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皇国 皇国孤児院とその内情

 アルケディウスの孤児院は元護民兵の寮兼詰所だったのだそうだ。


 老朽化した寮が移転するにあたり、そこをそのまま借り受けた形になる。

 だからアルケディウスには珍しく、塀に囲まれた訓練用の広い庭があり、大きな門と門扉もある。

 兵が出陣したり、荷物などを搬入搬出する馬車も出入りしたからだろう。多分。

 横に小さな通用門があるので普通の場合はそこから出入りする。

 大きな門扉を開け閉めするのは大変なので、今は滅多に門扉が開く事はないけれど、今日は私が視察に来るので開けられている筈だった。

 それが閉められているのは多分、この男のせいなのだろうと素直に思う。


 門の外に立つ男の姿は、遠目にも荒んで見えた。

 冬の冷たい空気に晒され、髪は脂と埃で束になり、肩口の布はほつれ、擦り切れた外套は風に揺れるたび乾いた音を立てる。

 吐き出される息は荒く白く、けれどその足取りは揺るがない。


 乱れた髪、薄汚れた身なり。

 明らかに良民ではないと解るその男は、リオンが馬車から出てきて、少し驚いた様子を見せながらも、引く事も声を上げる事もしようとしない。


「妻と娘を返せ!!!」


 張り裂けるような声。

 怒りと悲しみと、焦燥と絶望が混じった、耳に刺さる叫びだった。

 男は繰り返し、そう怒鳴り声を上げ続けるだけだ。


 と、そんなこんなの間に門扉が開いたらしい。

 重い鉄と木が動く音がした。

 鈍く、重々しい音。長く使われていなかった門が軋む、低い悲鳴のような音だった。


「こいつは俺が押さえておくから早く中に馬車を入れろ!」


 御者に向けたらしいリオンの声がする。

 馬車影だから見えないけれど、どうやらもみ合っているっぽい。

 布と布が擦れる音。靴底が石を蹴る音。抑え込まれる低いうめき声。


 リオンの言葉に従い御者が馬車を進めて扉の中に馬車を入れると直ぐに再び扉が閉められた。

 ガシャンという鉄の降りる音。内側から錠もかけられたっぽい。

 その瞬間、外界と切り離されたような、重い静寂が訪れる。


 何だったんだろう。一体。


 中に入ってしまうと門の外の様子は窺い知ることができない。

 分厚い煉瓦の壁が、すべてを遮断している。

 外の叫びも、空気の揺れも、ここには届かない。


 もうカーテンは開けて大丈夫だろうと思ったけれど、リオンがいないと降りて良いものか解らない。

 迷っているとひらり、リオンが煉瓦の壁を飛び越えて入ってきた。


 軽やかに。まるで重力など存在しないかのように。


 通用門を守っていたらしい護衛さんもビックリの顔。

 目を見開き、言葉を失っている。


 相変わらず、信じられない身のこなしだ。

 飛翔の能力を使わずに身体能力だけで、というところがまた凄い。

 筋肉の動き。重心の移動。着地の音の無さ。

 どれもが完成された動作だった。


 じゃなくって。


「何だったの? リオン。さっきの男?」


 馬車の扉を外から開けて私を下ろしてくれたリオンに聞いてみるけれど、彼の返事は横に振られた首。

 金の髪が揺れる。表情は冷静そのものだった。


「解らない。妻と娘を返せとか変な事を言って暴れてるから、とりあえず意識を刈り取って転がしてある。

 ここに縄がある筈だな」

「は、はい」


 護衛兵がいざという時の為に門扉裏に用意してある道具箱の中から頑丈なロープを取り出した。

 乾いた麻の匂いがわずかに漂う。


「外の奴を縛って王都の守備兵に突き出してきてくれ。

 事情聴取は後で俺が戻ってからする。

 罪状は皇家管理の孤児院に不法侵入しようとした罪と、貴族に手を上げようとしたことだ」

「は、はい。了解しました!」


 護衛兵は背筋を伸ばし、敬礼と共に門の方へと駆けていく。


 普段のリオンだったら自分でやってしまうだろうけれど、今は私の護衛だからか、配下に指示したあたり流石の判断力だと思う。

 守るべき対象を優先する。その判断の速さと的確さ。


 テキパキと動く私の護衛騎士をぼんやりと見ていると、背後から声がかかる。


「お騒がせして申し訳ありません。皇女様。

 アレがご相談したかったことなんです」


 耳慣れた声に振り返れば、そこにいるのは頼もしく信頼する仲間の顔。


「リタさん!」


 胸の奥が、ふっと温かくなる。

 一月しか経っていないのになんだか妙に懐かしい。


「許可を得ず、話しかけるご無礼をどうかお許し下さい。

 皇女様にはご機嫌麗しゅう。

 新年と皇女様の御即位を心からお慶び申し上げます」


 スッと跪き挨拶をしてくれるのはこの孤児院を任せている院長兼保育士リタさんだ。

 背筋の伸びた姿勢。けれどどこか、以前と同じ柔らかな空気をまとっている。


 一カ月前のように親し気で気さくな会話はできなくなってしまったけれど、変わらない笑顔と逞しい肝っ玉母さんのような雰囲気が嬉しい。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけほどけた気がした。


「ありがとうございます。

 色々と大変だったようですね。今日は事情を聞きたく参りました」


 私もふんわりとお辞儀をする。

 皇女としての礼儀。けれど、心は以前と同じまま。


 もう一人、保育士を頼んだカリテさんが要る筈だけど、この騒ぎだから中にいるのかな?


「アレはなんだ?

 妻を返せとか言っていたようだが…」


 リオンの問いに静かにうなずくとリタさんは、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた。

 そして、覚悟を決めたように口を開く。


「とりあえず中へ。

 子ども達も職員も皆、中におりますので」


 そう促してくれた。

 外の冷たい空気と違い、門の内側には人の気配が満ちている。

 生活の匂い。温もりのある場所。


 こんなところで皇女に長話はさせられないよね。うん。


「解りました。行きましょう。リオン」

「はい」


 短い返事。

 変わらない、頼もしい声。


 リオンとセリーナを連れて中に入ると中では本当に、子ども達職員、全員が待って出迎えてくれた。

 扉の向こうに広がる光景。


 木の床の上に並ぶ小さな靴。

 きちんと整えられた衣服。

 緊張で強張った小さな手。


 子ども達はほぼ全員知った顔。

 職員も何人か増えているけれど、元ゲシュマック商会の従業員だから顔は覚えていた。

 知らないのは赤ちゃんを抱いた女性だけ。


「もう一人、新しく入った赤子と、その子の世話をする女がここに出てきていません。

 ついさっき寝付いたところなので。起きたら連れてくるように言ってあります」

「ありがとう。

 皆さん、久しぶりです。元気にしていましたか?」


 ルスティ、シャンス。

 マーテ、サニー。

 四人の孤児達と、プリエラちゃん、クレイス君。

 リオンの部下、ウルクスの保育園で預かっている子ども達。


 懐かしい顔。

 見慣れた瞳。

 けれど――。


 跪き俯く子ども達の表情には緊張と戸惑いが見える。

 目を合わせようとしない。

 息を潜めている。


 まあ、そうだよね。

 ほんの少し前まで親しく過ごしていた相手が皇女様だと言われて、跪かないといけないと言われれば。


 距離ができてしまった。

 身分という、どうしようもない壁。


「難しいとは思いますが、今まで通りに接して下さい。

 私は皇女になりましたけれど、貴方方を守る保育士でいたいと思っていてその気持ちに変わりはありません。

 どうか、これからも今までのようにこの孤児院兼保育所で元気に仲良く過ごして下さい。

 貴方達が望む未来を見つけられるように、それに辿り着ける様に私は全力を尽くします」


 声が、少し震えそうになる。

 それでも、まっすぐに言葉を届ける。


 理解して貰えるかどうか解らないけれど、真っ直ぐな祈りと願いを言葉に込めて贈る。


 返事は無い。

 けれど――。


 小さな指が、ほんの少し動いた。

 顔を上げかけた子がいた。


 届いたと信じたい。


「では、皇女様、こちらへ。

 色々とご報告したいこと。ご相談したいことがございます」

「解りました。カリテさんは保育の方を。よろしくお願いします」

「お任せ下さい」


 いつまでもここにいると子ども達が緊張して遊べないだろう。

 私はリタさんと一緒に部屋を出て応接室に向かった。

 生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた女性も一緒だ。

 他の職員もそれぞれ仕事に戻って貰った。




 応接室の椅子に私が座り、側に護衛のリオンと侍女のセリーナがついたのを確認するとリタさんはいくつかの木札を指し出して説明を始めてくれた。


 磨き込まれた机の上に並べられた木札は、子ども達の成長を記した小さな記録。

 指先でなぞれば、刻まれた文字の凹凸が微かに伝わってくる。


「孤児院の方はおおむね順調に進んでおります。

 子ども達も元気で、遊びにも手伝いにも、最近始めた勉強にも熱心。

 基本の文字の読み書きを年長のシャンスとサニー、あとプリエラはほぼ身に付けました。

 年少の子ども達も読むことはできるようになっています。最近は算数を始めたところです」


 誇らしげな声。

 その響きに、この一カ月の積み重ねが滲んでいる。


「それは凄いですね」


 思わず顔が綻ぶ。

 胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。


「冬から新年にかけて寒い中、アーサーとアレクが良く通って教えてくれましたから。

『新年からはおれは仕事に行くから、あんまり来れなくなる。

 がんばっておぼえろよ』

 と、特にアーサーが一生懸命だったので、子ども達も色々と思う所があったようです」


 冬の冷たい空気の中、机に向かう子ども達の姿が目に浮かぶ。

 震える指で文字をなぞる姿。

 悔しそうに眉を寄せる顔。

 できた時の、あの輝く笑顔。


 アーサーは新年からリオンの従卒として王都の騎士団の軍属になってる。

 護衛に従卒を連れてこれないので、今日は多分騎士団で勉強か仕事をしていると思う。

 アレクは店で演奏がてらリュートの練習。

 夏からは私の専属楽師として王宮デビューさせる予定だ。


 みんな、それぞれの道を歩き始めている。


「いつも遊んでいてくれた二人がいなくなって寂しがっていませんか?」


 少し心配になって聞く。

 大きな存在だったはずだから。


「寂しいとは思いますが、彼等は自分達とは違うのだと解ってはいると思います。

 そしてそれぞれに、自分達も彼らのように仕事をもって働く事を考え始めているようです」


 静かな声。

 けれどそこには、未来へ向かう確かな意志があった。


 同じ貴族の奴隷だった年長二人も今、外の世界で仕事をもって働いている。

 彼等にもやりたいことが見つかれば、それを手助けする為の助力は惜しまないつもりだ。


「意外な所で、一番しっかりと目標を持っているのはプリエラとクレイスです。

 父親のように強い戦士になりたいそうですよ」

「へえ~。それは驚きですね」


 小さな身体で剣を振る姿を想像して、少しだけ胸が締め付けられる。

 危険な道。

 けれど――。


 でも、一番身近なモデルである親に憧れるのは子どもの基本だ。

 子どもを戦いに出すのは嫌だけれど、自分で選ぶ道なら止めてはいけないと解っているつもり。


 ウルクスはその恵まれた体力、膂力を生かした格闘家だから、そのまま真似させない方がいいと思うけれど。

 ふむ。


「リオン。時間がある時、子ども達を騎士団に見学させることはできませんか?」


 隣に立つ守護騎士へ視線を向ける。


「騎士団に見学? ですか?」


 少し意外そうな顔。


「ええ、時々訓練をしているでしょう? プリエラとクレイス。もし他に興味がある子がいたら他の子も。

 ウルクスや色々な戦士たちの戦い方や現実を見て、子ども達が進路を考える手助けにしてあげたいのです」


 閉じた世界の中だけで育つのではなく。

 広い世界を知って欲しい。


 孤児院の中にずっといると、どうしても世界が固定されてしまう。

 色々なものを見て、選択肢を広げて欲しいと思うのだ。


「その上で、子ども達が戦士を目指すのなら、本人にあった戦い方を教えられる師の元で、手に職をつけさせてあげたいのです」


 未来を奪うのではなく。

 未来を選べるようにする。


「…皇子と相談してみます」


 短く、しかし確かな返答が返ってきた。


「お願いします」


 勿論、針子や料理人、保育士など仕事の選択肢は色々ある。

 農業はこれから引く手あまたになるし、商人になりたいならゲシュマック商会で受け入れる。

 字を覚えれば代書などもできるだろう。

 可能なら職業選択の自由は、子ども達に与えてやりたいのだ。


「子ども達の事はまあ、そんなこんなで順調に行っています。

 ただ、別の問題が発生してきてまして…」


 リタさんの声が、ほんの少しだけ低くなる。

 先程までの穏やかな報告とは違う、重さを帯びた響き。


「あ、相談したい事、というのはそれですね。聞かせて貰えませんか?」


 私は姿勢を正す。

 胸の奥で、嫌な予感が静かに広がっていく。


「ありがとうございます。…ローラ」


 私の考えと話の区切りを待って、多分一番話したかったであろうことを、リタさんは切り出す。

 その名前を呼ぶ声には、守ろうとする強い意志が込められていた。


「この娘はローラ。先日赤ん坊を産んだばかりで、乱暴をはたらく男から赤ん坊を連れてここに逃げ込んで来たんです」


「まあ!」


 思わず声が漏れる。


 ぺこりと、赤ん坊を抱いたまま頭を下げるローラと呼ばれたその女性は外見年齢二十代の可愛らしい感じのする女性だ。

 細い肩。少しやつれた頬。けれど腕の中の赤子を抱く手は、しっかりと守るように力が込められている。


 今は孤児院のお仕着せとエプロンを着て身綺麗にしているけれど、手などに小さな傷の跡が見える。

 指の節。手首の内側。

 薄く残る痣の色。

 消えかけてはいるけれど、それが何を意味するのかは、見れば解る。


「ローラ。身の上をお話しして。

 でないとあの男の事をご相談できない」


 リタさんの声は優しい。

 急かすでもなく、突き放すでもなく。

 背中を支えるような声音。


「身分を気にする必要はありません。貴女の口からどうしてここに逃げ込んで来たか。

 これからどうしたいかを聞かせて下さい」


 私の言葉に今まで皇女を前に、と少し引いていたらしいローラは私に身の上を話してくれた。


 小さな声。

 けれど、確かな決意を伴った声。


 男と一緒に暮らしていたが、妊娠を機にさらに乱暴になった男から我が子と共に逃げ出して来た、と。


 言葉の端々に滲む恐怖。

 それでも赤子を抱く腕だけは、決して揺るがない。


 所謂DV。


 私はため息と共に頭を抱える。

 こめかみに指を当て、ゆっくりと息を吐く。

 やっぱりこの世界にもあったか。


 知ってはいた。

 予想もしていた。


 それでも――。

 実際に目の前に突き付けられると、胸の奥が重く沈む。


「頭の悪い奴だな。新年から児童保護の法律が施行されたのを知らないのか?」


 隣でリオンが吐き捨てるように言う。

 怒りを押し殺した、低い声。


「知らないと、思います。

 彼は日雇い労働者です。文字の読み書きもできないですし、そういうことにも興味がない人ですから。

 私も新年に、新しい皇女様のお話を聞き、その関係で耳に挟まなければ知らなかったと思います」


 ローラの声は静かだ。

 責めるでもなく。

 諦めたようでもなく。


 ただ、事実を述べているだけ。


「新しい法律なんて関係ない! って思ってる連中は意外に多いと思う……思いますよ。

 下層の連中には文字の読み書きができない者も多いですし」


 リオンが言い直す。

 私の前だから。

 皇女の前だから。


 その気遣いに、ほんの少しだけ苦笑しそうになる。

 リタさんやローラの言う通りそういう人もまだ暫くはいるだろうとは予想していた。


 長年の感覚は一朝一夕には変えられないものだし、ちゃんと法整備されていた向こうの世界だって子どもの人権を無視する大人や親は哀しいけど存在したし。


 制度だけでは守れないものがある。

 だからこそ、人が守らなければならない。


「ローラさんはリタさんが孤児院に雇って保護してくれたんですよね。

 ありがとうございます、そう判断できるリタさんを院長にできて本当に良かった」


 私はリタさんに心からの思いで頭を下げたら慌てて手を振られてしまった。


「そんな、お礼なんて滅相も。勝手な事をして怒られるかな、ともちょびっと思いましたけどやっぱり放ってはおけなかったですからね。

 あたしも悪い男に引っかかった経験もありますし」


 少しだけ遠くを見る目。

 過去の記憶を思い出しているのだろう。


 昔ゲシュマック商会にいた頃、少し聞いたことがある。

 ゲシュマック商会に雇われた女性陣の中にはDVの被害を受けた女性が少なくない。と。

 中世だと女性には職業選択の自由はあまりない。

 針子、織り師、メイドなどの技術職、商人などの頭脳職など手に職を持てる人はまだ良い。


 でもそんな機会がない人は、農業も無い世界、掃除洗濯などを請け負うか男に守られて生きるか、もしくは身を売って生きるかしかない。


 覚悟があっても無くても路地にいれば女性はそういう目に遭うことを避けられない。

 やっぱり色々な意味で厳しい世界だ。


「怒られるなんてとんでもありません。

 もし今後もこういうことがあれば、ぜひ保護して下さい。受け入れ先は孤児院が難しければゲシュマック商会も受け皿になります」


 私ははっきりと宣言した。

 迷いなく。この孤児院、ううん。アルケディウスの統一見解として。


「ありがとうございます。第三皇子妃様にもそう言って頂けているので安心しております。

 子どもと母親は必ず守りますので」


 ドンと胸を叩いてくれるリタさんは本当に頼もしい。

 その音は、決意の音だった。


「ローラさんも安心してここにいて下さい。

 落ち着き先がちゃんと見つかるまで、貴女と子どもの安全は、私が責任を持ちますから」


 私はローラの目をまっすぐ見る。


「ありがとうございます。私は…なんと…お礼を申し上げていいやら…」


 声が震え、涙が溢れる。


「お礼なんて気にしないで下さい。国民を守るのは皇女の役割です。貴女とお嬢さんの笑顔と幸福が一番の報酬ですよ」


 跪き泣きじゃくるローラさんの背中を私は抱きしめた。

 細い身体。守るものを得た母親の体温は心と同じで暖かい。

 護りたいと、心から思った。


 そんなこんなで打ち合わせをし、大よその概略を纏め終えた頃。

 応接室の空気は、先程までの重さを少しだけ溶かしていた。

 木の机の上には書きかけの木札。窓から差し込む春の淡い光が、それらを静かに照らしている。


 トントン。


 柔らかいノックの音がした。

 遠慮がちな、それでいてきちんとした間隔のノック。


「誰だい? 今、来客中だよ」


 リタさんが声をかける。


「アリシアです。レオが目を覚ましたので…。どうしましょうか?」


 扉越しに聞こえる、控えめな女性の声。

 その声の中には、少しだけ緊張が混じっていた。


「ああ、中に入っておいで。皇女にご紹介してからローラに授乳を頼むから」

「レオ…ですか?」


 聞かない名前に首を捻る私にリタさんはローラさん達よりも少し早くに拾われた乳飲み子だと説明してくれる。

 木の一月の半ば、というから私達が大聖都で最後のドタバタをしていた頃だろう。


 あの慌ただしい日々。

 その裏側で、この子はここに辿り着いていたのだ。


「名付けはライオット皇子にお願いしました。

 アルフィリーガと同じ色を持つ可愛い男の子です。

 顔を見て、なんだか皇子は思う所があったようですよ。なんだか、あいつに似てるなとかなんとか…」


 リタさんが少しだけ首を傾げながら言う。

 その時の様子を思い出しているのだろう。


 私達が会話をしている間に静かに扉が開き、どこかびくびくした顔つきの女性が入って来る。

 足音を立てないように、そっと。


 腕には言われた通り、赤ちゃんを抱いて…。


 赤毛に碧の瞳。可愛らしい感じの彼女には覚えがある。

 見慣れた色。見覚えのある顔。


 私は立ち上がって手を伸ばした。


「えっと、アリシアさん、でしたよね、確かゲシュマック商会の二号店にいた」


「覚えていて下さったんですか?」


 驚きと喜びが混じった声。


「勿論。子ども好きだと聞いてましたし、勉強も熱心でしたよね。

 ガルフに、もう少し子どもが増えたら孤児院の職員に引き抜きたいって頼んでいたので」


 当時のことを思い出しながら言う。

 帳簿を真剣に見つめていた姿。

 子ども達と遊ぶ時の、あの優しい笑顔。


「あ、ありがとうございます。

 だからですかね。ガルフ様に頼まれて先日からこちらに移って今はレオの面倒を中心に見ています」


 アリシアさんはそういうと腰をかがめ、腕に抱いた赤ちゃん レオ君を私に見せてくれる。

 小さな身体。柔らかな産着に包まれた存在。


 まだ首もすわるかすわらないかの筈。私は無理に手を出さずに産着の中を覗き込んだ。


 指を口元に当てて、緑色のまあるい目でこちらを見ている。

 澄んだ色。

 深い森のような色。


 あ、なんだかビクッとした。


 ほんの一瞬。

 目が、合ったから。

 知らない顔を見てビックリしたのかな?


「可愛いですねえ。柔らかい金髪の巻き毛に緑のおめめがパッチリで。

 生後二ケ月くらいでしょうか?」


 思わず声が柔らかくなる。


「私もそんな感じかな、と思ってます」

「ミルクは飲めますか?」

「最初はヤギの乳で、今はローラに一緒に授乳して貰ってます。良く飲んで良く寝る。手間のかからない子ですよ」


 それはいい子だなあ、と思って、触れさせてもらおうと手を伸ばしたその時。


 レオ君の瞳が、じっとこちらを見ていた。

 まるで――。


 何かを、知っているかのように。


 くくっ!! 


「え?」


 後ろから声がした。

 いや、声じゃなくって『笑い声』


 何かを我慢していたのが、耐えきれず吹きだされた音。

 喉の奥から溢れ出た、抑えきれない衝動。


「ハハハ! ハハハハハハ!」


 弾けるような爆笑。

 部屋の空気を震わせる、遠慮のない笑い声。


 振り向いた私は思わず眼を瞬かせてしまった。

 何が起きたのか理解できない。


 周囲の人達もみんなビックリ。

 目を丸くしている。レオ君よりも。


 だって――。


 そこには守護騎士の畏まった相好を崩し、腹を抱えて大笑いするリオンの姿があったのだから。


 肩を震わせ。

 呼吸を乱し。

 止めようとしても止められないようだ。


 ただ、その笑顔は本当に嬉しそうで、楽しそうで。

 そして幸せそうな満足の笑みを浮かべていた。


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