閑話 ニムル視点 少年の夢 前編
この世に天国と言うものがあるとしたら、それはここを言うのではないだろうか?
実り豊かな森。
花々が咲き乱れる庭。
塵に埃の一つさえも落ちていない、美しく豪奢な城で、何の不安も無しに笑い遊ぶ子ども達。
風は柔らかく、草は瑞々しく、空はどこまでも高く澄んでいる。
そこに満ちているのは、今まで自分が知っていた世界とはまるで違う、穏やかで満ち足りた空気だった。
涙が出た。
どうしてこんな幸せな世界がこの世にあるのだろうか?
……どうして、ここにもっと早く辿り着く事ができなかったのだろうか?
せめて、ミアが死ぬ前に。
胸の奥に沈んでいた記憶が、静かに疼いた。
それでも今は、目の前の光景があまりにも現実離れしていて、ただ立ち尽くす事しかできない。
僕はニムル。
ゲシュマック商会に雇われてる従業員の一人だ。
今から二年前、路地で死にかけていたところを仲間と共に、ゲシュマック商会の長……当時はガルフの店とだけ呼ばれていたけれど……。
ガルフ様に拾われて、仕事と家を与えて貰った。
あの日の事は、今でも鮮明に覚えている。
空腹で意識が遠のき、冷たい石の感触だけが身体を支えていたあの瞬間。
差し出された手は、まるで別の世界から伸びてきたもののようだった。
不老不死を持つ大人であろうと子どもであろうと、同じ仕事をする者には同じ給料が与えられるゲシュマック商会は、アルケディウスはおろか、世界でも稀な商会であると知っている。
努力する意志がある者にはチャンスが与えられる。
そしてそのチャンスを掴めれば浮かび上がれるのだ。
大人であろうと、子どもであろうと。
不老不死の世界では、年齢は意味を持たない。
だからこそ、与えられる機会も、掴める未来も、自分の意志次第だった。
それぞれに目指す道を見つけ、先に進んだ仲間達に少し遅れた形だが僕にもチャンスが訪れた。
憧れていた精霊術士への道を与えられたのだ。
それは夢だった。
路地裏で空を見上げる事しかできなかった自分には、決して届かないはずの夢。
「いいですか? ニムル。
君がここでやるべき事は二つ。
この島で生活する事。そして、このペンダントを身に着ける事です」
元ゲシュマック商会の魔術師にして、現皇王の魔術師フェイはそう言って、僕をどこだか解らない森に、転移術で連れて来て、一つのシンプルな水晶のようなペンダントを指し出したのだ。
それは飾り気のない、小さな水晶だった。
けれど、ただの石とは違う、微かな存在感を放っているように感じられた。
「これから最長で二ヶ月、具体的には僕達が諸国での仕事を終えて戻ってくるまで、ここで精霊の術師を目指す者として自分がするべきだと思う事をして過ごして下さい」
「ここは、一体どこ……なんですか?」
フェイは僕より歳下ではあるが、最高位の杖を持ち皇王陛下に抱えられる魔術師だ。
魔術師となりたいと願った僕を嗤わず、知識とチャンスを与えてくれた存在。
下に見る事はできない。
まずは与えられたペンダントを服の上にかけた。
服の下にもう一つ、ペンダントがあるから二つが重なる形になるけれど、見えはしないだろう。
その間に、僕の質問に答えるようにフェイが言葉を紡ぐ。
「ここは、俗に言う『魔王城の島』
不老不死者にも死の呪いを与えるという孤島で、僕達……リオン、マリカ、エリセを含む者達の故郷でもあります」
「なっ!!」
「ほら、向こうに魔王城が見えるでしょう?」
彼が指さす先には本当に、王城にも勝るとも劣らない豪奢な城が建っていた。
白亜の城壁は陽光を受けて静かに輝き、空と森の間に、当たり前のように存在している。
けれどそれは、本来ならば存在してはいけないもののようにも見えた。
「あれが……魔王城?
ここが、魔王城の島……だと?」
思わず驚嘆の声を上げた僕の反応は解っていたというように、フェイは微笑しながら肩を竦めて見せる。
「魔王城の真実については、今はまだ君に語ることはできません。
君に言えるのは、この島に足を踏み入れた以上、精霊術士として僕達の仲間になるしか選択肢がないこと。
仲間にならないなら沈黙の契約によって、命を縛られない限りは外に出られない、ということです」
「そ、そんな……」
大事なものだけをもって直ぐに来い、衣服や生活用品はいらない、と言われてやってきた僕はほぼ着の身着のまま。
小さなロケットペンダント以外、何ももってはいない。
「心配しなくても、ここには森の獣以外に君に危害を加える存在はいませんし、野宿しろ、などとは言いませんよ。
衣食住は全て保証します。
君が住むのはこの魔王城ですから」
「え?」
「さあ、行きましょう」
呆気にとられる僕の手を取って、フェイはすたすたと森を歩き、白亜の城の前に立った。
巨大な扉。
人を拒むような威圧感は無い。
むしろ、帰る者を迎え入れるような静かな佇まいだった。
勝手知ったるというように何の躊躇いも無しに中に入っていくのは、彼が言う通り彼の『故郷』であるからのようで。
「あ、フェイ兄だ。おかえり!」
「おかえりなさい。その人はだあれ?」
彼の帰還を聞きつけたのか、たくさんの子ども達が集まって来ていた。
わらわらと集まる子ども達は全員、僕よりも年下。
ゲシュマック商会で働く、ミルカ、エリセ、アレクよりもさらに年下に見える。
けれど、その瞳には不思議な落ち着きがあった。
怯えも警戒も無い、安心しきった目。
「彼はニムル。精霊術士になる為にここに勉強にやってきた僕達の『兄弟』ですよ。
仲良くしてあげて下さい」
「きょーだい?」
「新しい兄ちゃんだ。よろしくね~」
「あ、あの……その、よろしく……」
屈託のない笑顔で僕を取り巻く子ども達に、ちょっと怯む。
こんな風に、誰かに歓迎されたことがあっただろうか。
緊張する僕の戸惑いなど知る由も無く子ども達は絡みついて来るが、それを止めたのは
「ニムルはこれから当分の間この城に住み込みます。
遊ぶ機会はまだまだあります」
フェイだった。
素直に道を開けた子ども達の間を抜けて、僕を城の奥まった区画まで連れて来ると、並ぶ扉の一つを開けた。
「ここが、君の部屋ですよ」
「す、凄い……」
そこは見た事も聞いたことも無い程に豪華な部屋だった。
路地裏で寝そべっていた僕らにとって、ゲシュマック商会の社員寮だって相当に美しく住みやすいのだけれど、ここの城はレベルが違う。
分厚い絨毯。
天蓋付きの寝台。
精緻な彫刻が彫り込まれたタンス。
テーブルや椅子まで備え付けてある、一人の部屋に。
噂に聞く王侯貴族の部屋と言うのは、こういうものではないだろうか?
と狼狽える僕にフェイは笑って言う。
「ここの子ども達は全員、……複数でですがこの部屋を使っているので遠慮なく使って下さい。着替えも一応用意してあります。そのタンスの中のものをどうぞ。
サイズは一応合わせてあります。
食事は朝昼晩の三回、大広間で。もしやる気があるのなら食事作りのローテーションに加わって貰えると世話役やエリセ達も喜ぶでしょう。風呂は食後から就寝まで、地階で入れます」
食事に、風呂まで?
飲食店は衛生が肝心だと、雇われるようになってから公衆浴場に行く事も出て来たが、家の中で風呂に入れる事など街中ではまず無い。
それが、毎日?
声も出せずにいる僕に、最後に……と言ってフェイは声をかけた。
「エルフィリーネ!」
虚空に声を投げた、と思った瞬間だった。
何も無かった空間が、ふわりと揺らぐ。
空気が、水面のように静かに波打ち、そこから――それは舞い降りてきた。
正しく、空中から。
今まで生きて来た中で、見たことも無いような絶世の美女が降りて来たのだ。
音も無く。
重さも無く。
まるで、そこに在るのが当たり前であったかのように。
「彼女はこの城の守護精霊 エルフィリーネ。
何か困ったことがあれば、彼女に相談して下さい」
流れる、虹を宿したような銀の髪。
光を受けて淡く揺れ、その一本一本が意思を持っているかのように繊細に煌めいている。
澄み切った紫水晶の瞳。
その瞳は、僕という存在の奥まで見通してしまいそうなほどに深く、それでいて優しかった。
『お兄ちゃん、精霊はね、本当にいるんだよ。
とっても、とっても綺麗なの』
昔、ミアがそう言っていた言葉が、不意に胸の奥から浮かび上がった。
あの時は信じていなかった。
信じられなかった。
だって、精霊なんてものは――
物語の中にしか存在しないものだと思っていたから。
「宜しくお願いしますわ。ニムル様」
この世のものとは思えない、美しい精霊は僕に向かい、緩やかに微笑むとお辞儀をした。
その動きはあまりにも自然で、あまりにも優雅で。
まるで人と変わらない。
いや――違う。
人ではない。
もっと根源的で、もっと静かで、もっと確かな存在だった。
ドキン、と。
心臓が強く音を立てる。
胸の奥が熱くなる。
視線を逸らすこともできず、ただ見つめることしかできない。
胸の上に重なった二つのペンダント。
その一つが――
不思議な熱を放った。
まるで。
応えるように。
けれど。
生まれて初めて見る精霊に見とれる僕は、その変化に気付いてはいなかった。
ただ。
自分が今、
今までとはまったく違う世界の入口に立っているのだということだけは――
はっきりと、感じていた。




