大聖都 聖なる乙女の雄叫び
黒く、とろりとした液体。
光を吸い込むような深い色合いと、鼻孔をくすぐる豊潤で濃厚な香り。
その香りを吸い込んだ瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
一体、どれほどこの異世界で夢見ただろう。
醤油。
この、人類の英知の結晶とも言える調味料に、再び出会える日を。
前世で当たり前のように使っていたもの。
けれど、ここでは奇跡にも等しい存在だ。
会えて嬉しい。本当に。
「これが、其方が長らく欲しいと願っていたエルディランド特産の調味料か?」
「はい。醤油、と言います。大豆を微生物の力で熟成加工したもので、料理の味を引き立てるのにこれ以上の調味料は他にない、と言えるくらいの品です」
言葉に力がこもるのを、自分でも自覚していた。
私はザーフトラク様と並び、朝一番で届いたエルディランド――ホワンディオ大王様からの贈り物を確かめている。
封を開けた瞬間、ふわりと広がった懐かしい香り。
思わず目を閉じそうになったほどだ。
「確かに濃密な味わいだな。このまま単体で使うだけでなく、薄めたり他の……酢などと混ぜると面白い味になりそうだ」
「流石、ザーフトラク様。
この醤油の一番の力は、火を入れても他のものと混ぜても味わいが変わらず、むしろ引き立つところです。
醤油があれば、今まで作ってきた料理も味わいがぐっと広がります」
昨晩の舞踏会を終えた翌朝。
私はドレスを脱ぎ、コックコートに着替え、厨房に立っている。
皇女が料理をするのか、と眉をひそめる付き人は多い。
だが、ここは私の存在意義。
断固、無視。
包丁を握ると、余計な雑音が消えていく。
私は料理をしている時が、一番、私でいられる。
「マリカ姫、どういうメニューで行く予定かな?」
今回の旅のメイン料理人は、もちろん皇王陛下の料理人、ザーフトラク様。
これまでの料理は大抵お任せできる。
けれど、醤油を使った和食風メニューは本邦初公開。
ここは私が、きちんとお見せしたい。
――あ、そうそう。
皇女になった私に敬語を使うと最初は言い張っていたザーフトラク様に、調理場では話しづらいので止めて欲しいと半ば命令でお願いしたのは私だ。
妥協案で『姫』呼び。
後は今まで通り。
……姫って柄では全然ないから、正直むずがゆいのだけれど。
「せっかくなので、この醤油を使った料理をメインにします」
昼餐の主賓、ホワンディオ大王様はご高齢。
濃すぎる味はお好みではないだろう。
春は意外と野菜が少ない季節だ。
精霊術でチルド保存していても、パータト(ジャガイモ)やシャロ(玉ねぎ)のような保存の利くもの以外は難しい。
特に緑の野菜は壊滅的。使えるのはキャベツもどきのサーシュラくらい。
だからこそ、肉料理と保存野菜を軸に、和風会席『もどき』を組み立てる。
「メインはお魚。良い鯛を出発直前にトランスヴァール領から持ってきて貰っていますので、それを主にしたいと思います」
前菜は、生ハムとシャロ、ワカメの酢の物。
蕪と鳥肉の煮物。
スープは昆布でだしを取った鯛の潮汁。
まだ鰹節は無理。
けれど、トランスヴァール伯爵領の協力で昆布とワカメ、そして寒天が使えるようになったことは、本当に大きい。
海の恵み。
それだけで、世界が広がる。
メインは鯛の塩焼きと、イノシシの生姜焼きを味付け薄めで。
茶碗蒸しには鶏肉と魚のすり身で作ったかまぼこ風の練り物を入れる。
飾り切りのキャロ(ニンジン)と、秋に見つけた銀杏。
デザートは小さく切ったパウンドケーキと琥珀糖。
さらに、サフィーレやオランジュの砂糖煮を入れた九龍球もどきを。
琥珀糖と九龍球は、学童保育の調理体験でやって大人気だった。
あの時の子ども達の歓声が、今も耳に残っている。
簡単で、見た目も楽しい。
だからこそ、こういう場でも使えると思う。
午餐に来るプラーミァもほぼ同じ構成でいく。
ただし若く活気ある国王に合わせて、煮物をイノシシの角煮に変更。
鯛の塩焼きは天ぷらに。
菊花蕪は酢の物にして前菜へ。
メインは生姜焼き風味のチキンソテー。
刺身は……まだ生魚に抵抗が在る人が多いだろうから宴席に出すには冒険が過ぎる。今回は見送り。
和食会席に生姜焼きや九龍球?
だから『もどき』だってば。
「昆布は軽く拭いてから水に浸します。
茶碗蒸しや煮物、汁物にも使うので多めに、ですね」
「こちらのカンテン、ワカメも水戻しが必要だな」
「はい、お願いします。あと、プラーミァから果物が届いているので九龍球にはそれも入れようかと。
ナバナ、ヴェリココ。それからサフィーレとオランジュ、ピアンの甘煮を冷凍していたものを解凍して入れれば美味しいかな、と」
「了解だ」
二人で、静かに、しかし確実に調理を進める。
来賓用は最大六人。
二人+下ごしらえ兼火の番+後片付け担当で十分だからね。
余った材料で賄いも作る。
念願の醤油と米酒。
それだけで、胸が弾む。
生姜焼きや豚の角煮は、向こうでの大好物だった。
みりんがないのは残念。
でも、なんとかする。
料理は工夫だ。
知恵だ。
積み重ねだ。
そして――生きる証なのだから。
「ところで、昨日の舞踏会は楽しかったかな? 姫君」
ザーフトラク様が、湯気の立つ鍋の向こうから、ふっと視線を寄越した。
その声音は軽いが、目は笑っていない。
あくまで確認。世間の噂をどう受け止めているか、探っているのだ。
「楽しいなんて思っている余裕ありませんでしたよ。
ダンスに必死で、国賓の方々に失礼が無いか必死で……」
私は包丁を握る手に力を込める。
蕪に細かく切れ目を入れ、花弁を開かせる菊花蕪。
飾り切りのキャロ。
一つ一つ、集中して整える。
包丁の感触は裏切らない。
人の思惑より、ずっと誠実だ。
「そうか? 皆が『姫君は勇者の転生をダンス一つで虜にした』と噂していたが?
「ええっ?」
だから、動揺が直ぐに出る。指先が一瞬狂い、ニンジンの花びらが欠けた。
……菊花蕪じゃなくて良かった。
「なんでいきなりそんな話になるんですか?」
「求婚された、と聞いたが?」
「違います! 求婚じゃなくて求愛です! ……っていうか、それもよく意味わかんないですけど!」
イングヴェリア(生姜)を擦りながら、私はむっとする。
ザーフトラク様は面白がっているわけではない。
むしろ案じている。
つまり――この話は、もう使用人全体に広がっているってことだ。
下手をすれば、他国にも。
「一回ダンスを踊っただけなのに、なんでそんな話になるのか……」
「神殿が最新の『乙女』を取り込みたかろうから、一番手っ取り早い方法に出たのかもしれんな。
それを抜きにしても、姫が魅力的だったということだろう。
勇者の転生が、醜聞も人目も構わず動くくらいには」
「止めて下さい。ただお話しただけですってば……っていうか、昨日の舞踏会から気になってはいたんですけど」
私は、ふと手を止める。
昨日、何度も耳にした言葉。
『乙女』
「その『乙女』って何です?
アーヴェントルクのアンヌティーレ様のことだっていうのは分かりますけど……」
アンヌティーレ様は『乙女』だ。
それは間違いない。でも時に『乙女達』と言われたり、私の事も指していたようで。
最後の神官長の儀式で私も正式に『乙女』になったぽい?
「知らぬのか? 其方のことだ。マリカ姫。
最新、最年少、神官長の祝福を与えられた『聖なる乙女』よ」
「へっ?」
意味が解らない。
目を見開く私にザーフトラク様は、本当に知らなかったのか、と少し驚いたように眉を上げ説明して下さる。
「王家に生まれた未婚の姫君の事を『聖なる乙女』と呼称する。
七精霊の子孫であることで、精霊との親和性が特に高く、存在するだけで精霊の恵み、祝福を国に与えると言われているな。
昔は祈りによって、人の命を救い、キズを癒したとも伝えられている。
神殿での祭事、式典も乙女がいれば乙女が行う。
『神』に祈りと力が届きやすいのだとか。
だが不老不死以前から王家に産まれるのは男児が多く、姫君がいたのはプラーミァとアーヴェントルクだけだった。
その後五百年、子どもそのものも王家には全く生まれなかったしな」
プラーミァのティラトリーツェ様が結婚により『乙女』でなくなってからはアーヴェントルクのアンヌティーレ様が唯一の『乙女』となった。
神殿からの要望もあり、アンヌティーレ様は神殿の『乙女』となり今、国だけではなく大神殿の儀式でも乞われて舞ったり、歌を捧げたりしておられるそうだ。
我々一般人は大神殿や神殿での祭事など見る機会はないがな、とザーフトラク様は言うけれど……
「ってことは、今の『乙女』はアンヌティーレ様と…」
「其方、後はレヴィ―ナ皇女の三人だ。まあ、生後数か月のレヴィ―ナ皇女に式に出ろと言うのはできぬ話。
故に今後『乙女』として、少なくともアルケディウスの式典を司るのは其方になるだろう」
「え? どうしてそんな話になるんですか?」
「昔からのしきたりだからな。仕方あるまい」
そう言えば、ティラトリーツェ様も前にそんなことおっしゃってたっけ?
うわー、どうしよう。
私は本当は皇家の血なんて継いでないのに。
でも、この世界にも聖女とか、回復魔法の使い手とかがいたんだ。
不老不死世界では無用の長物だろうけど。
「其方が本当に、勇者の転生に何もしていない、というのであれば大神殿が、新しい『聖なる乙女』を取り込むために勇者の転生に命じて懐柔させようとした、という所かもしれぬな。
儀式の度にアーヴェントルクの『乙女』を呼び出すのも面倒だから、新しい『乙女』を囲いたい、という思いもあるであろうし…」
「其方が勇者の転生に何もしていないのなら、大神殿が新たな『聖なる乙女』を取り込もうと勇者を動かした可能性もあるな。
毎度アーヴェントルクから呼ぶのも面倒だろう」
ぞわり、と背中が冷える。
「イヤです。アルケディウスを出て大神殿住まいなんて、絶対イヤ!」
そんな事になったら魔王城にも戻れなくなっちゃう。
っていうか、魔王が神殿に入って巫女をするとか冗談じゃない。
あの後、身体の変化は全くなく、フェイとアルに一応診察して貰ったけれど
「あの時のような異物の気配はありませんね。本当に何か入れられたのですか?」
「対して変わらないように見えるけど…ううん、わかんねえ!」
異常がない、という事は身体の中に変なものが入っていたとしても解らないという事で、ある意味凄く怖いけれど。
儀式の時の変な光、発信機とかじゃないといいなあ。
ホントに心配だ。
私、魔王城に戻っても大丈夫なのだろうか?
リオンは
「…今のところは心配しても仕方ない。
もう、相手の出方を待つしかないんだ」
と渋い顔だったけれど。
大神官長の登場後、リオンはなんだか考え込んでいる様子。
偽勇者などもう眼中に入ってないっぽい。
「まあ、其方が厭うなら皇王陛下達も無理強いはすまいよ。
あくまでも『乙女』の意志が最優先される。プラーミァはティラトリーツェ様の望みを聞いてアルケディウスへの嫁入りを許したわけだしな」
アーヴェントルクのように大神殿のご機嫌を取ろうとして、私を神殿に入れるという可能性も国によってはあったかと思うとゾッとする。
皇王陛下や皇王妃様、皇子達はそんなことはきっとしないでくれる。
と確信できる程度には、私も皇家の方々を信じているけれど…。
でも話の流れと『乙女』の役割的に私が偽勇者の求愛を受けても恋愛はできなさそうなのにいいのかな?
そんな雑談をしているうちに料理も仕上がってきた。
「そろそろ料理ができる。盛り付けはどのように? 姫君?」
「マルコさん程では無いですけど、なるべく綺麗に、見栄え良く盛り付けられるといいですね。
花形に切ったリューベ(蕪)は煮崩れしないようにそっと…」
そろそろ昼間際、最後の盛り付けに取り掛かり始めた正に、ラストスパート追い込み中。
「姫様。お仕事中、失礼いたします」
厨房の入り口から私を呼ぶ声がした。
「ミュールズさん? っと入ってこないで。今、私が行くから」
厨房に、外からそのままの服の人を入れない。それは私が調理実習を始めるようになってから徹底している事だ。
見学なら最低でも手を洗い、着替えをして靴を履き替えて貰う。
「盛り付けは?」
「なるべく綺麗に。見栄え良く。
花形のリューベは煮崩れしないように……」
最後の追い込みに集中すしないと。
その時。
「姫様。お仕事中、失礼いたします」
入口から声がした。
「ミュールズさん? 入らないで。今行く」
厨房は聖域。衛生第一だ。
外の靴は入れないし、入って貰っては困るから。
「何? 忙しいんだけど」
「大神殿から使者が……」
「うわー、本当に姫君が料理をなさっているんですね?」
気が付けばミュールズさんの後ろから緑色のくりくりとした丸い目を輝かせた男の子が立っている。
七~八歳くらいかな?
エリセやアーサー達と同じくらいに思う。
なんとなく見覚えがあるのは、昨日神官長の後ろにいた小姓の一人だからだ。
多分。
「貴方はどなた?」
「僕は大神殿に仕える小姓、エレシウス。
聖なる乙女に勇者からの文を預かって来ました」
子どもっぽさを宿した瞳から、使者の態度へ。
なんかもう。嫌な予感しかしない。
私は差し出された文に視線を落とす。
「『麗しの宵闇の乙女。
貴女を思い、眠れぬまま、夜の訪れを今日も待っています。
どうか、僕にどうか夢の続きを賜らんことを…?』
ナニこれ? どういう意味?」
できそこないの和歌みたい。
…なんとなく解らなくもないけど、解りたくない。
「要するに恋文ですよ。もう一度お会いしたい、というお誘いですね。
姫を思って夜も眠れないし、同じ大聖都にいられる時間は限られている。
とにかく早急にということなので、お返事を賜りたくお忙しい中、無理を押して面会をお願いしました」
ぷちん、と何かが切れる音がする。
昨日の今日で?
あれだけ断って?
相手の都合は?
国賓の立場は?
神殿の思惑は?
全部ひっくるめて。
「ふざけるなあーー! この忙しい時にーー!」
私の絶叫は厨房のみならず、アルケディウス居室全体に響き渡った……らしい。
「姫様!」
ミュールズさんが私の声に眉根を上げる。
そうして私は怒られた。
はしたない。貴族、皇族の女性はもっと優雅に。と。
無礼な返事にも礼節と余裕を持って返すものらしい。
解せぬ。
私は貴族語で簡潔に書いてお返事する。
『多忙につき、面会不可。ご容赦願います』
やれやれ。
本当に嫌いになっちゃうよ。
エリクス君。




