魔王城 精霊の贈り物
ぬるぬると、ナメクジのような舌が口の中を這いまわる。
逃げても、逃げても絡めとられ、身動きのできない私の声にならない悲鳴は、生臭い唇に飲み込まれてしまう。
口腔に滲む、鉄の味。
――いやだ、イヤだ……嫌だ!!
悲鳴と共に、私は跳び起きた。
……良かった。夢だった。
――いや、夢じゃないけれど。
私は唇を手で擦りながら、込み上がってくる吐き気を、必死で飲み込んでいた。
大祭明けの夜の日。
安息日の朝。
「はい、皆にお土産よ」
ティラトリーツェ様は、集まった子ども達の前で、ミーティラ様と抱えてきた大きな包みを広げて見せた。
「うわあ~~!」
城の子ども達の目が、驚くほどにキラキラと輝く。
机の上に広げられたのは、夢見るような色彩。
魔王城では本当に目にすることの難しい、色とりどりの布、そして服だった。
「前に約束した時は、なんだかんだで忙しくて、持ってきそびれたので。
あの頃より、少し増えましたよ」
「布は嵩張る上にこの量、ですからね。重かったです」
「お疲れさまでした。ミーティラ様」
私は、コツコツと自分の肩を叩くミーティラ様に、心からの思いで礼を言った。
「布類は、魔王城ではどうしても手に入らないものなので助かります」
「これから冬になりますからね。あるに越したことはないでしょう?」
「はい。大祭で少しだけ防寒具も買い足しましたけど、まだまだ足りないので」
ティラトリーツェ様は、孤児院の子ども達のサイズを参考に、ジャックやリュウ達用の子ども服も用意して下さっていた。
本当に、本当に手が回らないところだったので、助かる。
「後は、これね。ティーナ。
貴女と、子にも必要でしょう?」
「私に、ですか?」
そう言って差し出されたのは、さらに一回り小さい子ども服と、柔らかな子ども用の靴。
それから、暖かいショールなどの類だった。
「これから生まれてくる子への見本、と言って作らせているの。
役に立ちそうなら使ってちょうだい」
「なんという……もったいないお言葉にお気遣い。
私のような者にお声かけ下さる、それだけでも感謝の念に絶えませんのに……」
「自分を卑下してはいけません。
貴女は不老不死世界に数少ない、愛をもって子を産み、育てている真実の『母』なのですから。
私も、もう見ての通りですから、出産に纏わること――特に産前産後の注意点などを、色々と教えて欲しいのだけれど」
「私などでお役に立つのなら、喜んで」
そんな会話が、穏やかに続く。
ティラトリーツェ様のお腹は、もうかなり大きくなっていた。
概算だけれど、八か月くらいだろうか。
出産直前の不安もあり、一番出産の記憶が新しいティーナに話を聞きたいと、今日は魔王城を訪れているのだ。
「ホントにいいの? 貰って。
マリカ姉?」
シュウが、嬉しそうに自分の分に割り振られた服を見つめている。
今までは、私がギフトで作った服しか着せてこなかったから、ちゃんと仕立てられた服に、目がきらきらだ。
服や裁縫類……シュウは、そういうものにも興味があるのかな。
「うん。ティラトリーツェ様からのプレゼントだから、お礼を言って大事にして。
あ、あと、着替えてこようか? 皆のお洋服、着ているところを見せてあげよう!」
「はーい」「わーい!」
「ちょっと、待って。ここじゃなくて、隣のガルフの家で!」
「わかった~」「まっててねー」
この場で服を脱ぎ始めそうになった子ども達を、私は慌てて止め、隣の家を指さす。
子ども達は頷いて、三々五々、走っていった。
街に用意した来訪者の家は二軒。
ここはティーナの為に用意した家で、リグを出産した場所でもある。
分娩用に用意した台やベッドもまだ残っているため、ティーナはそれらをどう使ったかを説明しながら、出産の話をしているようだ。
真剣な表情で耳を傾けるティラトリーツェ様。
今は……たぶん、私はお邪魔。
後で質問を受けたら、答えよう。うん。
「私、子ども達の着替え、見て来ますね」
くい、と口元を手で拭って、私は隣の家へ向かった。
ティラトリーツェ様とミーティラ様が、心配そうに私の背を見ていたことにも気付かずに。
「どうですか? みんな、凄く可愛いでしょう?」
新しい服に着替え、少し照れた笑みを浮かべる子ども達を、私は誇らしげに示す。
我ながら、ドヤ顔だと思う。
服を用意して下さったのはティラトリーツェ様で、私が自慢する筋合いじゃないと分かってはいるけれど……嬉しいんだもん。
「本当。とても良く似合っているわ」
「まるで、美しく開いた花のよう。子どもという存在の美しさを実感しますね」
「皆さま、とても素敵ですわ」
サイズの合った冬服に身を包んだ子ども達は、本当に愛らしい。
シャツにズボン、上着にマフラー、帽子。
色合いも鮮やかで、咲いた花のようだ。
「ティラ様、すてきなお洋服ありがとう!」
「とってもあったかいよ♪」
「喜んでもらえて嬉しいわ。大事にしてね」
「うん!」
ティラトリーツェ様の足元に寄ったジャックとリュウが、もじもじしている。
……あ、そうか。
多分、ティラトリーツェ様も気付いたのだろう。
膝をついて視線を合わせ、二人の手を取り、そっと自分のお腹に触れさせた。
「気遣ってくれてありがとう。
そう、もうすぐ、この子も産まれてくるの」
「おとーと? いもーと?」
「まだ、分からないわ。
しばらくは島にも来られないかもしれないけれど、次に来る時は、多分この子と一緒。
その時は、仲良くしてあげてね」
「うん!」「まってる」「あ、いま。とくん、ってした!」
「お兄ちゃん達に会えて、嬉しかったのかもしれないわね」
そう言って、二人をぎゅっと抱きしめた。
最年少のジャックとリュウ。
厳しい魔王城の生活の中で育ったから、歳の割に聞き分けがいい。
大好きな大人の女性。甘えたい、遊んでほしい。
でも、ティラトリーツェ様は別の子のお母さん。
ティーナの時のことを知っているから、余計に言い出せなかったのだろう。
その気持ちを汲み取り、受け止めたティラトリーツェ様。
生意気な言い方だけれど、『お母さん』になるために一番大切なことを、ちゃんと分かっていると思う。
「大好きよ。春まで元気でいてね」
「うん」
『お母さん』の腕の中で、二人は幸せそうに目を閉じ、優しさに甘えていた。
その後は、今年最後になるだろう魔王城の森での外遊びを、皆で楽しんだ。
お昼ご飯は、キノコたっぷりのクリームパスタ。
今までは毒キノコが心配で食べられなかったけれど、今年はジョイがいる。
危険植物の選別は出来ていると思う。
しいたけ、なめこ、エノキ、そして立派なマイタケ。
向こうでは白いエノキしか知らなかったけれど、野生のエノキは、もやしのような姿ではなく、力強く『キノコ』らしい。
マンガで知識がなければ、きっと見分けがつかなかった。
そして――新鮮なキノコは、超絶美味しい。
「ほらほら、口元が真っ白。髭が生えていますよ」
顔中をクリームだらけにして食べるギルの口元を、ミーティラ様が拭っている。
その光景を見て、私は思った。
ミーティラ様も、きっといいお母さんになる。
子どもを幸せにするには、お母さんも幸せでなくてはならない。
お母さんが、出産によって不幸になったと思えば、子どもも幸せになれない。
今度の法律で、子ども達は少し守られるようになった。
これからは、女性保護、母親保護も考えていけないだろうか。
この世界では、乱暴や一方的な意思によって傷つき、子を宿す女性が、きっと少なくない。
蘇った記憶に、唇が悪夢を思い出す。
私は強く、指で擦った。
――知識もなく、愛もない出産は、母と子を不幸にする。
孤児院を、行き場のない女性の駆け込み寺にできたら……。
それは、これからの課題だ。
「マリカ」
「あ、はい。ミーティラ様」
考え込んでいた私の顔を覗き込み、右手を掴むミーティラ様の声で、はっと我に返る。
「唇を擦り過ぎです。血が出ていますよ」
「え?」
見れば、本当に指先に血が付いていた。
……いつの間に。
「ほら、これで拭いて」
ミーティラ様は、真っ白なハンカチを水で濡らし、惜しげもなく差し出してくれる。
「大丈夫です。ハンカチが汚れます」
「子どもが、変な遠慮をしない。
ハンカチなど、また買えばいいのです」
首を振る私の口元を、ミーティラ様は気にせず、すっと拭った。
「っ……」
水が唇に染みる。
本当に、随分と荒れていたようだ。
「気にするな、と言っても無理でしょうが……獣に噛まれたと思って忘れなさい。
あんな男。其方が気にする価値もありません」
「……はい」
その言葉で、私は思い出した。
自分が、逃げていたことを。
そこから先のことは、正直よく覚えていない。
笑顔で二人を送り、子ども達を無事に城へ戻し、寝かしつけられていたのなら――それで、いい。
深夜。
私は部屋を出て、二階のバルコニーから外を見ていた。
今は、なんとなく眠りたくはなかったから。
寝たら、またあの夢を見そうで怖かった。
私のファーストキスは、最低最悪の男に奪われてしまった。
ファーストキスはレモンの味、なんていう古い言葉を信じているわけでは無かったけれど。
私だって一応、転生前も後も性別女を自称している以上、初恋とか、ファーストキスというものに人並みの夢は持っていた。
残念ながら向こうでは恋愛するような余裕が、全く、もう、ほんとうにどうしようもなく無かったから――その夢は夢のまま、こちらへ持ち越されてしまったのだけれど。
まさか。
初体験があんな、最低最悪のナメクジ味になるなんて……。
思い出すだけで、唇を取り外して投げ捨ててしまいたくなる。
身体を奪われる可能性さえあったのだから、唇だけで済んだのは僥倖というべきなのだろうけれど、もちろんそんなふうには思えない。
女の唇というのは、心に直結しているのだと思う。
忘れろとミーティラ様には言われたけど、多分、無理だ。
仕事や、他の事に夢中になっている時は忘れられる。
けれど、ふとした時。
例えば鏡を見る度。
何かを食べる度。
話をする度。
唇が動く度。
そのたびに、あの日の悪夢が喉元まで這い上がってくる。
ぬるりとしたナメクジが、口内を這い回る感覚が蘇る。
本格的に思い出すともう、ダメだ。
頭もまともに働かない。
ドロドロと泥にまみれていくみたいに、身体が重くなって動けなくなる。
「……もう、イヤだよ。誰か、助けて……」
誰かの顔を思い浮かべて発したSOS、では無かった。
ただ、本当に押しつぶされそうな苦しみに、吐息が零れただけ。
その時。
「マリカ」
「リオン……」
私を呼ぶ声に気付いて振り返ると、その先にリオンがいた。
大祭後の後始末で忙しくて、今日も帰ってこないと言っていたのに。
リオンは何も言わず、まっすぐにこちらへ歩いて来た。
そして、ぼんやりしていた私の手首を、ぎゅっと握った。
「きゃっ」
そのまま身体が宙を舞うようにひらりと引き寄せられ、リオンの胸元に収まる。
逃がさない、というように強く抱きすくめられて。
逃げるつもりは無かったのに、
私の視線は、リオンから離れなくなった。
額と額が触れた。
それほど近い距離で覗き込む漆黒の双眸。
瞳の奥に映っているのは、私だけだと分かる。
逆に言えば、私もリオン以外のものを見られない。
視線を惑うように揺らしながらも、強い意思で私を見つめる顔がすぐそこにあって、
身体も心も、目を逸らすことを許してくれない。
「マリカ……」
まだ高さの残る少年のソプラノが、私の名を呼ぶ。
「口づけても……いいか?」
「えっ……」
「お前の、意思に沿わないことはしたくない。だから嫌なら断ってくれ」
あくまで私を気遣う優しい声。
けれど、その優しさの奥に、壊れそうなほどの怯えが見える。
拒絶されることへの恐怖。
黒い瞳に露のように宿るそれは、いつも強い眼差しで私達を導く兄にして勇者の面影を消し去り、
ただの――一人の少年を、そこに立たせていた。
「ダメだよ。リオン。
この世界ではどうか解らないけど、キス……口づけは大事な人とするものでしょ」
チクリ。
自分の言葉が、自分の胸を刺した。
奪われた、私の初めて。
大切な誰かにあげたかった大事なものは、もう無い。
「こっちだって同じだ。口づけは最大の信頼と愛の証。
だからこそ、……俺は、お前とそうしたいんだ。
お前は、マリカは……嫌なのか?」
リオンの顔が、さらに近付く。
手練手管も無い、真っ直ぐで純粋な想いが、逃げ道を塞ぐ。
――そんな言い方はずるい。
嫌なはずなんて、ないのだから。
「嫌じゃないよ。
でも、私、今、ぐちゃぐちゃなの……。
大事なものを盗られて……苦しくて、誰かに縋りつきたくて……
汚くて、ぬるぬるしてて……。
……今、甘えたら綺麗なリオンを汚しちゃう……、だから……!」
必死に背けた頬に触れた手が、くい、と私の顔を引き戻した。
その瞬間。
「俺の始めてを……やる」
「――っ!」
リオンは、私の唇に自分の唇を触れ合わせた。
思わず見開いた眼に映るリオンの瞳は閉じられていて、
行動の大胆さとは裏腹に、空気は静かだった。
まるで、神聖な何かを贈る儀式のように。
神妙な気配が、触れ合った唇の間に宿っている。
と同時に。
リオンの唇に触れた私の唇が、不思議な熱を帯び始めた。
背中を、ぞくぞくと何かが駆け上がっていく。
その正体は分からない。
ただ、初めての時の、ただただ気持ち悪いだけの悪寒とは違う。
違うものだと、それだけは分かった。
触れられるだけ。重ねられるだけの優しい口づけ。
けれど注ぎ込まれた何かは、甘く、まるで身体の奥まで染みとおるように、私の心と身体を痺れさせた。
かくん、と膝が崩れ、ぺたん、と床に触れる。
衝撃がないのは、リオンが支えてくれたからなのか、
それとも、リオンも一緒に膝をついたからなのか――分からない。
私がリオンなのか、リオンが私なのか。
分からないくらいに意識が絡み合う。
頭も身体も溶けてしまいそうなのに、不思議なほどに、すべてがクリアになる。
周囲のすべて、星のすべて、空気のすべてを、身体全体で感じ取ってしまう。
風の調べ。
木々の囁き。
月光の歌声。
そんなものまで、聞こえてきそうで――。
どのくらい、そうしていたのだろう。
「俺は、お前を守ると誓った」
我に返ったのは、触れていたはずの唇が静かに離れ、
リオンが、そう決意を紡いだ時だった。
呆然とする私の前髪と、リオンの前髪が交差する。
「俺の全てはお前のものだ。
お前が汚れるというのなら、その前に、俺が穢れる。
だから……」
そこで私は気付いた。
リオンは、きっと知ったのだ。
私が誘拐された時、辱められたこと。
身体こそ守ったけれど、唇を奪われたこと。
だから――慰めに、ううん、助けに来てくれたのだ、と。
「………リオン」
「-!」
今度は私が、リオンの唇に唇を重ねた。
手をリオンの肩へくるりと回し、抱きしめるように。
リオンの手が一瞬、驚きに戦慄いた後、私の背中へ回った。
今度は、はっきりと分かる。
重なる心臓の音。
合わせられた唇から伝わる、リオンの想いの味が。
リオンを想う、私の味が。
それは本当に甘くて、どこかほんのり酸っぱい――レモンのような爽やかさ。
ずっと味わっていたくなるような幸せで、優しい気持ちになれる……味だった。
「ありがとう。リオン」
その味わいを十分に堪能した私は、手と唇を離し、リオンを見つめる。
大切で、大好きな、私の勇者。
彼が、私に大切な口づけをくれるくらい、
心からの信頼の証を贈ってくれるくらい――私を信じてくれるのなら。
私も、頑張ろうと思える。
うん。
ナメクジなんかに、いつまでも想いを盗られてなんかいられない。
「うん、頼りにしてるから。これからも私を守って。
私の騎士、私の精霊の獣」
「ああ、二度とお前を邪悪に触れさせたりしない。
必ず、絶対に、守ってやるから」
立ち上がり、私の手を引いて立ち上がらせてくれたリオンが、
三度目のキスを、頬に落とした。
ぽっ、と急に顔が熱を帯びる。
まるで燃え上がるみたいに。
今まで、もっと凄い事をしてたのに、なんで?
「マリカ?」
「な、なんでもない。行こう!
明日から、また王都に戻れば忙しくなるし」
「そうだな。俺も、直ぐ向こうに戻らないといけないし……」
「ごめんね。忙しいのに心配して来てくれたんだ」
「気にするな。フェイもライオも、お前が無理してないかって気にしてたんだぞ」
「もう、大丈夫」
熱を宿した頬を両手で隠して、私はリオンと並んで歩いていく。
口の中に残されたのは、甘く、酸っぱいリオンの想いと、キスの味。
ナメクジの生臭さは、もう綺麗さっぱり消え失せていた。
本当に頭も冴えて、元気全開。
明日から、また頑張ろう!
『精霊 アルフィリーガ 第三封印、解除…。
精霊 エルトリンデ 第四封印、解除…。
例え、強制せずとも、お二人は星の望む道を進んでいくのですね。
これも、宿命…でございましょうか』




