皇国 新技術の開発
新年からまる二ヶ月が過ぎた。
王宮の中庭に植えられた常緑樹の葉の色も、冬の重さを帯びた深緑から、どこか柔らかな光を含んだ色へと変わり始めている。冷たい空気の奥に、確かに次の季節の気配が混じり始めていた。
私達が城に戻ったのは木の一月の最終週だったと思う。
帰還した日のことは、今でも鮮明に思い出せる。長旅の疲れと安堵と、そして再び始まる日常への予感が、胸の奥で静かに混ざり合っていた。
帰還の晩餐会の後は対外的な仕事などが多くて大変だったけれど、木の二月に入り溜まっていた仕事はようやく一段落。
山のように積み上がっていた書類も、急ぎの案件も、少しずつ片付いていき、ようやく呼吸を整える余裕が生まれた。
気になっていた孤児院や、ゲシュマック商会の現状も確認して、少し息を吐き出す事ができた。
子ども達の笑顔も、店の賑わいも、すべてが変わらずそこにあることを確認できた瞬間、胸の奥に張り詰めていた糸が緩むのを感じた。
とはいえ、細々した日常仕事は絶える事はないのだけれど、それでも手が空いた隙を見てお呼び出しがかかる。
王宮での生活とは、そういうものなのだと、今ではもう理解している。
「いい加減、王宮での調理実習を再開させぬか!
新しい調味料とやらを入れてできるものも増えたのであろう?」
とは第一皇子 ケントニス様の仰せである。
相変わらず、単刀直入で解りやすい。
来月の頭から、私はまた外出する。
視察という名目ではあるけれど、それが単なる旅行でないことは、私自身が一番よく理解している。
そうなると新しいメニューを仕入れる事はできない。
いるうちに少しでも新しいレシピを教えろ、というのは解りやすいお話だ。
個人的にはもう基本は教えたから後は、自由な発想で作って頂いていいと思うのだけれど、醤油とお酒が手に入ったからそれの扱い方を知らせる意味ではあり、かも。
あの二つの調味料が、この世界の料理をどこまで変えるのか。
その可能性を思うと、少し胸が高鳴る。
「お母様の体調の方は如何ですか?」
「もう、すっかり復調です。子ども達も少しずつ落ち着いてきました。
貴女がいるうちに、少しでも新しいレシピを学びたい、という兄皇子様達の気持ちも解らない訳ではありませんから、調理実習の再開は構いませんよ」
「助手兼、実習生への指導の為に新しいレシピを教える関係上、ゲシュマック商会のラールさ……ラールを同行させて頂いてもいいですか?」
「許可します」
という訳で今日から週二回のペースで王宮での調理実習が再開されることになった。
一度途切れていた流れが、再び動き始める。
週一で皇王陛下へのご機嫌伺いもあるので、週のうち半分は王宮に通う事になる。
王宮と商会、そして孤児院。
それぞれの場所に、それぞれの役割がある。
合間を見て実習店の監督と諸外国への対応。
あとは舞の練習に、旅行の準備が入るのでスケジュールはかなり厳しい。
頭の中で予定を整理するだけでも、少し目が回りそうになる。
週一回のお休みは何とか死守したいところだけれども……。
本当に、死守したい。
とにかく、そういう訳で、木の二月 第一週、空の日。
朝の光が白く澄み渡る中、私はセリーナとラールさんを連れて王宮に上がった。
正式な皇女となってからの調理実習は初めてだ。
晩餐会の指揮と指導はしたけれど。
あれはあくまで特別な一日であって、日常の延長線上にあるものではなかった。
今までの調理実習の指導の為に通っていた時と同じ気分で馬車を通用門に付けて貰おうとしたら、と、とんでもない、と首を振られる。
「マリカ様は皇女です。
そんなご無礼は許されません」
震える御者さんに負けて結局、王宮の正門に馬車が付けられた。
その瞬間、嫌な予感がした。
「うわっ……」
豪奢な扉を潜ると、真っ赤な絨毯。その上を王宮の使用人達がだだーっと並んで跪く中を入場する羽目になる。
左右に並ぶ無数の人影。
一斉に頭を垂れる姿。
まるで自分が、自分ではない誰かになってしまったような錯覚を覚える。
セリーナは完全にビクついてしまっていたし、ラールさんも緊張気味だ。
無理もない。
この光景は、慣れていない者にとっては威圧そのものだ。
これから毎週これじゃあ、めんどくさいし使用人さん達も大変だろう。
なんとかもう少し気軽にいかないか、頼んでみようと本気で思った。
絨毯の最奥、使用人達の列の一番奥で、一人の女性が膝を付いている。
その姿は、明らかに他の者達とは違う空気を纏っていた。
あれ? この方はこんなところにいる方ではないだろうに。
「ソレルティア様」
私は気付いて彼女、王宮魔術師 ソレルティア様に近寄り声をかけた。
この国では身分の低い者から高い者への言葉かけが原則として禁止されている。
ルールでは無くマナーなので破ったから罰があるというわけではないけれど。
私から声をかけないと、基本的に彼女からは声がかけられないのだ。
「マリカ様、ご無事のお帰り、心からお慶び申し上げます」
「ソレルティア様……。長らく留守をお願いしてしまい申し訳ありませんでした。
フェイも借り受けてしまい……」
「はい。一度仕事を分けあえる相手ができて楽をしてしまうと、一人に戻った時後が大変だと理解致しました。
それにフェイは本当に悔しくなる程優秀で……。
新しく見つけて来た知識とやらで、新技術を齎しまして。今、文官棟はその検証に大忙しなのです」
「え? 新技術?」
その言葉は、空気の密度を変えた。
胸の奥で何かが、小さく脈打つ。
「はい。実習後、宜しければ文官棟に足をお運び頂けないでしょうか?」
ソレルティア様が面会の連絡なしでわざわざ呼びに来てくれた、ということはよっぽどの事だろう。
彼女の立場を考えれば、その行動の意味は軽くない。
リオンがフェイならできるかも、と言っていた結界術の事もある。
興味もあるし。
何より、フェイが関わっているのなら、見ないわけにはいかない。
振り返り付き従ってくれるラールさんとセリーナに視線をやると二人とも、頷くように頭を下げてくれたので私は、わかりました。
と皇女モードで返答する。
自然と背筋が伸びる。
「どんな技術なのでしょうか?」
「失われていた太古の技術の復活、なのです。実用化されれば我が国のみならず世界中に大変革を引き起こしますわ。
今後の姫様にもきっとお役に立つことでしょう」
手放しの褒めようだ。
ソレルティア様ほどの方が、ここまで断言するのは珍しい。
何だろう。楽しみになってきた。
「では後ほど……、二の地の刻には伺います」
「お待ちしております」
彼女の瞳の奥には、確かな確信が宿っていた。
ちなみに今日のメニューは肉じゃがとチキンソテーをメインにした和洋食。
王宮の調理場に入ると、石造りの床に朝の光が斜めに差し込み、銅鍋や鉄鍋の表面に柔らかな輝きを落としていた。火の入っていない炉は静かに佇み、これから始まる作業を待っているよう。
献立は私が向こうの世界で作っていた所謂お惣菜だけど、醤油と酒があれば、大よそ間違いのない味になる。
それは決して特別な料理ではない。
けれど、だからこそ強い。日常に根付く味。誰の舌にも自然と馴染む味。
チキンソテーは今まで塩味にイングヴェリアやチスノークで風味を付けていたけれど、どちらも醤油を使うとぐっと風味、味わいが増す。
焼き上がる直前、表面に垂らした醤油が熱で弾け、香ばしい匂いが立ち昇る。その瞬間、空気そのものが変わるのを感じる。
「ほほう、今までの料理にも深みが増すな」
料理人さん達もその使い勝手の良さに驚いているようだった。
彼らの目が、純粋な興味と探求心で輝いている。
それは、新しい道具を手に入れた職人の目だ。
「今までの料理に、ほんの隠し味程度でも醤油を入れるとより美味しくなります。
工夫してみて下さい」
「アレンジをかけていいの?」
「むしろそうして下さい。材料がまだ貴重なので大変かもしれませんが、皆さんそれぞれの発想で調理して頂いた方が絶対にいいです」
私は料理人さん達にそう話した。
教える側と教わる側、という関係は、もう半ば過去のものになりつつある。
今ここにあるのは、同じ方向を見ている者同士の対話だった。
もう、そんなに細々説明する必要は無くなっている。
この一年近くで、皆さん、生意気な言い草だけど、技術や知識はすごく上がっているから。
包丁を握る手の動きも、火を扱う所作も、以前とは比べものにならないほど洗練されている。
私なんて、知識こそ多少あるけれど技術は素人に毛が何本か生えた程度に過ぎない。
それでも、知識が橋になることはある。
新しいものへ渡るための橋。
マルコさんは盛り付けのセンスが凄いし、カルネさんは発想が柔軟で『新しい味』をベースに色々なものを考えている。
二人の手元を見ているだけで、新しい料理が生まれる瞬間に立ち会っている気分になる。
私が教えないのにヨーグルトクリームのタルトを作ってくれて、とても美味しかった。
初めて口にした時の驚きは、今でも忘れられない。
あの味は、間違いなくこの世界から生まれた味だった。
ザーフトラク様は醤油の扱いが凄く上手いし、ペルウェスさんは堅実で丁寧な調理をする。
それぞれの個性が、確かな形で料理に現れている。
ラールさんはエナ(トマト)ベースの肉じゃがを作ってて、それが意外な程美味しかったんだよね。
甘味と酸味と醤油の旨味が混ざり合い、まったく新しい味わいを生み出していた。
あれはきっと、ここからさらに進化していく。
醤油と酒の扱い方を教える為に実習再開したけれど、基本を教え終ったら後は、料理人さん達の創意工夫と発想にお任せした方がきっといいものが出来ると思うな。
知識は種。
けれど育てるのは、この世界の人達自身だ。
今まで、新しいものは殆ど生まれなかったというけれど、チョコレートや新しい食に刺激を受けて、葡萄酒だけじゃなくて麦酒に、米酒。お酒も増えて。
確実に、世界は変わり始めている。
色々な味が生まれて欲しいと私は思う。
それは単なる料理の話ではない。
世界そのものの可能性の話だ。
この世界にはこの世界の人の好みに合った味わいがきっとあるから。
それを見つけるのは、私ではなく、この世界に生きる人達だから。
「この味付けは他の肉でも応用ができますね」
「はい。イノシシ肉や鹿肉などでも美味しいものができると思います」
久しぶりの『新メニュー』は皇子妃様や皇王妃様達も気に入って頂けたようだ。
その表情は柔らかく、満足の色を帯びている。
料理は、言葉を超える。
それを改めて実感する瞬間だった。
「ただ、この味はエルディランドの醤油と酒があってのものです。
春の視察は今の所、プラーミァだけの予定ですが、醤油と酒、それから原料となるソーハとリアの輸入をお願いする為にも、エルディランドに回る許可を頂けませんでしょうか?」
調理実習のついでと言ってはなんだけれど、もう一カ月後に迫った各国への視察旅行について皇王妃様に相談する。
これは単なるお願いではない。
未来の流れを決めるための交渉だ。
一度醤油の味を知ってしまうと無かった頃には戻れない。
それほどまでに、あの調味料は強い。
一刻も早くエルディランドと輸入のコースを確立して、醤油と酒を広く利用できるようにしたいのだ。
それは料理のためであり、同時に、この国のためでもある。
「でも、そうなると、丸二ケ月近い旅になりますよ。
しかも見知らぬ国を、子どもだけで。大丈夫なのですか?」
皇王妃様が心配そうに私を見る。
その視線には、皇族としての責任と、国母としての感情の両方が込められていた。
「ですが『子どもだから』入国の許可が気軽に降りたというところあるかと思いますので」
言葉にしながら、自分でもその事実の持つ意味を改めて認識する。
この身体。この年齢。この外見。
それらすべてが、武器でもあり、同時に盾でもある。
これが第三皇子や、第一皇子がということになると多分、各国も簡単に招く、来い。
とは言えなかったと思う。
それは外交であり、緊張であり、力と力の対峙になる。
今まで、殆ど五百年、国同士の表立った交流は無かったのだ。
停滞していた時間。
閉じた世界。
他国の皇族を各国がこぞって招くと言い出したのは『新しい食』が魅力的であることもさることながら、私が『子ども』であると舐めていることが大きいと思う。
油断。侮り。軽視。
それらは時に、最大の隙になる。
多分、いろいろ懐柔して有利な条件で情報を得ようと手ぐすね引いているのだ。
甘い言葉も、贈り物も、すべては交渉の一部。
私としてはあっさり言う事を聞くつもりはないけれど、色々と理由を付けて国に留めようとすることは考えられる。
それは、十分にあり得る未来だ。
リオン、フェイ、アルがいてくれれば大抵の圧力からは逃げられる自信があるので、私はそれを利用して相手から有利な情報と食材を頂いてくる気満々なのだけれど。
彼らの存在は、単なる護衛ではない。
世界そのものを揺るがす力。
「ミーティラは付けようかと思いますが、そう考えるとミーティラだけでは厳しいですわね。
この子は目を離すと本当に何をしでかすか解りませんし」
「ミュールズも付けたとしても、この子を押さえきれるかどうか……」
かくのごとく、お母様の私の行動面における信用は地を這う低空飛行だ。
地面すれすれを飛ぶどころか、既に地中に潜りかけている気すらする。
皇王妃様も味方しては下さらない。
困ったことに、完全に同意していらっしゃる表情だった。
いろいろやらかして来たから仕方ないけれど。
本当に、仕方ないのだけれど。
「とりあえず、この件については預かります。
来週の始めにまた調理実習がありますね」
「はい。水の日を予定しています。火の日には皇王陛下へのご機嫌伺いに」
「では、次の実習までに水の月の旅行の行程と計画を纏めておきなさい。
陛下と相談致しますから」
「かしこまりました」
とりあえず、今は有効な答えが出せる訳でもないので、持ち帰っての宿題ということになって解散になった。
王宮の空気が、少し緩む。
うーん、どうしよう。
頭の中で、地図と日程と交渉の順序を組み立て始める。
と、考えていたら大事な事を思い出す。
そうだ。その前にソレルティア様に呼ばれていたんだった。
思考の方向が一気に切り替わる。
私は後から来たので事情を知らないお母様に話をする。
「あ、お母様。フェイが何か話があるようなのです。
帰りに文官棟に寄ってもいいでしょうか?」
「何です?」
「私も知りません。ただ、ソレルティア様曰く、『フェイが今までの想像を超える新技術を見出した』とかなんとか……」
その言葉を口にした瞬間、空気が変わった。
お母様の表情が、母のものから、統治者のものへと変わる。
「……私も行きます。貴方達は本当に目が離せませんね」
その声音には、呆れと、そして隠しきれない期待が混ざっていた。
双子ちゃんの授乳もあるからあまり時間をかけられない。
時間は限られている。
急いで向かう事になった私達はそこで目を丸くする。
足を止める。
思考が止まる。
せざるを得ない。
文官棟の一室。
そこに置かれていたのは、見慣れたもののはずだった。
けれど、決定的に違っていた。
『おお! マリカ、ティラトリーツェ。
来ておったのか?』
額縁に入ったガラス板からまるで子どものような顔で手を振る、皇王陛下の顔を見ては……。
その瞬間、理解が追いつかなかった。
声が、聞こえている。
映っているだけではない。
動いている。
こちらを見ている。
そこにいる。
距離を越えて。
まるで、その向こう側に、皇王陛下が本当に存在しているかのように。
ガラスの表面は、ただ静かに光を反射しているだけなのに。
その奥に、確かな「存在」があった。
――世界の法則が、静かに、書き換わった瞬間だった。




