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黒き影

リヒトはサイドテーブルに残っていた炭酸水の空ボトルをゴミ箱に放り投げると、カーテンを開け放ち、洗面所へと向かった。


顔を洗い、歯を磨き、鏡の前で髪を整える。トーストとコーヒーだけの簡素な朝食を胃に流し込み、講義に必要なテキストを鞄へ滑り込ませる。一連の動作はルーチン化され、そこに一切の無駄はない。


全ての準備が終わると、リヒトは玄関へ向かい、扉を開けた。外はやや曇り。それ以外、昨日と何ら変わらない朝だった。唯一の相違点は、あの「白い世界」の記憶が、夢とは思えないほどの解像度で脳裏に焼き付いていることだけだ。通常の夢ならば、洗顔を終える頃には泡沫のように消えているはずなのに。


アパートの階段を降りると、ゴミ出しから戻ってきた階下の住人が顔を綻ばせた。


「あら、リヒトちゃん。おはよう。今から学校かい?」


リヒト「おはようございます。ええ、そのつもりです。」


「そうかい、偉いねえ。……まあ、リヒトちゃんなら何も心配いらないだろうけどね。」


おばさんは微笑ましげに笑うと、自分の部屋へ戻ろうと背を向けた。


その時だった。おばさんの背後の空間に、ノイズのような亀裂が走ったのは。


リヒト「な……今の……。」


テレビの映像が乱れるような、あるいは空間そのものがブレるような不快な歪み。


リヒトの声に、おばさんが不思議そうに振り返る。


「どうしたの?行かないのかい?」


そこに歪みはもうなかった。リヒトは瞬きをして、平静を取り繕う。


リヒト「いえ……何でもないです。行ってきます。」


通学路のアスファルト。すれ違う人々。大学の校舎。どこを見渡しても、異常はない。


リヒト「(あまり幻覚で片付けるのは好きじゃないが……あの夢のせいで、疲れているのかもしれない。時には切り替えも大事だな。)」


リヒトは思考のスイッチを切り替え、一限目の講義室へと足を踏み入れた。


科目は数学。だが、何も難しいことはない。ただ、先生の話を聞いて、理解すればいいだけだ。それだけの事。リヒトにとって、今やっていることは、小学一年生の算数と何ら変わりはなかった。


欠伸を噛み殺し、ペンを回す。思考の余白はどうしても、あの白い世界の記憶へと回帰してしまう。


昼休みも、午後の講義も、特筆すべきことは何もなかった。昨日と同じ、平和で、退屈で、どうしようもなく「凪」の状態。


陽が傾き始め、キャンパスがオレンジ色に染まる頃、リヒトは帰路に就いた。


大学を出てしばらく歩いた先の曲がり角。そこから、一人の女子学生がおずおずと姿を現した。まるで、タイミングを見計らっていたかのように。


「あの……彩雲くん、だよね……?」


リヒト「ああ、そうだけど……。」


彼女は頬を赤らめ、指先をもじもじと絡ませている。


「あの……その……。」


リヒト「ええと……法学部の望月さん、だったかな? 俺に何か用?」


名前を呼ばれた瞬間、彼女の表情が花が咲いたように明るくなった。


「えっ……!そ、そんな……名前、覚えててくれたの……?」


リヒトにとって「忘れる」ということは、せいぜい昨日見た夢くらいのものだ。あいにく今日は、その唯一の忘却すらも、神は許してくれないらしい。


リヒト「もちろん。何か講義で分からないところでもあった?俺で良ければ教えるけど。」


「えっと……うん、ありがとう……!でも、今日はちょっと、別の話で用があって……。」


リヒトは内心で小さく息をついた。彼女が曲がり角の陰で待機していた気配には、数十メートル手前から気づいていた。そしてこの雰囲気。要件を察するには十分すぎる。


リヒト「大丈夫、遠慮せず言って。どうしたんだ?」


望月と呼ばれた少女は、意を決したように顔を上げ、潤んだ瞳でリヒトを見つめた。


「あの……その……私、前から彩雲くんのことが気になってて……えっと……す、好きで……す……。」


夕暮れの静寂に、震える告白が溶ける。リヒトは困らせないよう柔らかく微笑み、一拍の間を置いてから口を開いた。


リヒト「気持ちは嬉しいよ。ありがとう。……でも、ごめん。俺じゃ君に見合うか分からない。」


傷つけないための拒絶。定型文のような優しさ。


リヒト「それに、望月さんにはもっと合う人がいると思うよ。焦らず、ゆっくり見つけていけばいいんじゃないかな。」


「彩雲くん……。」


彼女はしばらく呆然としていたが、やがて無理に作った笑顔で頷こうとした。


「ありが……。」


その時だった。リヒトの視界から色彩が消え、世界がコマ送りのようにスローモーションになった。


望月の背後。路地の影から、粘着質で黒い「何か」が、弾丸のような速度で彼女に迫っていた。


リヒト「危ない――!」


思考よりも先に体が動いた。リヒトは望月の体を突き飛ばすように抱き留め、アスファルトの上へとなだれ込む。


ザッ!


空を切った黒い影が、アスファルトを掠めて霧散していく。リヒトが顔を上げると、そこにはもう何もなかった。


リヒト「(何だ、今のは……!まさか、朝見たやつと同じ……?)」


リヒトが鋭い視線を周囲に巡らせていると、腕の中で押し倒された格好の望月が、状況も分からず真っ赤になって慌てふためいていた。


「あ、あわわ……。彩雲、くん……?」


リヒトはハッと我に返り、すぐに体を起こして彼女に手を差し伸べた。


リヒト「ご、ごめん……何でもないよ。立てるか?怪我は?」


強引に抱き寄せられた事実だけが頭を占めているのか、望月は嫌な顔ひとつせず、むしろ夢見心地でその手を取った。


「うん……大丈夫。」


彼女はスカートの埃を払い、はにかむように微笑んだ。


「そっか……彩雲くんがそう言うなら、きっとそうなのかも。……あの、私、もう少し考えてみるね!また明日!」


リヒト「ああ、気をつけて。」


ぺこりと頭を下げ、望月は軽い足取りで去っていった。その後ろ姿を見送りながら、リヒトの表情から笑みが消える。


夕闇が濃くなる帰り道。リヒトは冷たい掌の感触を確かめるように握りしめ、さっきの光景を反芻していた。


リヒト「(……さっきのは一体、何だったんだ。)」


思考を巡らせながらアパートの階段を上がり、自室のドアをくぐる。


玄関で靴を脱ぎながら、リヒトはふと、その疑問に対する「解」を確かめる術を思いついた。


リヒト「……よし。」


午後十八時。リヒトは着替えと手洗いを済ませると、夕食も入浴も後回しにして、早々にベッドへと身を投げ出した。スマートフォンのアラームを三十分後にセットする。


まず、顔の筋肉を緩める。深い呼吸を繰り返しながら、次に肩、腕と順に力を抜いていく。胸、胴体、脚……重力に身を委ねるように脱力し、最後は思考を放棄して頭を空っぽにする。これは米軍式睡眠法と呼ばれている有名な手法だ。


数分もしないうちに、リヒトの意識は泥のような闇へと沈んでいった。


――そして、次に瞼を開いた時。


リヒト「……ビンゴだ。」


そこは、昨日と同じ。上下左右の概念がない、無限に続く白一色の世界。


あの天使――アルフェッカは、ここを『真っ白な世界リアルデアル』と呼んでいた。


リヒト「おい、いるんだろ。さっさと出てこいよ。」


虚空に向かって声を放つ。直後、空間そのものが悲鳴を上げるように裂けた。今回は前触れもなく、いきなり本題から始まったようだ。


裂け目から巨大な眼球がヌルリと現れ、六枚の翼を広げて宙に鎮座する。空間の傷口は、何事も無かったかのようにシュンと閉じた。


アルフェッカ「……彩雲リヒト。汝は今宵、誰に招かれるでもなく、己の意思で此処へ至った。これは汝に『神の力の種』が無事宿ったことを意味する。」


リヒト「神の力だと?」


アルフェッカ「……汝ほどの知性があれば、多少のヒントを与えれば答えは導けるはずだ。本来、下界の生物が自らの意思でこの領域へ踏み入ることは不可能に近い。」


リヒト「……つまり、前回はアンタが俺を招いたが、今回は俺が勝手に入ってきた。……それができるようになったこと自体が、何かの『力』を得た証拠ってわけか。」


アルフェッカ「……真っ白な世界へと至る方法は二つ。一つは、天使が下界の魂を霊体としてここへ召喚すること。そしてもう一つは、下界の生物が資格を得て、その『鍵』を用いて扉を開くことだ。」


リヒト「(……確かに。あの時、一瞬だが世界が止まって見えた。まるで映像をコマ送りにしたかのような感覚。そうでなければ、俺の元来の動体視力ではあの怪物を捉えることはできなかったはずだ。)」


アルフェッカは、リヒトの脳裏を過ぎった思考を読み取ったかのように言葉を継ぐ。


アルフェッカ「――否。その認識は正確ではない。」


リヒト「……何が違うって言うんだ?」


アルフェッカ「汝は肉眼で『黒影ケラゲラ』を捉えたのではない。物的存在が霊的存在を捉えることなど、本来は不可能だ。」


リヒト「黒影ケラゲラ……あの怪物の名前か。」


アルフェッカ「汝は今、物質と霊質の境界を自在に行き来し得る生物へと昇華しつつある。あの瞬間、汝は己の『まなこ』で黒影を視認したのではなく、魂でそれを『見た』に過ぎない。」


リヒト「……つまり、肉眼では見えないはずのものを、俺の中に宿ったその『力』とやらが強制的に可視化させた。……そういうことだな?」


アルフェッカ「……凄まじき理解力だ。汝の知性は既に、人の身に許された領域を逸脱している。」


リヒト「俺は回りくどいやり方は好きだ。初めから答えが分かっている問題ほどつまらないものはないからな。……だが。」


リヒトの瞳に、鋭い光が宿る。


リヒト「アンタがもし本当に『天使』なのだとしたら……神様の課す試練とやらは、無関係の人間を巻き込んでまで行うものなのか?」


真っ白な空間に、リヒトの静かな怒気が満ちる。


リヒト「……それだけ教えてくれ。アンタは本当に『天使』なのか……それとも、ただの『悪魔』なのかを。」


アルフェッカ「……我の主観では、我は紛れもなく翼を持った天使だ。……だが、主観というものはその主体によって意味が異なる。故に、我が何者であるかを決めるのは我自身でありながら、同時に汝に許された自由意志の一つでもある。」


リヒト「結局は俺の捉え方次第、ってことか……。神様にしてはハッキリしない答えだな。だが、アンタがそう言ってくれたおかげで、俺の中で一つ確信できたよ。」


アルフェッカ「ほう……?」


リヒト「……アンタは『天使』でもなければ『悪魔』でもない……善悪の彼岸に立つ、紛れもない『絶対者システム』だってことをな。」


アルフェッカが、その巨大な瞳を細めたように見えた。


アルフェッカ「……少なくとも、『この世界』において我は絶対。今の段階では、そのような理解で相違ない。」


またしても煙に巻くような物言いをするアルフェッカに、リヒトはため息混じりに肩を竦めた。


リヒト「仕方ねえから、アンタのその『試練』とやらに……今は付き合ってやるよ。……だけど、それはあくまで俺にとっての『試練』であって、他の人間にとっての『試練』ではない。これは譲れねえ。」


アルフェッカ「フフ……人間の知性で、天使の与える試練を理解しようと言うのか。面白い。」


リヒト「……アンタの理屈じゃ、少なくとも今の俺は、ただの人間ってわけでもなさそうだ。」


アルフェッカ「……如何にも。今の汝が昨夜の汝と決定的に異なるのは、その魂に宿りし『種』の有無であろう。」


リヒト「……俺がアンタの期待に応えられなかったら、アンタは俺をどうするつもりだ?」


アルフェッカ「さあな……それは運命次第だ。この世における存在の最小単位とは、素粒子でもなければ情報でもない。……『可能性』なのだから。」


その言葉を最後に、リヒトの意識が急速に遠のいていく。アルフェッカの姿が、白い霧の向こうへと溶けて消えた。


ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……!


無機質な電子音が、リヒトを現実へと引き戻した。リヒトは跳ね起きるように上半身を起こし、サイドテーブルのスマートフォンを叩いてアラームを止めた。


荒い呼吸を整えながら周囲を見渡す。窓の外はすっかり日が落ち、街灯の光がカーテン越しに滲んでいた。


リヒト「……夢、じゃないな。」


リヒトは自分の右手を目の前に掲げ、じっと見つめる。


形も、色も、何も変わっていないありふれた手。だが、握りしめた拳の中には、確かに今までとは違う「何か」が脈打っているのを感じた。


リヒト「……上等だ。やってやるよ。」


暗闇の中で、リヒトは一人、不敵に笑った。それは退屈な日常の終わりであり、非日常への入り口だった。

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