王都 閑話 シュライフェ商会針子視点 華を彩る者
昼休憩が終わると、シュライフェ商会には勝者の喜びと敗者の嘆きが響きます。
針の音が再び部屋に満ち始める中、それでも完全に仕事の空気に戻りきらないのは、つい先程までの昼休憩の余韻がまだ残っているからでしょう。
布と糸の擦れる音の合間に、ため息や弾んだ声が混じるその光景は、この工房の日常の一部でした。
「今日は本店の料理になんとかありつけたんです。魚の味がたっぷりと出たスープがもう、最高の味で!」
針を動かしながらも、興奮を隠しきれない声。
その言葉を聞いた周囲の針子達の指が、ほんの一瞬だけ止まるのが解ります。
「いいなあ。私はエスファード商会の方に行ったんだけど完売。
少し前まで穴場だったんだけど…」
悔しげに唇を尖らせながらも、手は止めない。
彼女達は職人です。
どれほど悔しくとも、仕事を止めることはありません。
なので私も注意はしませんでした
「ビフレスト商会も段々に人気になって来て、入れない事多いですよね」
共感の声、小さなため息が糸を繰る音に混じります。
針子の娘たちが口々に噂をしているのは昼食の話。
今日は『新しい食』に在りつけたか、という話です。
不老不死となったこの世界において、かつて不要となったはずの食。
それが再びこの世界に戻ってきてからというもの、人々の生活は明らかに変わりました。
味わうという行為。
それは単なる栄養ではなく――喜びそのものなのです。
「プリーツィエ様は、食事に出られなかったんですか?」
若い針子の一人が、遠慮がちに尋ねてきます。
「マリカ様が国王会議からお戻りになられたのですから、いつお呼び出しがかかるか解りません。できる限り準備は進めておかないと」
針を動かしながら答えます。
布の感触。
糸の張力。
それらを指先で確かめながら。
私の返事に針子達は申し訳なさそうに顔を見合わせてエプロンを身に着け、針を持ち直しますが――
彼女達の視線は、すぐに別のものへと引き寄せられました。
私の作業台の端。
そこに置かれた包みへと。
「それは?」
「私の昼食です。ゲシュマック商会から、パンとジャムを買って来てますので…」
その瞬間。
「うわ~、ずる~~い」
「自分ばっかり」
非難の声が溢れます。
その声音に本当の悪意はありませんけれど。
羨望。
ただそれだけです。
別に何もズルい事はしていないのですけれどね。
食べ物に向ける女の執着というものは、例え不老不死世界でも変わらないものなのかもしれません。
それどころか、失われていた時間が長かった分、その価値はより強くなっているように感じられます。
私はプリーツィエ、シュライフェ商会の針子兼デザイナーです。
ここ、シュライフェ商会の針子部屋は職人街の一角にあります。
本店の商業店舗は中央広場に程近いところにありますが、こちらは請け負ったドレスや衣服を作る、言わば作業工場なのです。
一階は工場直販の既製服販売エリア。
残りの二階、三階は針子部屋。
さらに上階は針子達が部屋を借りて住んでいます。
布の匂い。
糸の匂い。
そして、微かに漂う新しい食の残り香。
仕事はノルマ制なので、おしゃべりなどをしていても手が動いていればあまり怒られることはありません。
ですが――
今は事情が違います。
今、この部屋で作られているのは。
皇室の皇女――マリカ様のドレスなのですから。
シュライフェ商会はアルケディウスでも指折りの服飾専門店です。
人は不老不死になっても、裸では生きられない。
それは当たり前の事実でありながら、この世界の本質を示す真理でもあります。
食は不要になっても、服飾の需要は決して消えませんでした。
寒さを防ぐ為だけではなく。
身分を示す為。
美しさを示す為。
誇りを示す為。
服とは、その人の存在そのものを表すものなのです。
だからこそシュライフェ商会は、五百年という長きに渡り安定した商売を続けて来ました。
無数にある衣料品店の一つであったシュライフェ商会躍進の始まりは、不老不死以前に現主人であるラフィーニ様が、当時の御主人であらせられたマナウス様とご結婚なさった事に始まります。
優れた裁縫の腕とセンスをお持ちだったラフィーニ様は徐々に顧客を増やしていきますが、その最中にマナウス様が病没。
一時は存亡さえ危うかったシュライフェ商会を、後を継いだラフィーニ様が経営手腕も発揮されて建て直し、貴族、皇族のお客もそのセンスで虜にして現在王都第二位と言われる礎を築かれたのです、
中でも第三皇子妃 ティラトリーツェ様を顧客として掴めたのが大きいでしょう。
そして最近は御息女マリカ様を。
現在、シュライフェ商会は押しも押されぬ王都、つまりはアルケディウス第二の服飾、衣料商会として大きな力を発揮しています。
給仕を行うゲシュマック商人の料理人、と最初に在った時紹介されたあの女の子、マリカ様がまさか、第三皇子の隠し子で皇女様だったとは思いもしませんでした。
でも、言われてみれば納得なのです。
髪の毛の汚れを落とし美しくする『シャンプー』
唇に艶を出す油『口紅』
料理人の清潔を守る『コックコート』
どれも、食うや食わずの生活を強いられる、普通の子どもから生まれて来るものではありませんから。
高度な教育と、自分や周囲の身の回りを気遣う心の余裕がないと考えつく事さえ出来ないはずです。
加えて、あの気品、姿勢の良さ、力のある眼差し。
きっと第三皇子はいつか、姫君を皇家に戻す為に最高の教育を施されておいでだったのでしょう。
紫水晶をはめ込んだような美しい瞳。
艶やかな宵闇を糸にしたようなサラサラの髪。
細くしなやかな指先、小鹿のようなすんなりと伸びた手足。
あの方の魅力を最大限に発揮できる衣装は…。
「…―ツィエ様、プリーツィエ様」
「あら、何ですか?」
作業に没頭していた私は、肩を叩かれる声にハッとして顔を上げました。
別に寝ていた訳では勿論ありません。
作業に集中すると、周りが見えなくなるのは私の癖なのです。
無数にある衣料品店の一つであったシュライフェ商会躍進の始まりは、不老不死以前に現主人であるラフィーニ様が、当時の御主人であらせられたマナウス様とご結婚なさった事に始まります。
「作業に区切りが付いたら、ラフィーニ様が本店の方に来て欲しいとの事です。
マリカ様がお戻りになられて、シュライフェ商会の方に新しい要請が来たそうですから」
胸が高鳴ります。
「解りました。直ぐに行きます」
刺繍の針を止めると私は作業用のエプロンを外しました。
この作業用のチュニック風エプロンのおかげで仕事がしやすくなった、とはここの針子だけでは無く、色々な仕事をする女性からの声です。
手元が自由に動き、なおかつ服の前後ろがすっぽりと包まれ守られる。
着脱も後ろに手を回さず、横のボタンを外せばいいだけなので楽なのもありがたいところで、最近はコックコートと共にシュライフェ商会の主力製品の一つになっています。
このエプロンもマリカ様のアイデアなのです。
工房を出て、本店へ向かいます。
通いなれた本店への道。
春になり、新年を迎え、気が付けばその全てが、変わり始めていました。
食の復活によって。
生活が。
文化が。
世界が。
動き始めていたのです。
本店に入り、二階の応接室に向かうとラフィーニ様が待っておられます。
応接室は、静寂と格式に包まれた空間でした。
厚手の絨毯が足音を吸収し、外の喧騒を遠いものにしています。
窓から差し込む午後の光が、室内の家具や調度品の輪郭を柔らかく縁取っていました。
商会の中心。
決断が下され、未来が形になる場所です。
「お待たせいたしました。
何か御用でございましょうか?」
ラフィーニ様は机から立ち上がり、私に椅子を勧めます。
その動作は優雅でありながら無駄が無く、長年商会を率いてきた者の風格が自然と滲んでいました。
「待っていましたよ。プリーツィエ。
マリカ様の注文を受けていた新しい旅装と礼服の進み具合はどうです?」
ハシバミ色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめます。
その視線は鋭く、同時に信頼を含んでいます。
「現在、殆どの服が仮縫いまで進んでおります。仮縫いが終われば後は一月ほど、でしょうか?」
答えながら、頭の中では各衣装の進捗が自然と並びます。
布地の種類。
刺繍の進行度。
仕立ての調整箇所。
全ては、既に把握済みです。
「先程、第三皇子妃様から使いが来て数日中に仮縫いの時間を作るので館に来るように、とのことです。
準備をお願い。
後、乳児用の服の代えとオムツも持ってきてほしいとの注文も入っています。
こちらは仮縫い無しの簡単なもので構わないので数が欲しい、とのことですね」
木札を確認しながら出される指示。
その一つ一つは、既に予測の範囲内でした。
「そちらの用意も問題なく進んでおります。乳幼児はどんどん成長していくので仮縫いをして身体に合わせていく時間はありませんので、寸法に余裕を持たせつつ少しずつ大きくしたものを用意しています」
子どもの成長は早い。
それは、この一年で学んだ新しい常識でした。
「流石はプリーツィエね。乳児服に携わるなど五百年針を握って来たけれど滅多にないので勝手を忘れていました」
ほう、と息を吐き出しながらラフィーニ様は感心したように私を見ます。
ラフィーニ様はマナウス様との間にお子を設けることなく死に別れてしまわれましたし、私も夫との間に子は在りません。
ですから『子ども』というものには決して慣れているとは言えませんが、ここ一年で子供服の注文が相当に増えました。
解らないなどと甘い事はとても言っていられません。
それに、子供服を作るのは、とても楽しい事です。
素材の良い子ども達が、良い服を着て立つ姿を見るのは胸が躍ります。
新年の参賀に立たれたマリカ様や、騎士試験で優勝した少年騎士が私の考え、仕立てた服を着て喝采を浴びる姿を見るのは本当にうっとりとさせられたものです。
子どもというのは今まで、低く見られがちでしたが今年からはアルケディウスでは保護されることが法律で決まりました。
実際、接してみると子どもという存在は瑞々しく、華やかで美しい花のような存在だと思います。
彼等に会うたび、話をするたび、次はどんな服を作ろうか、アイデアが泉のように湧いてくるのです。
「ティラトリーツェ様のお子は双子です。
今後もどんどん成長していかれますから注文は続くでしょう。準備は怠りなくね」
「心得ております。お任せくださいませ」
私は胸を張ります。
今、この国で一番、子供服を手がけ良い形で作れるのは自分だと自負していますから。
いくつかの追加注文の話を確認した後、不意に、ラフィーニ様は少しだけ視線を窓の外へと逸らされました。
それはほんのわずかな間のことでしたが、長くこの方に仕えてきた私には、その沈黙がただの間ではないことが解ります。
「ねえ、プリーツィエ。
貴女はアデラを覚えていて?」
その名前を聞いた瞬間、私の手の中で持っていた帳面の重さが、少しだけ変わったような気がしました。
「はい。覚えております。かつてこの商会の針子でガルフ様の商会に嫁いだ…」
口にしながら、自然と、あの頃の光景が思い出されます。
アデラは、不老不死になる前からここにいた針子の一人でした。
控えめで、あまり自分から前に出ることはなくて、作業台の端で静かに針を動かしているような人でした。
ですが、その指はとても繊細で、彼女の仕立てた服には不思議な柔らかさがあったのを覚えています。
そして、その控えめな性格とは対照的に、彼女の身体は女性らしく豊かで――
多くの男性が彼女に言い寄っていたのも、無理はなかったと思います。
それでも彼女は、決して浮ついた様子を見せることはなくて。
だからこそ、当時まだ若く、けれど既に才覚を見せ始めていた商人――ガルフ様に見初められ、結婚した時には、皆が心から祝福したのでした。
あの頃のガルフ様は、まだ今ほどの風格はなくて、どこか無骨で、それでも真っ直ぐな目をした方でした。
――けれど。
「今、あの子はアーヴェントルクのオルトザム商会で商会長の第二夫人をしているの。
今年になって時折、ガルフの店の様子を伺う手紙が来ます。どう、対応したらいいと思います?」
差し出された手紙。
私は、それをすぐに手に取ることが出来ませんでした。
あの離別は――
アルケディウスの商業に関わる者なら、誰もが知っている出来事だったからです。
不老不死世界になり、『食』という概念が一度消えた時、多くの商会が崩れました。
ガルフ様の店も例外ではなく、むしろ若く勢いがあった分だけ、借り入れは大きかったのだと聞いています。
その返済の為に。
アデラは、ガルフ様の元を去りました。
正確に言えば、去らざるを得なかったのでしょう。
他国の豪商の元へ嫁ぐことで、多額の無期限無返済融資を受ける。
それが、店を救う唯一の方法だったのです。
ですが。
それがどれほどの痛みを伴う決断だったのかは、当事者にしか解らないことでしょう。
「様子を伺う、ってよりを戻したい、という事ですか?」
自分でも少し冷たい言い方になっていると解りながら、私はそう尋ねました。
「いいえ。アーヴェントルクでも『新しい食』が話題になり始めているので、その情報、できるなら縁が欲しい、という話のようです。
夫である商会長の差し金かもしれませんね」
「どちらにしてもムシの良すぎる話だと思います。
下手に関わらない方が良いのではないでしょうか?」
私は自分が我ながら厳しいと承知しつつも、アデラの肩を持とうという気がまるで湧いてこない事を感じていました。
アデラにしてみれば、我が身を裂く思いでガルフ様の為に選択した結果なのかもしれません。
ですがガルフ様がそれを望んでいなかったのは解り切っていますし、そのような手段を取らなくてもガルフ様ならきっと商売を畳むくらいはやりとげただろうと私は思います。
今、ガルフ様の店、ゲシュマック商会はアルケディウスで、いえ世界で一番勢いがある商会で在ると言っても過言ではありません。
なんとかして縁を繋ぎ、自分の商売に繋ぎたいと、商業主なら誰でも思うでしょう。
『食』という一大産業の復活は、食の世界のみならず周辺産業にも大きな影響を与えています。
カトラリー、皿、鍋など調理用品の製作で、木工、鉄工ギルドは新しい需要にフル稼働中。
我々シュライフェ商会もエプロンやコックコートなどで多大な収益を上げています。
逆に敵に回したら一番恐ろしい商会でもあり、かつてはアルケディウスの服飾第三位と言われたウォーキン商会は店主ザックとガルフ様の仲違いから勢いを失い、今は見る影もありません。
「今現在、シュライフェ商会がガルナシア商会に迫る躍進を続けているのは、ゲシュマック商会とマリカ様あってのことです。
子供服、コックコート、エプロン、シャンプー、花の水。
どれもマリカ様と仲介するゲシュマック商会の協力なしでは在りえなかったもの。
変に藪を突いて蛇を出し、ウォーキン商会のように遠ざけられるよりは、構わない方がいいと存じます」
「…そうね。今後フリュッスカイトからオリーヴァ油が正式に輸入されれば発売される予定の口紅、花の香りの油なども控えています。
アデラには可哀想ですが、ガルフとマリカ様の機嫌は損ねられませんね。
当たり障りのない返事を返しておきましょう」
「はい」
私には遠い昔の、小さな胸の痛みを振り払います。
まだ駆け出しの針子だった頃、若くて優しく、それでいて凄腕だった商人に憧れた青い果実のような思い出。
彼に恋をするとか、アプローチしたとか、そんな積極性は昔の私にはありませんでした。
でも彼が同僚と結婚すると聞き、誰にも知られない所で枕を濡らした事は確かにあって、今も、五百年の時に埋もれてもふいに蘇ってはこうして心を苛むのです。
今の私には子どもこそありませんが、優しく私を理解してくれる夫もいます。
国を動かす豪商になった彼に今度こそアプローチを、などと思うのはそれこそムシが良すぎますし、人の道にも劣ります。
ただ、私はゲシュマック商会と、子ども達の為が輝く為に、彩りを添える手助けをする。
その為に全力を尽くして行こうと思うだけ。
それだけなのです。
「そうだ。プリーツィエ。
シュライフェ商会に、食堂を作るというのはどう思いますか?」
唐突とも言える提案でしたが、ラフィーニ様の声には、既にある程度の考えがまとまっている時特有の、静かな確信が滲んでいました。
「食堂、ですか?
シュライフェ商会もガルナシア商会のように食料品扱いに参戦すると?」
私は思わず聞き返します。
けれど、そう問いながらも、頭の中ではすぐに針子達の顔が浮かびました。
昼休憩の度に、作業を急いで終わらせて店を飛び出していく娘達。
戻ってきた時の、満足そうな顔と、悔しそうな顔。
それらは、この一年で何度も見てきた光景でした。
「そうではありません。
最近、針子達は昼休みに店を抜け出してゲシュマック商会の店に並んでいるのでしょう?
休憩中の事ですし、食事をすると明らかに作業効率が上がるようなので禁止するつもりはありませんが、抜け出せない営業担当の者達から羨ましいと苦情が出ているのです。
ならば予算を取って、店に食事ができるところを作ってはどうかと思ったのよ。
最近は、マリカ様とゲシュマック商会のおかげで潤っていますしね、店員還元も必要でしょう?」
そう言って、ラフィーニ様は片目を閉じて微笑まれました。
その仕草を見て、私は思わず顔がほころびます。
ああ、この方は本当に変わらないのだと、改めて思いました。
商人としての厳しさを持ちながら、それでも共に働く者達のことを忘れない。
だからこそ、シュライフェ商会はここまで続いてきたのでしょう。
「それはステキな案だと思いますわ。皆も喜ぶこと間違いなしです」
自然と声が弾みました。
工房の娘達が、焦ることなく食事を楽しみ、満たされた心で針を動かす姿が目に浮かびます。
それはきっと、仕事にも良い影響をもたらすはずです。
「何より、私も『新しい味』をもっと身近に味わいたいのです。
商会長の身分ではなかなか、店に並ぶわけにもいきませんからね。どんなメニューがあるか知っていて?」
少しだけ照れたように言われたその言葉に、私は思わず笑みを浮かべてしまいました。
「確か本店のメニューは『オボン』と呼ばれる四角い大きな板に乗せられて供せられるものが多いですね。
スープと、肉料理……最近はビエイリークから特別な手段で運んでくるという海産物もたまに出てきて人気があるようです。あとは軽い野菜のサラダ、あと小さな甘味で中額銅貨五枚です。
料理は日替わりで、毎日違うメニューが…列に並んで食事にありつければですが……評判です。
一番人気はやはりパンケーキだと思います。
下町の串焼き屋は私達にはなかなか捕まえづらいですし……。朝、パン屋でパンを買ってくるのが私達にとっては一番確実に新しい食に在りつける方法かと。
大祭の時の「クレープ」も私は好きなのですが、あれは大祭限定メニューなので…」
話しながら、自分でも驚くほど言葉が滑らかに出てくるのを感じていました。
あの味を思い出すだけで、自然と胸が温かくなるのです。
「あらあら、随分と貴女も『新しい食』にハマっているのね」
「も、申しわけありません。その…針子達の噂です」
慌てて視線を落としますが、顔が熱くなっているのは自分でもはっきり解りました。
本当は――
私自身が一番楽しみにしているのかもしれません。
毎朝、パン屋に寄るのが習慣になりました。
顔なじみになり、時には新しいジャムを分けて頂けることもあります。
夫と一緒に食べるその時間は、穏やかで、満たされたものです。
かつて、この世界から失われていたものが、確かに戻ってきているのだと実感する瞬間でもありました。
「もし良ければ次の仮縫いの時にでも、マリカ様に個人のレシピの買い取りと、使用を許可して頂けるかどうか伺ってきて頂戴?」
「解りました」
「それから春になり花も咲き始めましたので、花の水作りを始めたい旨のお話も。
今年は花の油の作り方も教えて頂けるといいのですが……」¥。金額について出し惜しみはしないので良くお願いして来てね」
「心得ております」
マリカ様。
あの方は、ただの皇女ではありません。
世界を変えていく方です。
それも、戦や力ではなく――
暮らしによって。
美しさ、愛らしさ。優しさ。
まるで人を和ませる花のように。
その日の夕方。
第三皇子家からの遣いが訪れ、仮縫いの日取りが決まりました。
三日後。
私は再び、あの方の前に立つことになります。
自然と頬が緩むのを感じながら、私は急いで作業室へ戻りました。
仮縫い用の衣装だけでなく新しい意匠のスケッチのファイルを確かめて。
そして、まだ形になっていない無数の可能性に胸を震わせます。
あの方の美しさを、より引き出す為に。
あの方が歩む未来を、より輝かせる為に。
私は針を取ります。
布に触れます。
そして思うのです。
私は、華を彩る者。
その誇りを胸に。
これからも、この手で――
未来を縫い上げていこうと。




