【第1話】社畜転生したらネコになりました!?
【第1話】社畜転生したらネコになりました!?
鳴り響くアラームと、途切れた意識
ピピッ、ピピッ、ピピッ――。
頭蓋骨の奥を直接叩かれるような、けたたましい電子音が狭い室内に響き渡っていた。
佐藤隼人は、粘りつくような重い瞼を、ミリ単位の重労働のようにゆっくりと持ち上げた。
目に入ってきたのは、見慣れすぎたオフィスの天井だ。安っぽい蛍光灯の片方が、ちかちかと不快な点滅を繰り返している。その明滅に合わせて、網膜にチクチクとした軽い痛みが走った。
デスクの端に置かれた硬いパイプ椅子の背もたれに首を預け、隼人は深く、深く、重い吐息を漏らした。喉の奥がカラカラに乾いていて、呼吸をするたびに砂を飲み込んでいるような違和感がある。
「……また、デスクで寝落ちしたか……」
自分の声とは思えないほど掠れた声が零れた。
肘のすぐ横には、昨日の夕方に買った冷めきった缶コーヒー。表面には埃混じりの薄い膜が張っていて、見るからに不衛生だが、それを片付ける気力すら湧いてこない。
青白い光を点滅させているデュアルディスプレイには、昨日からずっと格闘しているエクセルの膨大なデータシートと、クライアントに提出するプレゼン用のスライド資料が開かれたままだ。セルの中に並ぶ数字の列が、疲労でかすむ視界の中でぐにゃりと歪んで見えた。
壁に掛けられた安いアナログ時計を見る。短針と長針が指しているのは、午前六時十五分。
始業時間まで、あと二時間と少し。
「今日は……何曜日だ? いや、今月は何日だったっけ……」
隼人は今年で三十歳になる、中堅のシステムエンジニアだった。
新卒で入社してから八年。真面目で断れない性格が災いし、いつの間にかチームの「便利屋」兼「防波堤」のようなポジションに収まっていた。
『隼人くん、これ今日の24時までに頼める?』
『佐藤さん、クライアントから仕様変更の連絡です。明日朝一で修正案を提出してください』
『君ならできるよ。期待しているからね』
やりがいという名の無給残業。期待という名のタスクの無制限な押し付け。
月の残業時間は余裕で二〇〇時間を超え、ここ三ヶ月の平均睡眠時間は二時間未満。最後にまともな布団で寝たのがいつだったか、記憶の引き出しを探しても何も出てこない。入浴どころか、給湯室の洗面台で顔を洗うのが精いっぱいの毎日だった。
「……よし、顔洗って……栄養ドリンク飲んで……あと三十分でこのスライドを仕上げれば……」
隼人は重い腰を上げようと、両手をデスクについた。
だが――力が入らない。指先が、まるで自分のものではないゴムのパーツのように感覚を失っていた。
「え……?」
視界が急速にグラリと大きく揺れた。世界が90度傾いたような感覚。
直後、胸の奥――心臓の位置で、狂ったドラムのように不規則かつ激しい脈打ちが始まった。ドクン、ドクン、ドクン! と、胸の裏側を鈍器で直接殴られているかのような強烈な衝撃。
息が吸えない。肺が酸素を拒絶しているみたいに、喉がヒッ、と小さく鳴った。
急激な冷気が全身の皮膚を襲い、足先からじわじわと感覚が消えていく。
「あ……これ……やばい……かも……」
視界の端から黒いモザイクが広がり、あっという間に視界全体を塗りつぶしていく。
ガタリ、とオフィスチェアが倒れる鈍い音が、まるでプールに潜っているかのように遠くで聞こえた。
冷たいリノリウムの床に頬を打ち付けた感触。それが、佐藤隼人が三十年の人間人生で感じた、最後の感覚だった。
(ああ……結局、あの納品……間に合わなかったな……クライアントに……申し訳……ない……な……)
最期まで自分の体ではなく仕事の心配をしながら、佐藤隼人の意識は完全な闇へと落ちていった――。
「――やあ! 目を覚ましたかい、健げな人間よ!」
(……ん? 誰だ……? クライアントの担当者か……? 納期の延期なら……今すぐ対応しますから……)
あまりにも眩しい光に包まれ、隼人はうっすらと意識を取り戻した。
オフィスのような殺風景で青白い蛍光灯の光ではない。全身をぽかぽかと包み込むような、神々しく温かいゴールデンホワイトの光だ。
パチリと目を開けると、そこはオフィスでも病院でもなく、雲の上に広がるギリシャ神殿のような美しい大理石の空間だった。
目の前には、白銀の長い髪を風もないのにふわふわと漂わせ、眩いばかりの後光を背負った美しい女性が立っていた。
その瞳は澄み切ったエメラルドのように輝き、手に持った身の丈ほどもある杖からは、キラキラとした光の粒子が絶え間なく零れ落ちている。
「初めまして、佐藤隼人。私はこの世界を司る『癒やしの神 ラナルス・アテナ』だ」
ラナルス・アテナ。そう名乗った女性は、まさに絵画から抜け出してきた神様そのものの神聖なオーラを纏い、慈愛に満ちた(ように見える)笑みを浮かべて隼人を見下ろしていた。
「癒やしの……神様……? ということは、俺は……死んだんですか?」
「ふふ、察しが良いね。残念ながら君の心臓は止まってしまった。いわゆる過労死というやつだね」
さらりと、恐ろしい事実を告げられた。
しかし、隼人の心には何のショックも湧いてこなかった。むしろ、じわじわと込み上げてきたのは、圧倒的な「安心感」だった。
「そうか……死んだのか……。じゃあ、もう……残業もしなくていいし、深夜の緊急トラブル呼び出しに怯えて眠る必要もないんですね……」
隼人は大理石の床に力なくへたり込み、全身の空気を吐き出すように深く深く息を吐いた。
肩の荷が下りるどころの騒ぎではない。地球ひとつ分の重圧からようやく解放されたのだ。
「よし……これでやっと、永遠に休める……無職バンザイ……」
「ふふふ、甘いよ隼人くん!」
「……はい?」
神ラナルス・アテナが、バシッと景気の良い音を立てて指を鳴らした。
すると、彼女の真横の空間が歪み、巨大な金色の羊皮紙が出現した。そこにはでっかく『推薦状』と古代文字っぽい豪華な字体で書かれている。
「君の生き様、私は天界からしっかりと見させてもらっていたよ! 睡眠時間を削り、食事をエネルギーゼリーで済ませ、理不尽な要求にも笑顔で『承知いたしました』と応え続けたその姿……! まさに勤勉の鑑! 社畜の中の社畜! 素晴らしい労働精神だ!」
「は、はあ……恐縮です……?」
「そこでだ! 癒やしの神である私は決めたのだよ! 君のような有能で働き者の人材を、このまま無に還すのは世界の損失であると! したがって私、ラナルス・アテナが自らの名において特別に『強力推薦』を出した!」
ラナルス・アテナは満面の笑みでバンと豊満な胸を張った。
「次の異世界では、その圧倒的な社畜力を発揮できる最高のポジションを用意したよ! 膨大な書類仕事と国中の予算管理を一手に引き受ける『王宮の超・激務大臣』として転生させてあげよう! さあ、私に感謝したまえ!」
「――冗談じゃない!!!!」
隼人は天界を揺るがすほどの怒号を上げた。大理石の柱がびりびりと震える。
静寂に包まれていた天界に、元・社畜の魂からの怨嗟の叫びが響き渡った。
「なんで来世でも働かなきゃいけないんですか!? しかも『超・激務大臣』って何ですか!? 激務って自分で言っちゃってるじゃないですか!!」
「え? だって君、仕事大好きでしょう? 毎日楽しそうに残業していたじゃないか」
「楽しそうに見えましたか!? あれは白目剥いて魂抜けてただけですよ!! 俺は二度と働きたくない! 今度の人生は絶対に、絶対にダラダラして過ごすんだ!! 1秒たりとも労働なんてしてたまるかーーーっ!!」
「まあまあ、そんなに謙遜しなくても。さあ、推薦状はもうシステムに提出しちゃったからね! 異世界へ行ってらっしゃーい!」
「人の話を聞けぇぇぇぇぇ!!!」
ラナルス・アテナが笑顔のまま「えいっ」と愛らしく杖を振ると、隼人の足元に巨大で複雑な魔法陣が出現した。
底なしの虹色の光の穴へと吸い込まれていく隼人。
「覚えてろよラナルス・アテナ――! 次の人生は絶対に……絶対にぐうたら過ごしてやるからなああああっ!!」
隼人の絶叫が、天界の彼方へと消えていった。
3. もふもふの衝撃と、完璧な肉体
「う……うーん……」
頭が重い。だが、あの生前の「全身が鉛のように重く、息をするのも苦しい」という地獄のような倦怠感はどこにもなかった。
むしろ、体が驚くほど軽い。まるで羽毛布団の中に全身をすっぽりと包み込まれているような、圧倒的な心地よさだ。
「……生き……てる……?」
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、高く重厚な木製の天井と、精巧な彫刻が施された大きな梁。
そして、自分の鼻先にある「何か」。
ふさふさとした、雪のように真っ白な毛並み。
「ん……? なんだこれ……」
手を動かそうとした。
しかし、視界に入ってきたのは人間の五本指ではなく――
小さく、丸く、柔らかいピンク色の肉球がついた「白い前脚」だった。
「…………はい?」
隼人は大慌てで体を起こそうとした。
ポテッ、ゴロゴロ。
体のバランスがうまく取れず、フカフカのベッドの上で盛大に転がる。
「な、なんだこれ!? 足が四本ある!? お尻の後ろになんか長くてフリフリ動くパーツがついてる!?」
大パニックになりながら、ベッドから這い出し、部屋の隅にあった姿見の全身鏡へと這い寄る。
そこに映っていたのは――
雪のように毛並みが美しく、右目がサファイアのような青、左目がトパーズのような金の「オッドアイ」を持つ、一匹の小さな白猫の姿だった。
「に……にゃー!??(な……猫になってるー!?)」
自分の口から出たのは、人間の言葉ではなく、甲高く情けない猫の鳴き声だった。
「にゃ、にゃー!(嘘だろ!? あの神様、推薦状とか激務大臣とか言ってたのに、なんで猫なんだ!? 転生事故か!? バグか!?)」
混乱する頭を整理しようと、隼人――いや、白猫は自分の体をペタペタと触った。
毛並みは柔らかくフワフワ。耳はピクピクと音に合わせて独立して動く。
そして何より……肩こりがない! 腰痛もない! 目の下のひどいクマも、胃のキリキリする痛みも一切ない!
「にゃ……(これ……もしかして……)」
隼人の心に、ふつふつと猛烈な歓喜の感情が湧き上がってきた。
「にゃーっ!(勝った! 俺は神様の押し付けを回避したんだ! 猫なら仕事をしなくていい! 書類も書かなくていい! 納期も締め切りもない! 毎日寝て、ご飯を食べて、ゴロゴロしていれば『可愛い~』って褒められるんだ!!)」
そう、これぞまさに隼人が求めていた理想の「脱・社畜人生(猫生)」!
癒やしの神ラナルス・アテナの手違いか、魔法陣の誤作動かは分からないが、とにかく隼人は人間を辞め、圧倒的無職の『白猫』として生まれ変わったのだ。
「にゃ~ん(最高の人生が始まったぞー!)」
隼人はフカフカの絨毯の上でごろごろと転がり、四肢を全力で伸ばして自由の喜びを全身で噛み締めた。
4. 運命の飼い主との出会い
ギィ……と、重厚な部屋のドアが開く音がした。
「ふぅ……疲れた……。今日も全然作業が進まなかったな……」
疲れ切った声とともに、一人の女性が部屋に入ってきた。
それが、この事務所兼住宅のオーナーであり、後にフクの飼い主となる葵花 奏・二十二歳だった。
奏は艶やかな黒髪を後ろで一つに束ね、シンプルなシャツとズボンを身に纏っていたが、その表情は疲労困憊そのものだった。
透き通るような綺麗な瞳の下には、かつての隼人を思わせるような、深く黒いクマが浮かび上がっている。
「あれ……? 窓、閉め忘れてたっけ……?」
奏はおずおずと部屋の中を見渡し、絨毯の上で仰向けになって転がっている白猫――フクに視線を止めた。
「え……なに……この子……? どっから入ってきたの……?」
奏は目を丸くし、そっと膝をついてフクに近づいてきた。
フクはハッと正気に戻った。
(やばい! ここは誰かの家か!? 追い出されたら野良猫になって餓死しちゃうかも……! ここは元・社畜の世渡り上手スキルを発揮するとき!)
フクはゴロンと体勢を戻すと、クリクリのオッドアイを最大限に大きく見開き、甘えた高めの声で鳴いてみた。
「にゃ〜ん(お姉さん、可愛い猫ですよー。害はありませんよー)」
「〜っっっ!!?? かわい……っ!!」
奏の疲れていた顔が一瞬でパッと華やいだ。
彼女は両手でおそるおそるフクを抱き上げた。その手つきはとても柔らかく、温かい。
「なにこの子……真っ白で、お目目が青と金……! ぬいぐるみみたい……!」
奏はフクを胸に強く抱きしめ、うっとりと頬ずりをし始めた。
石鹸の良い香りがする。人間の頃なら事案になりかねない距離感だが、今のフクはただの猫だ。許される。すべてが許されるのだ!
「うち、食べ物くらいなら何とかしてあげられるけど……ここに居ついてくれる……?」
奏は少し不安そうにフクの顔を覗き込んだ。自分自身が経営でギリギリの生活を送っているからこその迷いだろう。
フクは「もちろん!」とばかりに、奏の手に自分のあたまをポンポンと擦り付けた。
「ふふ、嬉しい……! 今日からあなたの名前は『フク』ね。我が家に『福』を運んでくれるように……よろしくね、フクちゃん」
「にゃ(フクね。了解、最高のネーミングセンスだ)」
こうして、元・超絶社畜の佐藤隼人は、二十二歳で必死に働く女性・葵花奏の愛猫「フク」として、第二の人生をスタートさせたのだった。
――この時のフクはまだ知らなかった。
自分の体に染み付いた「社畜の習性」が、この後、奏を救い、そして街中を巻き込む大騒動を引き起こすことになるということを……。
鳴り響くアラームと、途切れた意識
ピピッ、ピピッ、ピピッ――。
頭蓋骨の奥を直接叩かれるような、けたたましい電子音が狭い室内に響き渡っていた。
佐藤隼人は、粘りつくような重い瞼を、ミリ単位の重労働のようにゆっくりと持ち上げた。
目に入ってきたのは、見慣れすぎたオフィスの天井だ。安っぽい蛍光灯の片方が、ちかちかと不快な点滅を繰り返している。その明滅に合わせて、網膜にチクチクとした軽い痛みが走った。
デスクの端に置かれた硬いパイプ椅子の背もたれに首を預け、隼人は深く、深く、重い吐息を漏らした。喉の奥がカラカラに乾いていて、呼吸をするたびに砂を飲み込んでいるような違和感がある。
「……また、デスクで寝落ちしたか……」
自分の声とは思えないほど掠れた声が零れた。
肘のすぐ横には、昨日の夕方に買った冷めきった缶コーヒー。表面には埃混じりの薄い膜が張っていて、見るからに不衛生だが、それを片付ける気力すら湧いてこない。
青白い光を点滅させているデュアルディスプレイには、昨日からずっと格闘しているエクセルの膨大なデータシートと、クライアントに提出するプレゼン用のスライド資料が開かれたままだ。セルの中に並ぶ数字の列が、疲労でかすむ視界の中でぐにゃりと歪んで見えた。
壁に掛けられた安いアナログ時計を見る。短針と長針が指しているのは、午前六時十五分。
始業時間まで、あと二時間と少し。
「今日は……何曜日だ? いや、今月は何日だったっけ……」
隼人は今年で三十歳になる、中堅のシステムエンジニアだった。
新卒で入社してから八年。真面目で断れない性格が災いし、いつの間にかチームの「便利屋」兼「防波堤」のようなポジションに収まっていた。
『隼人くん、これ今日の24時までに頼める?』
『佐藤さん、クライアントから仕様変更の連絡です。明日朝一で修正案を提出してください』
『君ならできるよ。期待しているからね』
やりがいという名の無給残業。期待という名のタスクの無制限な押し付け。
月の残業時間は余裕で二〇〇時間を超え、ここ三ヶ月の平均睡眠時間は二時間未満。最後にまともな布団で寝たのがいつだったか、記憶の引き出しを探しても何も出てこない。入浴どころか、給湯室の洗面台で顔を洗うのが精いっぱいの毎日だった。
「……よし、顔洗って……栄養ドリンク飲んで……あと三十分でこのスライドを仕上げれば……」
隼人は重い腰を上げようと、両手をデスクについた。
だが――力が入らない。指先が、まるで自分のものではないゴムのパーツのように感覚を失っていた。
「え……?」
視界が急速にグラリと大きく揺れた。世界が90度傾いたような感覚。
直後、胸の奥――心臓の位置で、狂ったドラムのように不規則かつ激しい脈打ちが始まった。ドクン、ドクン、ドクン! と、胸の裏側を鈍器で直接殴られているかのような強烈な衝撃。
息が吸えない。肺が酸素を拒絶しているみたいに、喉がヒッ、と小さく鳴った。
急激な冷気が全身の皮膚を襲い、足先からじわじわと感覚が消えていく。
「あ……これ……やばい……かも……」
視界の端から黒いモザイクが広がり、あっという間に視界全体を塗りつぶしていく。
ガタリ、とオフィスチェアが倒れる鈍い音が、まるでプールに潜っているかのように遠くで聞こえた。
冷たいリノリウムの床に頬を打ち付けた感触。それが、佐藤隼人が三十年の人間人生で感じた、最後の感覚だった。
(ああ……結局、あの納品……間に合わなかったな……クライアントに……申し訳……ない……な……)
最期まで自分の体ではなく仕事の心配をしながら、佐藤隼人の意識は完全な闇へと落ちていった――。
「――やあ! 目を覚ましたかい、健げな人間よ!」
(……ん? 誰だ……? クライアントの担当者か……? 納期の延期なら……今すぐ対応しますから……)
あまりにも眩しい光に包まれ、隼人はうっすらと意識を取り戻した。
オフィスのような殺風景で青白い蛍光灯の光ではない。全身をぽかぽかと包み込むような、神々しく温かいゴールデンホワイトの光だ。
パチリと目を開けると、そこはオフィスでも病院でもなく、雲の上に広がるギリシャ神殿のような美しい大理石の空間だった。
目の前には、白銀の長い髪を風もないのにふわふわと漂わせ、眩いばかりの後光を背負った美しい女性が立っていた。
その瞳は澄み切ったエメラルドのように輝き、手に持った身の丈ほどもある杖からは、キラキラとした光の粒子が絶え間なく零れ落ちている。
「初めまして、佐藤隼人。私はこの世界を司る『癒やしの神 ラナルス・アテナ』だ」
ラナルス・アテナ。そう名乗った女性は、まさに絵画から抜け出してきた神様そのものの神聖なオーラを纏い、慈愛に満ちた(ように見える)笑みを浮かべて隼人を見下ろしていた。
「癒やしの……神様……? ということは、俺は……死んだんですか?」
「ふふ、察しが良いね。残念ながら君の心臓は止まってしまった。いわゆる過労死というやつだね」
さらりと、恐ろしい事実を告げられた。
しかし、隼人の心には何のショックも湧いてこなかった。むしろ、じわじわと込み上げてきたのは、圧倒的な「安心感」だった。
「そうか……死んだのか……。じゃあ、もう……残業もしなくていいし、深夜の緊急トラブル呼び出しに怯えて眠る必要もないんですね……」
隼人は大理石の床に力なくへたり込み、全身の空気を吐き出すように深く深く息を吐いた。
肩の荷が下りるどころの騒ぎではない。地球ひとつ分の重圧からようやく解放されたのだ。
「よし……これでやっと、永遠に休める……無職バンザイ……」
「ふふふ、甘いよ隼人くん!」
「……はい?」
神ラナルス・アテナが、バシッと景気の良い音を立てて指を鳴らした。
すると、彼女の真横の空間が歪み、巨大な金色の羊皮紙が出現した。そこにはでっかく『推薦状』と古代文字っぽい豪華な字体で書かれている。
「君の生き様、私は天界からしっかりと見させてもらっていたよ! 睡眠時間を削り、食事をエネルギーゼリーで済ませ、理不尽な要求にも笑顔で『承知いたしました』と応え続けたその姿……! まさに勤勉の鑑! 社畜の中の社畜! 素晴らしい労働精神だ!」
「は、はあ……恐縮です……?」
「そこでだ! 癒やしの神である私は決めたのだよ! 君のような有能で働き者の人材を、このまま無に還すのは世界の損失であると! したがって私、ラナルス・アテナが自らの名において特別に『強力推薦』を出した!」
ラナルス・アテナは満面の笑みでバンと豊満な胸を張った。
「次の異世界では、その圧倒的な社畜力を発揮できる最高のポジションを用意したよ! 膨大な書類仕事と国中の予算管理を一手に引き受ける『王宮の超・激務大臣』として転生させてあげよう! さあ、私に感謝したまえ!」
「――冗談じゃない!!!!」
隼人は天界を揺るがすほどの怒号を上げた。大理石の柱がびりびりと震える。
静寂に包まれていた天界に、元・社畜の魂からの怨嗟の叫びが響き渡った。
「なんで来世でも働かなきゃいけないんですか!? しかも『超・激務大臣』って何ですか!? 激務って自分で言っちゃってるじゃないですか!!」
「え? だって君、仕事大好きでしょう? 毎日楽しそうに残業していたじゃないか」
「楽しそうに見えましたか!? あれは白目剥いて魂抜けてただけですよ!! 俺は二度と働きたくない! 今度の人生は絶対に、絶対にダラダラして過ごすんだ!! 1秒たりとも労働なんてしてたまるかーーーっ!!」
「まあまあ、そんなに謙遜しなくても。さあ、推薦状はもうシステムに提出しちゃったからね! 異世界へ行ってらっしゃーい!」
「人の話を聞けぇぇぇぇぇ!!!」
ラナルス・アテナが笑顔のまま「えいっ」と愛らしく杖を振ると、隼人の足元に巨大で複雑な魔法陣が出現した。
底なしの虹色の光の穴へと吸い込まれていく隼人。
「覚えてろよラナルス・アテナ――! 次の人生は絶対に……絶対にぐうたら過ごしてやるからなああああっ!!」
隼人の絶叫が、天界の彼方へと消えていった。
3. もふもふの衝撃と、完璧な肉体
「う……うーん……」
頭が重い。だが、あの生前の「全身が鉛のように重く、息をするのも苦しい」という地獄のような倦怠感はどこにもなかった。
むしろ、体が驚くほど軽い。まるで羽毛布団の中に全身をすっぽりと包み込まれているような、圧倒的な心地よさだ。
「……生き……てる……?」
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、高く重厚な木製の天井と、精巧な彫刻が施された大きな梁。
そして、自分の鼻先にある「何か」。
ふさふさとした、雪のように真っ白な毛並み。
「ん……? なんだこれ……」
手を動かそうとした。
しかし、視界に入ってきたのは人間の五本指ではなく――
小さく、丸く、柔らかいピンク色の肉球がついた「白い前脚」だった。
「…………はい?」
隼人は大慌てで体を起こそうとした。
ポテッ、ゴロゴロ。
体のバランスがうまく取れず、フカフカのベッドの上で盛大に転がる。
「な、なんだこれ!? 足が四本ある!? お尻の後ろになんか長くてフリフリ動くパーツがついてる!?」
大パニックになりながら、ベッドから這い出し、部屋の隅にあった姿見の全身鏡へと這い寄る。
そこに映っていたのは――
雪のように毛並みが美しく、右目がサファイアのような青、左目がトパーズのような金の「オッドアイ」を持つ、一匹の小さな白猫の姿だった。
「に……にゃー!??(な……猫になってるー!?)」
自分の口から出たのは、人間の言葉ではなく、甲高く情けない猫の鳴き声だった。
「にゃ、にゃー!(嘘だろ!? あの神様、推薦状とか激務大臣とか言ってたのに、なんで猫なんだ!? 転生事故か!? バグか!?)」
混乱する頭を整理しようと、隼人――いや、白猫は自分の体をペタペタと触った。
毛並みは柔らかくフワフワ。耳はピクピクと音に合わせて独立して動く。
そして何より……肩こりがない! 腰痛もない! 目の下のひどいクマも、胃のキリキリする痛みも一切ない!
「にゃ……(これ……もしかして……)」
隼人の心に、ふつふつと猛烈な歓喜の感情が湧き上がってきた。
「にゃーっ!(勝った! 俺は神様の押し付けを回避したんだ! 猫なら仕事をしなくていい! 書類も書かなくていい! 納期も締め切りもない! 毎日寝て、ご飯を食べて、ゴロゴロしていれば『可愛い~』って褒められるんだ!!)」
そう、これぞまさに隼人が求めていた理想の「脱・社畜人生(猫生)」!
癒やしの神ラナルス・アテナの手違いか、魔法陣の誤作動かは分からないが、とにかく隼人は人間を辞め、圧倒的無職の『白猫』として生まれ変わったのだ。
「にゃ~ん(最高の人生が始まったぞー!)」
隼人はフカフカの絨毯の上でごろごろと転がり、四肢を全力で伸ばして自由の喜びを全身で噛み締めた。
4. 運命の飼い主との出会い
ギィ……と、重厚な部屋のドアが開く音がした。
「ふぅ……疲れた……。今日も全然作業が進まなかったな……」
疲れ切った声とともに、一人の女性が部屋に入ってきた。
それが、この事務所兼住宅のオーナーであり、後にフクの飼い主となる葵花 奏・二十二歳だった。
奏は艶やかな黒髪を後ろで一つに束ね、シンプルなシャツとズボンを身に纏っていたが、その表情は疲労困憊そのものだった。
透き通るような綺麗な瞳の下には、かつての隼人を思わせるような、深く黒いクマが浮かび上がっている。
「あれ……? 窓、閉め忘れてたっけ……?」
奏はおずおずと部屋の中を見渡し、絨毯の上で仰向けになって転がっている白猫――フクに視線を止めた。
「え……なに……この子……? どっから入ってきたの……?」
奏は目を丸くし、そっと膝をついてフクに近づいてきた。
フクはハッと正気に戻った。
(やばい! ここは誰かの家か!? 追い出されたら野良猫になって餓死しちゃうかも……! ここは元・社畜の世渡り上手スキルを発揮するとき!)
フクはゴロンと体勢を戻すと、クリクリのオッドアイを最大限に大きく見開き、甘えた高めの声で鳴いてみた。
「にゃ〜ん(お姉さん、可愛い猫ですよー。害はありませんよー)」
「〜っっっ!!?? かわい……っ!!」
奏の疲れていた顔が一瞬でパッと華やいだ。
彼女は両手でおそるおそるフクを抱き上げた。その手つきはとても柔らかく、温かい。
「なにこの子……真っ白で、お目目が青と金……! ぬいぐるみみたい……!」
奏はフクを胸に強く抱きしめ、うっとりと頬ずりをし始めた。
石鹸の良い香りがする。人間の頃なら事案になりかねない距離感だが、今のフクはただの猫だ。許される。すべてが許されるのだ!
「うち、食べ物くらいなら何とかしてあげられるけど……ここに居ついてくれる……?」
奏は少し不安そうにフクの顔を覗き込んだ。自分自身が経営でギリギリの生活を送っているからこその迷いだろう。
フクは「もちろん!」とばかりに、奏の手に自分のあたまをポンポンと擦り付けた。
「ふふ、嬉しい……! 今日からあなたの名前は『フク』ね。我が家に『福』を運んでくれるように……よろしくね、フクちゃん」
「にゃ(フクね。了解、最高のネーミングセンスだ)」
こうして、元・超絶社畜の佐藤隼人は、二十二歳で必死に働く女性・葵花奏の愛猫「フク」として、第二の人生をスタートさせたのだった。
――この時のフクはまだ知らなかった。
自分の体に染み付いた「社畜の習性」が、この後、奏を救い、そして街中を巻き込む大騒動を引き起こすことになるということを……。




