地国 獣の変容
「いけない。スーダイ王子が貸して下さった肩掛け、お返しするの忘れちゃった」
麗水殿に戻った私は、肩口に乗ったままの柔らかな布をそっと外した。
精霊上布、だっけ?
この世界で最高品質の布の一つだと聞いた。
ムシの繭から採れると言っていたから、この世界のきっとシルクだね。
ふんわりと柔らかく、軽く、暖かい。
肩に掛けていることさえ忘れてしまうほどの優しい感触だった。
「もう日も変わってしまいました。
退去の時にお返しすれば良いのではありませんか?」
「うん、そうする。
畳んで、忘れない場所に置いておいてくれる?」
「かしこまりました」
宮の中では随員がほぼ全員、眠らずに待っていてくれたらしい。
柔らかな声音で、これ以上の外出を諌めるミュールズさんに頷いて、私は肩掛けを渡すと皆の方に向き直った。
「心配かけてごめんなさい。
ちゃんと理解して頂けたと思っています。
予定通り、明日――もう今日ですが、アルケディウスへ戻ります。
長旅になるので、今日はゆっくり休んで下さい」
私が声をかけると、三々五々、随員達は自室へ戻っていく。
護衛も解散。
ミーティラ様、ミュールズさん、セリーナとノアールに身支度を手伝ってもらい、私は寝室へ向かった。
「姫君も、今日はゆっくりとお休みになって下さいませ」
「ありがとう。おやすみなさい」
侍女たちが部屋を出て扉が閉まる。
静寂が、ゆっくりと部屋を満たした。
私はベッドにもぐり込む。
細工の利いた天蓋付きベッド。
その天井を見つめる。
オリエンタルで、中華風。
そこにほんの少しだけ和の雰囲気が混ざった、不思議な美しさの寝台だった。
この綺麗なベッドで眠るのも今日が最後だ、と思うと――
なんだか不思議に、目が冴えてしまって眠れなかった。
エルディランドでの滞在期間も、いろいろあったなあ、って思う。
なんだかんだでこの国でも、精霊神復活を始めとして色々やらかした。
あと一週間でアルケディウスに帰るけれど、帰ったらまず間違いなく、お母様のお説教が待っている。
……帰るのがちょっと怖い。
掛け布団を頭まで被った私は――
「え?」
ベッドの横。
感じた気配に、慌てて跳び起きた。
「……リオン」
そこには、私を真っ直ぐに見据えるリオンが立っていた。
いつもとは、どこか違う。
冷たく、固く、鋭い。
獣のような眼差しで。
「どうしたの? 何か用?
皆に、見つかったら―――!」
正直、予想外で身体が固まった。
心も同じ。
ぴくりとも動けないまま――与えられた行為を受け止めるしかない。
リオンがベッドに膝を付き、覆いかぶさるように私の唇を奪ったからだ。
抵抗は許さないというように、私の手を掴み、肩の後ろに手を回して。
リオンに触れられたところが、火傷のようにチリつく。
「ん! んっ……ん!」
身体がぴりぴりと痺れる。
今までの甘く優しいだけのそれではない。
舌こそ入れて来なかったけれど、噛みつくように。
リオンは私の唇に吸い付き、舐め、蹂躙していく。
正しく、獣の食事のごとき激しい行為に、私は抗うこともできず、背筋に奔る悪寒にも似た快感に、ただ揺さぶられていた。
「……の……ものだ」
「え?」
やっと解放され、戻ってきた呼吸を噛みしめる私の頭上から、唐突に言葉が落ちてくる。
「リオン?」
「ダメだ、誰にも渡さない。
マリカは、その唇は、俺のものだ!」
「……リオン」
ぎゅっと、リオンが私を抱きしめる。
身じろぎしても動けないほどの、強い力だ。
そのまま、もう一度唇を貪ってくる。
なんだろう。
いつものリオンと違う気がする。
不思議な、靄のような――
何か得体の知れない気配が、リオンの周囲に漂っているような……?
「グランダルフィの時も、思った。
先生が、マリカに触れた時も、心がヒリヒリした。
俺は、マリカの幸せを守れればいいと思ってた。……でも、やっぱり駄目だ」
震える声は、不安げに揺れている。
黒い露のような瞳には、雫さえ浮かんでいた。
「頼む。マリカ!
他の誰も見ないで、俺だけを見ていてくれ。
他の誰にも唇を許さないでくれ。
でないと、俺は……」
叩きつけられた思いと声は激しくて。
狂おしいほど熱くて。
外に聞こえないか心配になるほどだったけれど、
でも今のリオンには、多分そんな事を考える余裕すらないのだ。
何が――
あの、いつも冷静で、ありえないくらい固い鋼の精神で自分を律するリオンの軛を壊したのだろう。
そう考えて、気付いた。
私だ。
私が『自分の意志』でスーダイ王子の目の前で目を閉じた事。
それが、リオンの内側の何かを――
切ってしまったのかもしれない。
私は、私の中の私が微笑むのを感じた。
そうだね。
ちょっと嬉しい。
だって、リオンが他の人に私がプロポーズされるのを見て、平気な顔をずっとしていたとしたら嫌だもの。
寂しいもの。
「リオン」
「!」
今度は、私からリオンの唇に吸い付いた。
やられてばっかりなんて不公平。
私だって、リオンの唇を味わいたい。
唇に味なんてないのに。
甘く、瑞々しく、幸せな気分になれる。
私は、恋愛結婚願望強めの元二十五歳。
こういうのは、大好物なんだもん。
「私がリオンを見捨てるわけないでしょ?
一体何が不安なの? なんでそんな事思うの?」
柔らかい唇の感触を思うさま堪能した後、おバカリオンに私は言ってやった。
「だって……あいつは、大王で……精霊に祝福された者で……。
俺は……」
「精霊に愛されてる、だったらリオンの方がぶっちぎりでしょ。しっかりして『精霊の獣』!」
思いっきり背中を叩くと、リオンはけほこほとむせるように息を吐き出した。
「ちゃんと聞いてた?
私は断ったんだから。頼りになる婚約者と祖国が一番大事。
大王妃にはなれませんって」
「あ、……ああ、勿論、聞いてた……」
大きく深呼吸。
吐き出された息をもう一度吐き出し、左右に振られる頭。
靄のように漂っていたリオンの周囲の何かは、いつの間にか消えていた。
「すまない。俺が……どうかしてた。
お前を信じられないなんて。
あんなことを……口走るなんて……」
「俺は……多分、マリカがいないと、ダメなんだ」
ため息のようにリオンが呟く。
「マリカがいなくなるかも、誰かのものになってしまうかも、と思った瞬間、頭が真っ白になった。
我慢が効かなくなった。
前は我慢できていたけれど、今はもうダメなんだ。
多分、マリカが誰かに奪われてしまったら、俺は俺でなくなってしまう……」
「大丈夫だよ。
私はどこにもいかない。リオンの側に居るから」
ぽんぽん、と私はリオンの背中を叩いた。
「約束したでしょ。ずっと一緒にいるって。
だから、変な事考えて、心を揺らさないで。
私を信じて……」
ひらりと、リオンの前で返して見せた手の甲で蒼い光が煌めく。
リオンの守り刀。
エルーシュウィンがくれた約束の指輪。
「ああ……そうだな。
本当に、どうかしてた」
「後はもうアルケディウスに帰るだけ。
でも、家に帰りつくまでが遠足。
しっかり護衛してね。私の護衛騎士」
「ああ、任せておけ」
「落ち着いたのなら、早く戻って。
見つかると大変だよ」
「……お休み。マリカ」
「!」
風切音と共に、リオンは消えた。
最後に、チュッと私のおでこにキスを残して。
……リオン、やっぱり負けず嫌いで独占欲強いのかも。
ご丁寧に、スーダイ王子がキスした上にしていった。
おかげで、おでこに触れると思い出すのはスーダイ様じゃなくて、リオンの顔になる。
うわー。
顔が熱い。頭が熱い。
さっきまでもっと凄いことしてたのに、なんでいつもこうなるの?
身体全体がお風呂に入ったよりも熱くなって――
私はその後、あっという間に寝付いてしまったのだった。




