから頭をかき抱き、貪るように互いの舌を絡め合う。
瑠衣のブラウスを捲り上げて、下着の隙間から柔らかな胸に触れた。声一つ洩らさず、されるがままになっている瑠衣の、細い首筋に唇を這わせる。白い肌は湿り気を帯び、微かな汗の臭いが鼻腔を突いた。
僕たちは何度も長い口付けを交わした。
冷房なんて気の利いたもののない部屋は、淀んだ空気に満ちて息苦しい。色褪せ、ささくれた畳の感触が肌に伝わる。僕たちの間に言葉はなかった。少し乱れた呼吸の音だけが、すぐ耳元で響いていた。
こうして瑠衣と身体を重ねるのは何度目のことだろう。霞がかかった頭で、食卓にカレーが上った回数を数えるように、僕は考えた。
「駆」
僕の下で、瑠衣が小さく名前を呼んだ。うわ言のように、駆、と再度呟く。その様子はまるで許しを乞うているかのようで、瞳を閉じたままの表情はどこか苦しげだった。露わになった胸が緩やかに上下し、窓辺の風鈴が、申し訳程度に涼やかな音を立てた。
僕は何も答えずに、瑠衣の髪を指先で梳いた。淡い色をした唇に口付けを落とす。
これが何度目になるのかも、僕にはもう分からない。
着衣を元通りにした後、二人で昼食を取った。カレーはいつも通りの味だった。辛いものが苦手な瑠衣は、決まって甘口のルーを使う。最初は少し物足りなかった僕も、今ではもう慣れてしまった。
「ねえ、駆。少し休んだら散歩に行こうよ」
卓袱台を拭く手を止めて瑠衣が言う。
「どこへ?」
尋ねて、僕は洗い桶に汚れた食器を浸す。少し考えた後に瑠衣が答えた。
「……どこでもいい。ただ、外に行きたいの」
極力二人での外出を避けたがる瑠衣が、こんな風に僕を誘ってくるのは珍しい。分かった、と僕は頷いた。
食事の後片付けを済ませ、外出の準備を整え、僕たちは表に出た。じっとりとした外気が身体に纏わり付く。アスファルトを焦がすように陽光が照りつけている。
古びた民家やアパートが密集する路地裏を、瑠衣と二人並んで歩く。
道を進んで間もなく、住宅地を貫く水路に突き当たった。見下ろせば、濁った水全体に茶色い藻が浮いており、胸が悪くなるような悪臭がする。夏特有の籠もった空気が、粘った泥のように感じられる。
しばらく水路沿いに歩いた時、瑠衣が不意に立ち止まって言った。
「小さい頃、よく近所の川で遊んだよね」
「うん」
戸惑いながらも、僕は応える。
僕たちが初めて出会ったのは小学校低学年の時で、その頃暮らしていた町には川が流れていた。河川敷が広くて自由に駆け回れたし、浅くて水の澄んだ川は、夏には恰好の遊び場となったから、当時はよく家族連れで訪れたものだった。
「駆、一度溺れかけたことがあったでしょ。私、あの時はどうしようかと思った。駆を助けてって、一緒に来てた父さんに泣きながらお願いしたの、今でも思い出せる」
瑠衣が何故急に幼い頃の話を始めたのか、僕には理解できなかった。過去の話や家族の話を持ち出さないことは、僕たちの中では暗黙の了解である筈だった。この町に移り住んできた時からずっとそうだった。
「行こうか」
何も聞かないふりをして僕は呟く。瑠衣は視線を逸らし、小さく俯いた。
先に歩き出した僕の手に、瑠衣の細い指が絡んだ。血の巡りが悪いのか、瑠衣の手はいつも冷たい。僕はその手を包み込むように握った。自転車が一台、僕たちの横を走り抜けた。遠くから蝉時雨が聞こえてきた。
やがて僕たちは大通りに出た。
射るような夏の日差しは熱く、じりじりと肌を焦がす。首筋を汗が伝い、シャツの首元を濡らす。
当てもない散歩の途中、僕たちは通り沿いにある古本屋や雑貨屋に寄った。けれど、何か買うかと尋ねても、瑠衣は首を横に振るだけだった。楽しんでいる様子もない。いつもより言葉少なに、僕の後をただ付いてきた。
信号待ちをしている時、喉が渇いたと瑠衣が言ったので、自販機でペットボトルの緑茶を買った。通りを逸れて、住宅地の中にある小さな公園に入る。暑さの為か元々利用者が少ないのか、公園は人気がなく閑散としていた。
僕たちは木陰にあるベンチに腰掛けた。僕が手渡した緑茶をゆっくりと半分飲み干し、瑠衣が息を吐く。瑠衣からペットボトルを受け取って、僕は残りを一気に喉に流し込んだ。自販機から出てきた時には冷えていた緑茶は、もうすっかり温くなっていた。
金網製のゴミ箱を目掛け、空になったペットボトルを放った。けれど、少しばかり距離があった為に目測を誤ってしまったらしい。ゴミ箱の縁に弾かれて、ペットボトルは地面に転がった。
溜め息を吐いてそれを拾い上げ、ゴミ箱の中に投げ入れた時、背中に悪戯っぽい声がかかった。
「コントロール悪い」
後ろを振り返れば、瑠衣はくすくすと笑っていた。久々に瑠衣の笑顔を見た気分だった。僕は肩を竦めると、つられて少しだけ笑った。
そろそろ行こうと思い始めた矢先、公園全体にさっと影が落ちた。空を見上げると、聳えるような積乱雲が太陽を覆い隠していた。不穏な天気の変化を予感させる空模様だった。
悪い予感は的中し、間もなく大粒の雨が空から落ちてきた。白い糸が斜めに降り注ぎ、乾いた地面を塗り潰してゆく。頭上には樹が枝葉を広げているけれど、完全に雨を防ぎ切れるものではなかった。葉の隙間から滴る雫や吹き込む飛沫が、徐々に僕たちの服を濡らしていった。
「なかなか止まないね。あんなに晴れてたのに」
空を仰ぎながら瑠衣が呟く。すぐに過ぎ去る夕立だろうという予想に反し、雨は依然として止む気配を見せなかった。瑠衣の白いブラウスには水滴で斑に染みが出来ていた。サンダルも泥で汚れていた。
腿の上に置かれた瑠衣の手に、僕は自分の手を重ねた。触れ合う肌はひやりと冷たく、温もりは微塵も感じられなかった。
「……洗濯物、きっとびしょ濡れになっちゃってるね」
思い出したようにぽつりと言って、瑠衣はそっと僕に身体を預けてきた。湿って解れた髪が頬にかかっている。瞳を伏せて、瑠衣は身動ぎ一つしなかった。
僕は細い身体を引き寄せ、強く抱き締めた。周囲を包む雨の音に混じって、瑠衣の鼓動と息遣いが感じ取れる。体温が服越しに全身を伝わり、僕はようやく瑠衣の存在を実感することが出来た。
くぐもった声で、瑠衣が僕の名前を呼んだ。縋るように繰り返し囁いた。
僕は、瑠衣の長い髪に顔を埋めた。瑠衣の身体は小刻みに震えていた。華奢な体躯は、力一杯に抱き締めると壊れそうだった。それでもよかった。壊してしまいたいとさえ思った。そうすれば僕はこの瞬間を閉じ込めて、永遠に独り占めに出来るかもしれない。
雨が止んで空に晴れ間が覗き始めた頃、僕たちは公園を出た。住宅地を元いた大通りに戻る。町はもう夕方の色が濃くなっていた。歩道のそこかしこに水溜まりが出来、空気にはまだ雨の匂いが残っていた。
「折角だから、夕飯に何か買って帰ろうか」
もう帰る潮時だろうと声をかける僕に、瑠衣はどこか浮かない表情で頷いた。
帰途に就く途中、ふと瑠衣の歩みが止まった。僕もそれに倣って足を止め、後ろを振り返った。
瑠衣は歩道橋を見上げていた。片側二車線に架かるそれは老朽化していて、見た限り利用者はいないようだった。
吸い寄せられるように、瑠衣は歩道橋を上がり始めた。迷いない足取りで一段一段を踏み締める。アパートに帰るのに、この歩道橋を渡る必要はない筈だった。僕は先を行く瑠衣の手を取った。
「瑠衣、帰ろう」
僕の言葉に、瑠衣は僅かに瞳を伏せた。そうして少しの間を置いた後、再び僕の目を見て尋ねた。
「小学生の頃、通学路に歩道橋があったの、覚えてる?」
「……覚えてるけど」
瑠衣がまた階段を上り始める。長く伸びた影を追うように、僕はその後をついてゆく。
階段を上り切った瑠衣が、僕を振り返って微笑んだ。
「何だか急に思い出したの。毎日ランドセルを背負って、こうやって階段を上って。私は駆の後ばかり付いて回ろうとしたけど、駆は――」
「瑠衣」
強く、瑠衣の言葉を制する。
瑠衣が黙って僕を見つめる。夕日に照らされて、その顔は朱色に染まっていた。
「今日の瑠衣は、いつもと違う」
湿気を含んだ風が僕たちの間を吹き抜ける。
先ほどの雨のせいか、気が付けばうるさいほどだった蝉の声は止んでいた。町のざわめきが耳を素通りしてゆく。
「何も、変わらないよ」
擦れた声で呟いて、瑠衣は空に視線を移した。雨が空気中の塵を洗い流したのか、景色はひどく鮮やかに見えた。茜色に染まった雲の狭間から覗く、熟れた夕日が美しかった。
やがて、暮れなずむ空を見つめながら、瑠衣が独り言のように言った。
「私たち、本当にこれでよかったのかな」
そして、そっと瞳を閉じる。光を纏った黒髪が風に揺れる。
「間違って……いたのかな」
その問いかけが僕に対するものなのか、それとも自分自身に対するものなのか、僕には分からなかった。瑠衣はそれ以上何も言わなかった。だから、僕も何も言わなかった。
時間の感覚が妙に希薄で、どれほどの間そうしていたか判然としない。
いつしか、瑠衣の頬を一筋の涙が伝っていた。それはあまりに自然なことのようで、僕は声を発すことも出来ず、ただ瑠衣の横顔に魅入っていた。沈みゆく太陽を見てそう感じるように、綺麗だと、何度も思った。
僕が名前を呼ぶと、瑠衣はゆっくりとこちらを振り返った。
涙はまだ乾いていなかった。濡れた瞳が真っ直ぐに僕を捕えて離さない。全てが時を止め、呼吸さえ忘れてしまいそうだった。目の前にいる瑠衣の姿しか見えなかった。
言葉もなく、僕たちは唇を重ねた。冷たい涙が僕の頬を濡らす。永遠にもほんの一瞬にも思える触れ合いは、束の間の夕映えのように脆く、儚かった。だから、この瞬間を繋ぎ止めておくことは叶わないのだと、僕は心のどこかで悟っていたのだと思う。
僕たちが交わした、最後の口付けだった。
**
昼食を買いに行く為、外に出た。澄み切った空はどこまでも高く、抜けるような青色をしていた。
馴染みのスーパーで出来合のものを買い、アパートに向かう。水路沿いの道を歩いている時、不意に瑠衣のことが頭に浮かんだ。この道を歩く時はいつもそうだった。
あの翌日、瑠衣はアパートを出ていった。僕が仕事に出ている間にひっそりと行方を暗ませた。
部屋には書き置き一つ残されておらず、僅かな貯金にも一切手が付けられていなかったから、僕は始め、瑠衣がいなくなったという実感が湧かなかった。驚きも悲しみも感じられず、覚めない夢の中を彷徨っているような心地だった。
何が現実だったのか時々分からなくなった。今でもたまに、境界が曖昧になる。初めから僕は一人だっただろうか。本当は、瑠衣とこの町で過ごした日々が、幻だったのではないだろうか。
ある時ふと思い立って、最後に瑠衣と上った歩道橋へ足を向けた。夏の終わりが近付いた夕暮れ時のことだった。
橋の上から見る町並みは、あの日と何も変わっていなかった。風の匂いも、暮れゆく空の色も、まるであの日を再現したかのようだった。
朱色に沈む町を見下ろしているうち、瑠衣と交わした口付けの感触が生々しく脳裏に蘇った。同時に眩暈にも似た感覚に襲われ、僕は強く手摺りを掴んだ。気が付いていた。震えるほどの情動と、消えない傷痕を刻み付けていった柔らかな温もりは、これから先も僕を離さないのだと。空が燃え尽きて紺色に染まり始めるまで、僕はその場を動けなかった。
重い足取りで住宅地を歩いていると、どこからか蝉の声が響いた。もう九月に差し掛かると言うのに、絡み付く暑さは未だこの町に留まり続けている。夏はいつ終わるのだろうか。
蝉時雨の季節が訪れると、僕はしばしば瑠衣の姿を見、声を聞いた。それは蜃気楼のように実体のないものだと分かっていても、懐かしい面影が僕の前から消えることはなかった。
その度に僕は、瑠衣の問いかけを胸の中で繰り返した。
僕たちは間違っていたのだろうか。取り返しの付かない選択をしてしまったのだろうか。
何も持たず、誰にも行き先を告げず、逃げるように故郷から程遠いこの町に来た。道理に反すると、世間に後ろ指を差されても仕方のない行為だとは理解していた。連れ合いを失くした父と母は、新しい家庭で再びささやかな幸せを築くことを願っていただろう。それを壊したのは他でもない僕たちだった。
家族の目を盗んで何度も口付けを交わした。身体を重ね、体温を分かち合った。そうしながら、家族を欺き、裏切ったことに対する負い目にいつも苛まれていた。
それでも、僕たちは互いへの感情を抑えられなかった。幼い頃の二人に戻ることは、どうしても出来なかったのだ。
アパートの前に立ち、ベランダを見上げた。
物干し竿にかかったシャツが、日の光を浴びながら風に揺られている。
その向こうに、僕はまた瑠衣の姿を見る。透き通る白い肌も漆黒の髪も、記憶と何一つ変わらない。全てを捨ててでも欲しいと願った義妹は、確かにそこにいた。
「瑠衣」
口の中で、名を呟く。
瑠衣、瑠衣。
幻でもいい。夢であっても構わない。僕の前から消えずにいてくれれば、それだけで――
洗濯物を干す手を止めて、瑠衣が僕を見下ろし、微かに笑った。
ちょっとだけ、季節を先取り(?)してみました。
つたないお話だったかとは思いますが、最後までお付き合いくださりどうもありがとうございました。