第1話 蟲-インセクター
『おはようございます。私の可愛い坊や。』
眼前に立ち上がったソレは見下ろしながら確かに俺にそう告げる。
(理解が追いつかない、今はどういう状況なんだ?少なくとも敵意は無いようだが…。)
そんな俺の様子を察したのだろう、頭の中に優しい声が響く。
『大丈夫です。私はあなたの敵ではありません。私はあなたのお母さんです。』
(母?コレが俺の!?いや、待てつまり俺は今…!?)
あたりを見回すと水たまりがある。すぐに自身の姿を確認する。
(なんてこった…。)
あまりの衝撃に目眩がする。そこには成人男性程はあるだろうか、ムカデの姿をした俺が確かにあった。
『どうしましたか?』
母を名乗るムカデが心配そうに尋ねてきた。言葉は相変わらず頭の中に直接響いている。
『もしや、言葉が伝わりませんか?念話の使い方は遺伝子に刻まれているはずですが…。』
(念話…おそらくはこの頭の中に直接響いている声のことだろうな。超音波を利用しているのか?いや、今はそんなことより…。)
『えーと…母上聞こえております。』
『!良かった聞こえていたのですね!それにもうこんなに使いこなして!』
(良かった…見よう見まねだったが何とかできた。)
ムカデは俺が喋れるのを確認すると安心したように話し始めた。
『改めて私があなたの母です。これからよろしくお願いしますね。』
『はい、母上。』
『そこまでかしこまらなくても大丈夫ですよ。私たちは親子なのですから、もっと気軽に母さんと呼んでください。』
『えーと、では母さん。』
『はい、よく出来ました。』
(すごいうねうね動いてる。コレは…喜んでいるんだよな…。良かった、何とか危機は脱したみたいだ。)
そう思ったのもつかの間だった。
『では、少し待っていてください。』
そういうと母ムカデは洞窟の奥から何かを引っ張ってきた。
『コレは…。』
目の前に広げられた物に思わず目を疑う。そこには母ムカデと同じく十数メートルはあるであろう巨大なバッタの死骸があった。
『母さん、これは?』
『はい、あなたのための食事です。あなたは目覚めたばかりで狩りができないので私が事前に狩っておきました。』
(食事…!?コレを喰うのか?俺は……。)
言葉を失う。確かに蟲であればこういったものを喰うのも当然だろう、だがいくら蟲の身体になったとはいえ中身は人間。いくらなんでもコレは………。
『おそらく目覚めたばかりで相当エネルギーが不足しているはずです。しっかりと食べてくださいね。』
母ムカデが食べるのを促してくる。
(ダメだ…食べるしかない…。)
恐怖と嫌悪感で震えるアゴで死骸に喰らいつく。死骸の腹は柔らかく簡単に噛みちぎる事が出来た。瞬間、幼い時にカゴの中で飼い殺した虫のような香ばしく不快な匂いが味覚と嗅覚を支配する。だが…。
『おいしい…。』
人間的な感覚とは裏腹にこの身体は死骸を上手いと感じている。
『おいしいですか!良かったです!どんどん食べてくださいね。』
(肉体と精神の感覚の差で頭がおかしくなりそうだが今は本能に従おう。)
俺は母ムカデに促されるまま与えられた死骸を平らげた。
夜になった。母ムカデは見回りをすると言い洞窟の外に出て行った。辺りはうす暗く、耳鳴りがする程の静寂に包まれた。改めて自身の姿を確認する。
(本当にムカデになったんだな俺は…。)
先の光景が脳裏によぎる。死骸を食い破る不快感と腹が満たされていく幸福感。二つの相反する感覚が行き交い混ざりあっていく。全てを喰らい尽くした後、残ったものを見て自分がもう人とは呼べないことを知った。
(まぁ…仕方ないか。)
俺は俺自身も驚く程にそれをあっさり受け入れた。もう喰ってしまったということもあるのだろうが、それ以上に人であることに対する執着が薄かったからというのがあるだろう。前世では死んでいたも同然の人生だった。しかしそんな俺が、望んだ形では無かったとはいえこうして記憶を持ったまま転生できたのだ。
―それならば。
(与えられた二度目の生を受け入れない訳には行かない。俺はもう間違えない、自分自身のために。)
男の目に確かな光が灯る。明日を見通す覚悟の光が。




