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天使との邂逅

西暦2031年。太陽系第三惑星、地球。東アジアの島国・日本、福岡県久留米市。筑後川のほとりに広がるこの街にも、穏やかな朝の光が降り注いでいた。


ごくありふれたアパートの一室。鏡の前で軽く髪を整え、バッグを肩にかける青年がいた。


彩雲リヒト、19歳。彼は部屋の空気を一度深く吸い込むと、誰もいない空間に向けて声をかけた。


リヒト「行ってきます。」


その声には気負いがなく、どこか柔らかい響きがあった。彼はドアを開け、春の風が舞う通りへと歩き出した。


月政つきまさ大学のキャンパスは、1限目に向かう学生たちの活気で満ちていた。リヒトは流れに逆らうことなく、自然な足取りで校舎へ入り、大講義室の後方にある席に腰を下ろした。


講義科目は『現代経済史』。教壇に立つ教授は、スクリーンに映し出された複雑な世界恐慌のチャートを指し示しながら、難解な解説を続けている。周囲の学生の多くが必死にキーボードを叩いたり、あるいは諦めて船を漕ぎ始めたりしていた。


リヒトは頬杖をつき、静かな瞳でただスクリーンを眺めていた。ノートを取る必要はない。一度見れば、構造ごと記憶できる。


教授の言葉の端々に混じる小さな矛盾や、引用元のデータの古さに気づいても、彼は決して手を挙げて講義を止めるようなことはしない。それは教授の顔を立てるためであり、この場の調和を乱さないための彼なりの配慮だった。


リヒト「(……今日の雲は流れが速いな。)」


思考の半分で講義内容を完璧に咀嚼しながら、もう半分で窓の外を眺める。東京大学だろうが、海の向こうのオックスフォードだろうが、彼が本気になれば、少なくとも学力的な意味では首席で合格するのにそう時間はかからなかっただろう。


けれど、リヒトはこの地方都市での生活を選んだ。

彼にとって「場所」はさして重要ではない。どこにいようと、彼は彼自身であることをやめられないからだ。


「――では、このインフレ局面における最適解について、誰か答えられる者はいるか?」


教授の問いかけに、数百人の学生が静まり返る。リヒトは窓の外から視線を戻した。答えは分かっている。だが、あえて自分が目立つ必要もない。彼は周囲の沈黙に合わせ、静かに時が過ぎるのを待った。


昼休み。喧騒を避けてキャンパス裏手の旧校舎へ向かうと、自販機の前で数人の影がたむろしていた。


アメフト部崩れの強面こわもての男たちが3人、一人の小柄な男子学生を壁際に追い込んでいる。


「おい、聞こえてんだろ?財布出せって。」

「あ、あの……今日は本当に持ち合わせが……。」


典型的なカツアゲの現場だ。リヒトは足を止め、一瞬だけ思案した。


見て見ぬふりをして通り過ぎることもできる。だが、彼らが塞いでいるあの自販機には、リヒトが愛飲している特定の銘柄の無糖コーヒーがあった。他の場所へ買いに行くのは動線として非効率的だ。それに、このまま暴力沙汰になれば、後で警察や警備員が来てこの静かな休憩場所が騒がしくなる。


リヒトはため息をつくこともなく、ごく自然な足取りでその集団へと歩み寄った。


リヒト「すいません、ちょっと通してくれますか。」


張り詰めた空気をまるで読まない、柔らかな声だった。恫喝していた男たちが、意表を突かれて振り返る。


「あぁ?なんだテメェ。空気読めや。」


リヒト「すみません。ただ、そこにあるコーヒーを買いたくて。」


リヒトは男たちの威圧感など存在しないかのように、彼らの間をすり抜けようとした。その態度が癇に障ったのか、リーダー格の男が舌打ちと共にリヒトの肩を粗暴に掴んだ。


「ナメてんのかオイ!」


男が力任せにリヒトを引き倒そうとし、そのまま拳を振り上げる。正義感ゆえの介入ではない。単なる「買い物」の邪魔をされたことへの障害排除。リヒトの対応は事務的だった。


男が腕を引く力に合わせて、リヒトはあえて自分から重心を崩してふところに入り込んだ。まるで抱擁でもするかのような距離。


男が「えっ」と声を漏らす一瞬の隙に、リヒトは男の足首に自分の足を軽く絡め、掴まれていた肩を支点にしてクルリと体を回転させた。


リヒト「何してんすか。」


ドサッ。


柔道とも合気道ともつかない奇妙な動きで、巨漢の男がアスファルトに転がされる。リヒトは相手を傷つけるための打撃は一切使わない。ただ、相手のバランスを崩し、無力化する点においてのみ最適化された動きだった。


残りの二人がギョッとして殴りかかってくる。リヒトは硬貨をポケットから取り出しながら、最小限のヘッドスリップで拳を避け、すれ違いざまに二人の膝カックンをするように軽く関節を蹴った。


「ぐあっ!?」


二人が膝から崩れ落ちる。暴力というよりは、手品を見ているような鮮やかさだった。リヒトは倒れた彼らを気にする様子もなく、ようやく空いた自販機に硬貨を投入した。


ガコン、と冷たい缶コーヒーが落ちてくる。


「……あ、あの!」


助けられた男子学生が、震える声で話しかけてきた。


「あ、ありがとう……助けてくれて……」


リヒト「ん?いや、気にすんなよ。俺もここを使いたかっただけだからさ。」


リヒトはプシュッと缶を開け、屈託のない笑みを向けた。そして「用事は済んだ」とばかりに、落ち着いた足取りでその場を立ち去った。


後に残されたのは、狐につままれたような顔の被害者と、何が起きたのか理解できずに呻いている大男たちだけだった。


夕闇が迫る帰り道。リヒトはスーパーの袋を提げて、アパートへの道を歩いていた。


彼は万能だ。学問も、運動も、芸術も。やろうと思えば何でも「プロ級」にこなせてしまう。だからこそ、彼の中には常に小さな空洞があった。壁にぶつかる悔しさも、必死になる高揚感も、彼には遠い世界の話だ。


リヒト「……今日は満月か。」


アパートの階段を上がりながら夜空を見上げる。丸く輝く月が、静かに彼を見下ろしていた。


部屋に入り、手早く夕食を作って食べる。誰に見せるわけでもないのに、その所作には無駄がなく、洗練されていた。


夕食を終え、シャワーを浴びてさっぱりしたリヒトは、冷蔵庫から取り出した炭酸水を片手にベッドへ寝転がった。手には愛用しているタブレット端末がある。画面に映し出されているのは、週刊誌で連載中の人気バトル漫画だ。


しばらく、ひたすら無言でフィクションの世界に没頭していたリヒトは、やがて満足げに息をつき、最新話を読み終えた端末をサイドテーブルに置いた。炭酸水を飲み干し、明かりを消す。


心地よい疲労感すらないまま、彼はシーツにくるまった。


呟きは闇に溶けた。そのまどろみが、日常と非日常の境界線であることに気づかぬまま、彩雲リヒトは深い眠りへと落ちていった。


意識の底。夢の淵。ふと、リヒトは瞼を開いた。


リヒト「……何だ、ここは。」


そこは現実の自室ではなかった。見渡す限り、白一色。上下左右の区別すら曖昧な、純白の虚無が広がっている。


リヒト「明晰夢か……?」


試しに「醒めろ」と意識を強く念じてみるが、世界が揺らぐ気配はない。どうやら、単なる夢というわけでもなさそうだ。リヒトはあてどなくその白い荒野を歩き出した。


リヒト「(不思議な場所だな……。)」


現実世界から完全に隔離された、どこか死後の世界を思わせる静寂。


どれほど歩いただろうか。景色は変わらず、地平線も見えない。いくら歩いても先が見える気配はなく、ただ白い空間が続くだけだ。そして奇妙なことに、肉体的な疲労感は一切感じられなかった。


リヒト「……おい、誰かいるのか?いい加減、何かしらの進展イベントがないと困るんだが。」


声を張り上げてみる。だが、返答はない。声が反響すらせず、白に吸い込まれていく感覚だけが残る。


リヒト「はぁ……。体感で数十分は移動したが、これじゃ埒が明かないな。」


リヒトはため息をつくと、その場に――地面があるのかも定かではないが――胡座をかいて座り込んだ。焦燥感はない。彼は静かに目を閉じた。


リヒト「(暇だな。退屈凌ぎに、来週の試験問題のシミュレーションでもするか。)」


それからしばらくの間、リヒトはただ無言で瞑想に耽った。脳内で講義内容を再生し、再構築する。周囲には相変わらず、何の変化も訪れない。


リヒト「(……やはり奇妙だ。現実ではないと理解しているのに、五感情報の解像度が高すぎる。クオリアが鮮明だ。まさか、俺は死んだのか?)」


その時だった。リヒトの背筋を、氷のような感触が撫でた。


リヒト「……ッ!」


反射的に振り返る。だが、そこには誰もいない。ただ白い空間が続いているだけだ。


リヒト「(俺には分かる。今のは気のせいなんかじゃない。ここまで明瞭な意識がある状態で、今の感覚を偶然で片付けるのは……どうも論理的じゃない。)」


リヒトが再び正面へ向き直った、その瞬間。先ほどまでは「無」であったはずの目の前に、突如として「それ」は鎮座していた。

 

リヒト「ッ……何だ……これは……。」


それは普通なら、恐怖のあまり思考と肉体が凍りついてもおかしくないほどの光景。無理もない。眼前に浮かんでいたのは、数メートルを超える巨大な眼球。そして、それを包み込むように羽ばたく六枚の翼。


リヒト「六枚の翼に、眼球……。まるで旧約聖書における熾天使セラフィムの造形そのものだな。」


その巨大な瞳が、ギョロリとリヒトを見下ろしている。距離はあまりに近い。しかしリヒトは、悲鳴を上げることも腰を抜かすこともなく、ただ知的好奇心を湛えた瞳でその異形を見つめ返した。


やがて、その存在から音が発せられた。口などない。空気の振動ですらない。脳髄に直接響くような、無機質な機械音声だった。


「太陽系第三惑星、地球。国籍、日本。福岡県久留米市――。」


抑揚のない声が、リヒトを見据えたまま紡がれる。


「哺乳綱サル目、ヒト科ヒト属。生物学的性別、男。個体年齢十九。戸籍名――彩雲リヒト。」


どこから入手したのかも知れない個人の詳細データを、怪物はただ淡々と読み上げていた。


リヒト「……へえ、よく知ってんじゃんか。」


リヒトは口端をわずかに吊り上げ、不敵な笑みを浮かべてみせた。だがその実、背筋を這い上がる原始的な悪寒を理性の力で必死に押さえ込んでいた。自身の情報を完全に把握されていることへの生理的な忌避感。それを悟らせまいとする、彼なりの虚勢だった。


その刹那、怪物の巨大な眼球が、ギョロリと音を立てるかのように見開かれる。


アルフェッカ「――人間の小僧。貴様は今、何故ここに居る?」


理解不能な問いだった。「何故」と問いたいのはこちらの方だ。


リヒト「……愚問だな。それはこっちが聞きたいくらいだ。」


アルフェッカ「……ここは本来、生身の人間が踏み入れる領域ではない。汝の状態は、物体とも霊体とも定義し難い……極めて不可解な現象だ。」


リヒト「誰かは知らないが、アンタが今言った台詞、そっくりそのままお返しするよ。」


アルフェッカ「ほう……返してどうなる?何の対価も無しに、我が答えるとでも思っているのか。……たかが、人間風情が。」


リヒト「フッ……いかにも『神様』って言い草だな。……だが、多くの伝承において、対価を要求してくるのは決まって悪魔の方だ。」


リヒトは怯むことなく、眼前に鎮座する異形を見上げた。


リヒト「……アンタのその姿は、天使とも悪魔とも取れる。どちらの流儀に従うつもりだ?」


アルフェッカ「……汝が今此処で、我に『崇拝』を抱くか『恐怖』を抱くか……其れによって、我が与えるべきモノは変わる。――その運命さえも、汝の答えによって分岐するだろう。」


試されている。リヒトは瞬時にそう理解した。だが、小細工は通じない相手だとも悟っていた。


リヒト「……判断はアンタ自身ですればいい。……さっきの声はアンタのものだろう?ならば、俺が何者で、今何を考えているのか……その思考の深層まで、全てお見通しのはずだ。」


重苦しい沈黙が場を支配する。やがて、脳髄に響く声が再び紡がれた。


アルフェッカ「……よかろう。汝が今抱いている感情は、崇拝でもなければ恐怖でもない……『畏敬』あるいは『畏怖』だ。」


リヒト「畏敬、か……。」


アルフェッカ「……汝は、惑星地球における『人間』という種の、一つの到達点だ。」


アルフェッカ「……しかし、汝には決定的に欠落しているものがある。……それが何か理解できるか?」


リヒト「……わざわざ『人間』という言葉を選んだ以上、人間以外の生物が持ち合わせている要素と比較すれば、答えは自ずと出る。」


リヒトの即答に、天使とも悪魔ともつかぬ存在が、興味深げに眼を細めたように見えた。


アルフェッカ「ほう……。」


リヒト「……アンタの望む答えをなぞるなら、今の俺に最も欠けているものは――『力』だろうな。」


その瞬間、存在の背にある六枚の翼が大きく羽ばたいた。翼の内側に潜んでいた無数の小さな眼球が、一斉に蠢く。上下左右、バラバラに動いていた瞳たちが、次の瞬間、すべてリヒト一点を凝視した。


アルフェッカ「……悪くない答えだ。人間が他の生物を遥かに凌駕する要素、それは『知性』。対して、人間が他の生物より遥かに劣る要素、それこそが『力』だ。汝が人間である以上、肉体という物質的な限界を超えることは叶わん。」


アルフェッカ「……物体を超えた高次存在の力を借りずして、の話だがな。」


リヒトは無意識に唾を飲み込んだ。


リヒト「……何が言いたい?」


アルフェッカ「人間に力を与えることは、天使の掟に背く重罪。だが、その法を定義したのもまた、過去の我自身だ。以前の我と現在の我が異なる思想を持つのは、下界の生物とて同じこと。」


リヒト「……その口ぶりだと、アンタが言う『天使』ってのは、この世にアンタ一柱しかいないように聞こえるな。」


アルフェッカ「然り……此処に汝を召喚した以上……我が汝に力を与えることは必然の運命さだめ……全ては、汝が此処に現れた刹那より決まっていたことだ。」


リヒト「運命、ねぇ……。生憎だが、俺はそんな不確定な概念、これっぽっちも信じたことはない。」


アルフェッカ「それは合理的な判断だ……。それこそが、汝が生物として最高峰の知を有していることの、何よりの証明……。」


リヒト「……最初の質問は、俺を試すためのブラフか?」


アルフェッカ「試す必要などない……全ては最初から決まっている。未来を定義するのは、常に過去であるという真理は揺るがない。」


リヒト「なるほど……。アンタのその姿も、人間の解釈を歪めないために、あえて異形を取っているってわけか。……畏敬と畏怖、二つの感情が両立するよう……最も中立的で、不安定な形を。」


天使は沈黙した。肯定も否定もしないその静寂こそが、何よりの答えだった。


リヒト「……力を与えてくれるんじゃなかったのか?」


リヒトが静かに問いかける。


アルフェッカ「これは汝にとって、最後の日常となるだろう。目覚めた時、全て分かる。汝なら言わずとも理解できると、世界がそう告げている。」


リヒト「……そうかよ。それなら話は終わりだ。元の世界に帰してくれ。」


天使の巨体が、音もなく浮上を始める。


リヒト「最後に二つ、聞いていいか?」


天使は、リヒトの問いを予期していたかのように、ゆっくりとその視線を降ろした。


リヒト「アンタの名前を教えてくれ。……もっとも、天使に個体名があればの話だけどな。」


アルフェッカ「我が名はアルフェッカ。この世に存在する唯一の天使にして、下界の森羅万象に干渉し得る絶対者……。」


天使は言葉を残し、遥か高みへと昇っていく。距離は離れていくはずなのに、その声は鼓膜ではなく脳へ直接、鮮明に響き続けていた。同時に、リヒトの意識が急速に薄れ始める。


リヒト「っ……最後の質問だ。」


リヒトは膝をつき、霞む視界で天上を見上げた。


リヒト「……ここは、どこなんだ?」


一瞬の静寂の後、天使の啓示が降りてきた。


アルフェッカ『――真っ白な世界リアルデアル』。」


その言葉を最後に、リヒトの意識はプツリと途切れた。世界は白に溶け、彼は深い闇へと沈んでいった。


見慣れた天井。肌に馴染んだベッドの感触。そして、カーテンの隙間から差し込む、いつもと変わらない朝の光。


リヒトはゆっくりと上半身を起こし、まだ少し重たい瞼を擦った。


リヒト「目が覚めれば分かる、か……。」

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