皇国 帰還前
その日、私達はアルケディウスの国境を無事越え、故郷へと戻ってきた。
国境を越えただけで明確に空気が変わるわけではない筈なのに、なんだか二ヶ月ぶりのアルケディウス。
そう思うだけで、胸の奥がふっとほどけるような幸せな気分になる。
見慣れた道。
見慣れた木々の色。
それだけのことなのに、肩に入っていた力が少しずつ抜けていく。
帰ってきた。
その実感が、じんわりと胸に広がった。
「お帰りなさいませ。
御帰還を心よりお待ちしておりました」
「ソレルティア様! 迎えに来てくれたのですか?」
国境での手続きを終えて街道に出た私達を、懐かしい顔が出迎えてくれた。
「二ヶ月ぶりでございますね。
姫君に私のような者がかける言葉ではないと存じておりますが、見違えるように成長された気が致します」
跪き、花が綻ぶように微笑む王宮魔術師はそう言って立ち上がると、告げる。
「申しわけございませんが、姫君方の出迎えに来たわけではないのです。
歓迎の準備などがありますので、皆様方はどうかこのまま予定通り、明後日の午後の御帰還を。
皇王陛下のご命令により、フェイに帰還命令を届けに来ただけでして」
「え?」
皆の視線が一斉にフェイを見つめた。
「解りました。大至急戻ります」
「よろしい。姫様。早めに持って帰った方がいい食材などはありますか?
フェイには転移術で何度か往復させる予定ですので、あるようなら少しずつでも持って行かせます
当のフェイはこういう事態を予想していたようで、ため息をつきながらも驚きの様子は見られない。
「それは、ありがたいですけど……どうしてフェイだけ?」
「……少しでも早く事情が聞きたいという、皇王陛下や皇王妃様、ライオット皇子、ティラトリーツェ様からの要請です。
本当に。
ただの料理指導の筈が、何故ここまで大事になったのかと、皇王陛下は定時連絡の度に頭を抱えておいででしたよ」
「……そ、それは……」
肩を持ち上げたソレルティア様の言葉に私は二の句が告げられないでいた。
火国プラーミァと地国エルディランド。
二国を巡る、新しい味教授の旅。の筈が。
終わってみれば、両国に封じられていた精霊神を復活させるという、とんでもない結果を齎している。
五百年の間、ほぼ反応なし。
死んでいるのではないかとまで言われていた伝説の国の守護神を、他国の皇女が目覚めさせたとなれば。
まあ、騒ぎになっても仕方ないのだけど。
仕方ない。
仕方ないんだけど。
できれば、もう少しこう、穏便に終わってほしかった。
ただの料理指導の旅、で済ませたかった。
胸の中でこっそりそんな本音が零れる。
「エルディランドでの儀式の後は特に、大聖都は姫様の獲得に本気で、ルペア・カディナで預かりたいと再三の要請があったのです。
本人の意思も聞かず返答はできないと、皇王陛下は一蹴されておりましたが」
「げ!」
ミュールズさんには顔を顰められたけど、思わず嘆息が零れてしまう。
大聖都は着実に私の囲い込みの為の手筈を進めていたのか。
怖っ。
思い出しただけで、あの神官長の冷たい声が耳の奥に蘇る。
帰ってきて少し緩みかけていた気持ちが、またきゅっと縮こまる。
でも同時に、皇王陛下が一蹴してくれていたと聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「一日も早く帰国させ、話を聞きたい思いはあれど、戻れば待つのは仕事の山。
社交シーズンに向け、大貴族達の来訪も始まりつつあります。
夏の戦もすぐ目の前。
その合間を見ての事情聴取になりますからね。
城に戻られたら姫様もフェイもリオン殿達も、それからゲシュマック商会も、のんびりはできないと存じます。
せめて、あと二日くらい、ゆっくりさせてやろうという皇王陛下のお気遣いですわ」
「……その気遣いは僕には適用されないんですね」
「当然でしょう? 『皇王の魔術師』」
もう一度、大きく息を吐き出して、フェイは私達に向かい合う。
「そういう訳なので、僕は先に戻ります。
あちらこちらに無事を伝えておきますので、焦らずに戻って来て下さい」
「ごめんね。フェイ。
あ、でももし良ければ夜は宿に来ない? 約束した慰労の食事を作ろうと思ってるから」
「解りました。それを楽しみに頑張ってきます」
少年らしい笑みを浮かべたフェイの行動は、覚悟を決めれば迷いがない。
私が大聖都から押し付けられたサークレットや、種麹などいくつかの荷物を預けると、瞬く間に姿を消した。
風が抜けたように、そこからふっと気配が消える。
その鮮やかさに、改めてフェイが特別な『魔術師』であることを思い出す。
同時に、そんな彼まで休む暇なく呼び戻されるくらい、今回の件が大きいのだと突きつけられた気もした。
「姫様、頼まれていた品物は宿に揃えてありますので」
「ありがとう。ソレルティア様。
もし良ければ、ソレルティア様も一緒に夕食食べていきませんか?」
「魅力的なお誘いですね。ぜひ」
後を追うように消えたソレルティア様を見送って、
「ミュールズさん。今日の夜は旅に出る前の約束なので、随員の慰労の料理、作らせて下さい。
明日は帰還に備えて身支度の準備を」
「かしこまりました」
「セリーナ、ノアールは私の手伝いをお願い」
「はい」「承知いたしました」
私は随員達に向かい合った。
「皆さん、長い旅もあと少しで終わりですが、城に帰り着くまでが遠足。
最後まで、よろしくお願いします」
そう言うと、皆の顔にもふっと柔らかなものが広がった。
疲れはある。
でも、誰も欠けずにここまで来られた。
そのことが、ただ嬉しい。
旅の終わりが近いからこそ、今この場の空気が少し愛おしく思えた。
その後、私は国境沿いの宿で、旅の前に約束した通り随員達の疲れを料理で労った。
立食形式の無礼講のパーティ。
大聖都で作ったのとほぼ同じメニューだけれど、皆、喜んでくれたと思う。
プラスで、終了ボーナスに高額銀貨一枚を手渡しする。
護衛騎士達や文官達、随員達、ゲシュマック商会の皆にも。
みんな、良く働いてくれたしね。
ミュールズさんや、ミーティラ様にも受け取って頂く。
年上の人にボーナスなんて失礼かもしれないけど、ここはケジメという事で。
「……私も、頂いていいんですか?
ちゃんと、お給料を頂いているのに……」
ノアールはこんな大金を手にするのは初めてだと、ちょっと震えた様子だ。
「気にしないで。みんな同じ額だし、これからも頑張って貰わないといけないから」
銀貨を差し出す手の向こうで、皆が戸惑いながらも嬉しそうにしてくれる。
そういう顔を見ると、ああ、無事に終われそうなんだなとやっと少し実感できた。
料理を作って、食べて貰って、労って。
そういう時間はやっぱり私を落ち着かせてくれる。
カマラにはお金を渡しつつ、小さな声で囁いておいた。
「次の安息日。申し訳ないんだけれど、時間を頂戴。
この間の件、ちゃんと話すから……」
「はい、お待ちしております」
渡された銀貨を手に強く握りしめて、カマラは頷いてくれる。
その真面目な返事に、少しだけ胸が痛んだ。
ちゃんと向き合わなきゃいけないことが、まだ残っている。
帰って終わり、ではない。
でも、逃げずに話そう。
そう思えたのは、カマラがまっすぐ待っていてくれるからだろう。
やがて戻ってきたフェイは、私に一通の手紙を手渡した。
「マリカ様、これをお預かりしております」
正式な封緘の押されたそれは、間違いなく皇王陛下からの文書。
「皇王陛下はどのように?」
私が封緘を割って中を開けると、心配そうなリオンが声をかけて来る。
「明後日、帰還したその日のうちに、報告会を兼ねた帰還の宴を催すそうです。
皇王家のみの内輪でということですが。
晩餐会用の材料とレシピをフェイに預けるように、と。
調理はザーフトラク様が担当して下さるそうなので」
「そうですか……」
「本当は少し休ませてやりたいが、とはおっしゃっていたんです」
皇王陛下の気持ちをフェイは伝えてくれる。
肩を竦める様子が目に見えるようだ。
「ただ、話があまりにも大きくなっていたことと、大聖都から預けられたサークレットが、どうやら僕達が思う以上に大変な代物であったようで……」
「サークレットが?」
「はい。アドラクィーレ様が気がかりがあると……。まあ、その辺の話は後で。
長く、面倒な話になりますので」
「解りました」
私は文書をくるくると丸め直すと、リオンだけではない。
心配げな随員達、皆に細かい指示を向けた。
「そういう訳なので、ゲシュマック商会は城下に入ったら城まで行かず、戻って下さって構いません。
宴が終わるまでだとどのくらい時間がかかるか解りませんから」
「解りました」
アルが胸に手を当てて首を垂れる。
「護衛兵も城での挨拶が終わったら、帰って構いません。
アレクとアーサーはゲシュマック商会と先に戻っていて」
「はい」「解りました」「うん」「りょーかい」
「リオンとカマラ、あと私の側近は宴が終わるまで、ごめんなさい。付き合って下さいね」
「そのようなご心配は無用ですわ」
「ええ。最後の報告までお付き合いさせて下さいませ」
跪いてくれる随員達に感謝しながら、私は目を閉じた。
報告会が終われば、皇女マリカの旅における公務は終わり。
そう思った瞬間、胸の中に何かが溢れた。
(帰りたいな)
仕事中、旅の間は夢中で考えられなかったことなのに。
お父様やお母様の所にも帰りたい。
魔王城にも戻りたい。
子ども達に会いたい。
いろんな話をしてあげたい。
プラーミァのこと。
エルディランドのこと。
美味しかったものや、びっくりしたことや、怖かったこと。
みんなに話したいことが、次から次へと浮かんでくる。
やっとアルケディウスに戻ってきたというのに、終わりが見えて来たら急に、寂しくなったみたいだ。
なんだか湿った目元を擦って、顔を上げる。
帰ってきたのに、もう次の『帰りたい』が胸の中にある。
それが可笑しくて、でも少しだけ切なかった。
私には帰る場所が一つじゃないんだと、そんな当たり前のことが妙に胸に沁みる。
旅の終わりまで、あともう少し。
気合を入れ直して頑張ろう。




