夜国 エピローグ4 アンヌティーレ視点 元皇女の気付き
王宮に、馬以外の生き物が飼われていたでしょうか?
少なくとも、私は見た事がありません。
服や調度を傷めるし、身体に傷をつける。
そう言われて、私は何百年もの間、馬以外の生き物に触れる事無く生きて来ましたから。
だから、正直、目の前の生き物が本当に『猫』かどうかも解りません。
子どもの頃――本当に昔に見た動物の画集。
その記憶でそう思っただけです。
何故、私の部屋にそんなものがいるのでしょう?
軽いパニック状態になっていた私は、今の今まで何をしようとしていたのかも忘れて、呆然と立ち尽くしてしまいました。
そこに
「失礼いたします。何かございましたか? 皇女様」
私の声、悲鳴を聞きつけたのでしょう。
外見張りの女騎士と、侍女頭、そして子ども達が部屋の中に入って来ます。
私と基本的に会話できる側仕えは、子ども三人だけだと決められているようです。
しかし、子どもだけでは難しい雑用を助けるために、実は使用人そのものは、ある程度の人数が宮にはいました。
ただ、護衛騎士は護衛という名の監視だと解っているし、侍女頭などは最初に
『私の仕事は使用人達の指導にございます。
皇女様の直接のお手伝いは致しかねますので、お含みおき願います』
とはっきり言い切っていましたから。
で、その彼女達も、部屋の中にいた存在に目を見開いています。
「子猫?」「どうしてこんなところに?」
「「あっ!」」
私と同じように、宮の中に猫がいることに驚く大人達と、駆け込んで来た少女二人は、明らかに違う眼差しで子猫を見ていました。
胸に抱く『どうして』は同じであっても、意味が違うと解ります。
それに侍女頭も気が付いたのでしょう。
「二人とも。あの子猫を知っているのですか?」
厳しく問い詰められて、少女達は顔を見合わせると、はいと頷いたのでした。
「時折、どこからともなくやって来るんです。
直ぐに外に出しているんですけど、また直ぐにやって来て……」
「人懐っこくて可愛いので、その、私達……外に出す前に厨房の方にお願いして、水や古いミルクを分けてもらったりしていて……」
「王宮の中に素性の知れない生き物などを入れてはいけないことくらい、考えなくても解る事でしょう?」
「「申し訳ございません」」
「それに、なんですか? この花と花瓶は?」
「皇女様のお心を少しでも慰めて差し上げられればと思って、香料作りのお手伝いの時に、庭師の方から分けて頂いたんです」
「皇女の側に置く物には細心の注意を払いなさい、と言っておいた筈です。
皇女様。花瓶が落ちた音がしましたが、お怪我はありませんか?」
侍女頭は呆れた様に大きく息を吐き出して見せると、私の方を向きました。
私は慌てて手で、指先の血を拭います。
これが見つかると、私の為に花を活けてくれた子ども達が叱られるでしょうから。
「だ、大丈夫です。ほら。子猫に少しびっくりしただけです」
「それならいいのですが……。二人とも。子猫を捕まえて外に出しなさい。
二度と宮の中に入ってこないように、街まで連れて行って放すのですよ」
「はい」「ほら、おいで……」
人懐っこい、という言葉の通り、子猫は大した抵抗も無く、スッと子ども達の手に抱かれます。
慣れているのでしょうか?
トクン、と心臓が高鳴りました。
「待って……下さい」
「え?」
私は小さく喉が鳴るのを自覚しながら、意を決して声を上げました。
「その猫に……触ってみたいのですが……ダメ、ですか?」
「皇女様が、猫に? でございますか?」
「私、猫を見るのは、初めてなのです」
護衛騎士と顔を見合わせた侍女頭は、少し考えた後、首を横に振りました。
「皇女様は、もう不老不死をお持ちでは無いのです。
決してお身体を傷つける事の無いように、と皇子から厳命されております。
申し訳ございませんが……」
「あっ……」
子ども達に軽く視線をやると、子ども達は少し躊躇いながらも子猫を抱いて部屋を出ていきます。
そして侍女頭と護衛騎士も、落ちたロッサと花瓶を片付けて外に出ていきました。
私は、また一人に戻ります。
けれど、目を閉じると、さっきの子猫の紫色の瞳が浮かびます。
そうすると、さっきまでの恐怖や狂乱の思いは消え、不思議に安らかな気持ちになったのでした。
翌日。
「おはようございます。皇女様」
二人の子ども達が朝食と、掃除道具をもって入ってきました。
私が別室で食事をしている間に、寝室などの掃除を行うのが、人員入れ替え後の通例になっていました。
食事は今まで、特別な時にしか出ないものでしたが、マリカ皇女の来訪後、料理人の練習も兼ねて、朝と夜、食事が私にも支給されることになったのだそうです。
パンとチーズ、ピアンのジャムとスープ。
晩餐会などで出された食事に比べると簡単なものですが、食べると少し身体に力が湧いてくるようで、私はこの時間が気に入っていました。
普段であれば、二人のうち一人が食事の給仕をし、もう一人が掃除を始めるのですが、なんだか今日はモジモジとして、動きが鈍い感じがします。
「どうしたのです? 私の事は気にせず仕事をなさい」
「あ、あの……皇女様!」
「?」
「あ、待って!!」
後ろを向いていた少女が、私の方へ振り返った時です。
ぴょーん。
「え?」
黒い影が少女の手元から跳ねると、私の方へ近付いてきました。
瞬く間、というのはこういうことを言うのでしょうか。
私の足元に近付いてきたのは、昨日の黒猫のようでした。
よく似た子猫、かもしれませんが、青みがかった紫水晶のような瞳には見覚えがあります。
「この子は? どうしたのです?」
「昨日の子猫です。皇女様が触れてみたい、っておっしゃっておられたので、その……こっそり」
侍女頭達の目を盗んで、連れて来てくれたのだといいます。
「私の、為に?」
「はい。少しでも心のお慰めになれば、と思って……」
「そう……ありがとう」
「「!」」
驚くほどに、すんなりと言葉が出ました。
我ながら、ありがとうなんて言ったのは久しぶりのような気がします。
でも、本当に嬉しい時には、それに相応しい言葉が出るものです。
私は目を見開く二人にお礼を言って、膝を折りました。
私のスカートのリボンにじゃれついていた子猫は、私が手を伸ばすと、少し小首を傾げたあと、ちょこちょこと小刻みに歩いて、私の掌の上に乗って来てくれたのです。
本当に人懐っこい、というとおり、爪も出さず大人しくしています。
桃色の柔らかい肉球が掌に触れると、不思議に気持ちいい上に、ふわふわの毛並みは極上の毛皮よりも暖かで、触れるだけで、孤独に凍り付いていた私の心を癒してくれるようでした。
そして、何より暖かいのです。
自分以外の誰かの体温を、こんなに気持ちよく感じたのは、どのくらいぶりでしょうか。
「やわらかい……暖かい。ああ、なんて気持ちいいんでしょう……」
術で他人の力を吸い取るのとは、まったく別の感じです。
あれは、頭の中に光が弾けて真っ白になる、所謂『快楽』と呼ばれるものなのでしょうけれど、これはまったく違うもの。
心の中が暖かくなって、ゆっくりと満たされていく感じです。
なんだか懐かしいような気持ちさえしました。
「喜んで頂けて、良かったです。
ずっと、お部屋に置いておくわけにはいかないのですが、もし皇女様が喜んで頂けるのなら、また連れてきます!」
少女の一人が、そう言ってくれました。
「お部屋から出られないの、寂しいですものね。
少しでもお慰めになれば……」
できれば、この部屋にずっといて欲しい。
側にいて欲しいと、本当に思いました。
でも、昨日、侍女頭に言われたことを思い出します。
部屋を傷める、私を傷つけるかもしれない。
願い出ても、許可はおそらく下りないでしょう。
私は罪人、虜囚の身。
彼女達が部屋にいる間だけでも、一緒にいられるなら嬉しい。
私は、そう思ったのです。
「お願い……できますか?」
「はい」「喜んで!」
私の言葉に、彼女達は弾けるような返事を返してくれました。
「あ、皇女様。この子に名前を付けて頂けませんか?」
「名前? 無いのかしら」
「はい。今まで猫、とか子猫、とか呼んでいたので……」
「そう。……じゃあ、ナハトというのはどうかしら。古い言葉で夜、を意味するの。
アーヴェントルクの子で、この子には相応しいのではないかしら」
「ステキですね!」「じゃあ、お前は今日からナハトだよ」
「にゃあ!」
二人の少女達が、私の手の中の子猫、ナハトに優しく語り掛けます。
と、その時、私は改めて気付きました。
「貴方達の名前はありますか? 何というの?」
私は今まで、この子達を名前で呼んだことが無かったのです。
名前があることを、知りませんでした。
「あ、少し前までは子ども、とか、それ、とか呼ばれていましたけど、マリカ様とヴェートリッヒ皇子様の所に引き取られて、ヴェルナ、とフィアルカと名付けて頂きました」
「そう……ヴェルナというのは高山に咲く花の名前だった筈。貴女の蒼い瞳に合っているわね。フィアルカの方は菫色の瞳だから?」
「凄いです! お花の名前だよ。花のようにかわいくお育ちって言って頂きました。あと、外仕事をしている男の子は茶色い髪なんでコーン、です」
「松かさ? お兄様も、もう少しいい名前を付けてあげればいいのに……」
「あ、でも本人は気に入ってるみたいです。小さくても、いつか大きな木になれるって」
そんな話をしていたので、朝食は少し冷めてしまいましたが、とても楽しく、しあわせなものでした。
私のミルクを少し取り分けてあげたら、ナハトが飲んでくれたのも初めての体験でしたし、何より。
いつもは黙って給仕するだけであった少女達が、私と『会話』してくれたことが、とても嬉しかったのです。
久しぶりに、誰かと『おしゃべり』ができたことが、とても嬉しくて。
久しぶりに、生き返ったような気持ちになりました。
誰かと話す事。
触れる事。
何かを分け合う事。
それがどんなに幸せな事かを、私は、もしかしたらこの日、初めて知ったのかもしれません。
それから、約束通りヴェルナとフィアルカは毎朝、ナハトを連れて来てくれました。
そして、私が知らない、猫の抱き方や撫で方のコツなども教えてくれたのです。
私にとって、ナハトと遊ぶことが。
ヴェルナとフィアルカ、そして時々コーンも交えて一緒に話をすることが。
何もすることが無い幽閉生活の、唯一の楽しみであり、幸せになっていたのでした。
「ぷっは! ナハト様にナハトなんて名前を付けるなんて、我が妹ながら凄い感性ですね」
「笑うな。ヴェートリッヒ。
だが、私も驚いた。元々、我が名は『夜』を意味し、与えられたもの。
我が娘だけあって、物事の本質を捉える目を、開けばちゃんと持っているようだな」
「そうだといいのですが。
随分仲良くおなりのようなので、そろそろ第二段階に入ってもいいですか?」
「任せる。其方には悪役をさせることになるが」
「そういうのには慣れてますから、ご心配なく。
目を見開いて、気付いて、後悔して。
そこから前に進めるか。泣き崩れて膝を折るか……」
「ああ、そうだな。ここからが多分、アンヌティーレの正念場だ」




