王都 皇国の宮廷魔術師
それは、まるで氷になったかのようだった。
どれほど呼びかけても、何の反応も返してはくれない。
何故だ?
何故だ何故だ何故だ!
こんなにも必死に呼びかけているのに。
今まで、確かに応えてくれていたのに。
私は歯を食いしばり、さらに力と意志を注ぎ込む。
今までやってきた通りに。
今までと同じに、いや、それ以上に真剣に。
術式も、詠唱も、意志の向け方も――何一つ変えてはいない。
変えた覚えなど、どこにも無い。
なのに、何故……!
苛立ちと焦燥に突き動かされるように、私は杖を壁へと叩き付けた。
乾いた音を立てて床を転がる杖は、まるで魂を失ったかのように沈黙したまま、何の反応も示さない。
頭の中では、理解している。
『時』来たのだ、と。
不老不死を得てから三十年。
かつて自分が見送ってきた数多の魔術師たちと同じように、自分もまた、この杖から力を借りることが出来なくなったのだ。
でも――イヤだ。
御免だ!
今まで魔術師として崇められ、畏敬と尊重を受けて生きてきた自分が、ただの人間に成り下がるなど。
無力な存在として、地面に這いつくばり、力仕事にこの身をやつすなど。
そんな未来、認められるはずがない。
ならば、方法は一つしかない。
新しい杖を手に入れること。
この杖が役目を終えたのなら、より力ある新たな杖を得ればいい。
新しい、もっと強大な杖ならば、きっと私に応えてくれる。
私を、再び魔術師として立たせてくれる。
大丈夫だ。
その目星は、もうついている。
私は積み重ねられた羊皮紙の中から、一枚を選び取り、指先でなぞった。
大丈夫だ。
新しい杖は、きっと私を選ぶ。
私は――精霊に愛された魔術師なのだから。
◇◇◇
「この魚料理、というのは、とても素晴らしいわね。
色も爽やかな青色で、とてもキレイ」
満足そうにフォークを進める皇王妃様の様子に、私は胸の内でほっと息を吐いた。
どうやら魚や海産物は、皇室でも問題なく受け入れてもらえそうだ。
「ありがとうございます」
「オー・ブルーという料理で、新鮮な魚でしか作れないものです。
魚を野菜のブイヨンで特別に煮立て、卵を使ったソースをかけました」
今朝、フェイが朝一番で持ってきてくれた魚の中に、見事な鯖があった。
今回はそれを使ってみたのだ。
サンマや鯵も捨てがたいが、鯖は特に足が早い。
この料理に仕立てると、身の青が際立ち、見た目にも美しい。
「新鮮な魚、というのは、そんなに簡単に手に入るものなのですか?
トランスヴァール領は、徒歩で三日はかかりますよ?」
第一皇子妃アドラクィーレ様が目を見開く。
ここは昨日の皇子のサロンと同じ言い訳で押し通すしかない。
「それは……トランスヴァール伯爵家と、当方の魔術師の輸送技術で特別に。
当面、魚がお入用の際は当店にお問い合わせ下さい」
「ゲシュマック商会の魔術師……確か、最初の時に会った銀髪の少年ですね?
風の術が得意と聞いています」
続く言葉に、私は内心で身構えた。
「魔術を料理や食品管理に使っていると聞いて、勿体ないことをしていると思ったものですが……。
魔術師の力というのは、もっと高尚で、大事に使うべきものではないのですか?」
アドラクィーレ様の瞳が、鈍く光る。
まるで獲物を値踏みする獣のような視線だった。
――やっぱり。
貴族の間でフェイが噂になっている、という話は事実らしい。
「やはり噂通り、ゲシュマック商会は良い魔術師を抱えているようですね。
今度ぜひ、紹介してほしいものだけれど……王宮でも魔術師の人手不足は深刻なのです」
皇王妃様の視線はそこまで鋭くはないが、声には切実さが滲んでいた。
「優れた魔術師がいれば、地方や諸国への移動や伝達も楽になります。
ですが最近は、転移の門を開くこともままならない術士が多くて。
火事や事故の際も、魔術師がいるのといないのとでは、被害の広がりがまったく違うのです」
「王宮にも魔術師がおいででは?」
「魔術師の能力寿命は、そう長くはありません。
彼女ももう城に入って三十年。
そろそろ引退を考えている、という話を聞いています」
彼女。
――女性だったんだ。
プライドが高いと聞いていたから、勝手に男性だと思い込んでいた。
「今、来週に行われる文官試験を受けるため、最後の追い込み中なのです。
もし試験に合格すれば、皇王妃様や皆様に御拝謁の機会も叶うかと」
「そうね。その時を楽しみにしています」
そんな会話を交わし、王宮への午餐用魚の納入の話をまとめ、来週の打ち合わせを終えて調理実習は終了した。
仕事を終え、裏玄関へ向かおうとしたその時。
「そこの娘、お待ちなさい」
「え?」
若い女性の声に呼び止められる。
振り返ると、そこにはひと目で分かるほど華やかな女性が立っていた。
金髪の豪奢な縦ロール。
深い夏の森を思わせる碧色の瞳。
見事なまでの均整の取れた体つき。
年の頃は十八から二十といったところか。
紫色の美しい刺繍が施されたローブ。
そして手には、精霊石の付いた杖。
――わかりやすい。
わかりやす過ぎるほどだ。
この人が、先ほど話題に上った王宮魔術師。
「其方は、噂に聞くゲシュマック商会の娘ですね」
「はい。マリカと申します。
魔術師様には、ご機嫌麗しゅう」
私は足を止め、深々と頭を下げた。
下位者から上位者へ向けた、初対面の正式な挨拶。
その態度に満足したのか、彼女はわずかに口元を緩め、杖と顎で廊下の奥を示す。
「少し、聞きたいことがあります。こちらへ」
一瞬、考える。
王宮魔術師は貴族待遇だろうが、絶対に従わなければならない義務はない。
けれど、来週の試験を控えるフェイのためにも、王宮魔術師の実情を知っておくのは悪くない。
情報収集は大事だ。
「解りました。
風の刻までには店に戻らなければなりませんので、少しの間でよろしければ」
「構いません。送迎の馬車の御者には、私から伝えておきます」
促されるまま廊下を進み、案内された部屋は一目で文官の執務室と分かる造りだった。
豪奢ではあるが、王宮の他の部屋ではあまり見ないほど本棚が壁一面に作り付けられている。
大きなテーブルと、そこで作業する文官たち。
一瞬こちらを見たが、すぐに仕事へと戻っていった。
机の上に積まれた羊皮紙の量が、忙しさを雄弁に物語っている。
「間もなく文官試験が始まりますから、その準備で忙しいのです。
文官試験と騎士試験は、平民が貴族・準貴族へと上がれる数少ない機会。
其方も知っているでしょう?」
「はい。うっすらとは」
「うっすらと?
随分と甘いですね」
その声音は、冷静だが鋭い。
「試験に受かるか否かで、その先の人生が左右される。
不老不死の我らにとっても、正しく命がけの選択なのですよ」
来客用のテーブルに座らされ、私は改めて彼女を見つめた。
金髪碧眼、縦ロール。
第二皇子妃メリーディエーラ様と同じく、非常に分かりやすい美貌。
だがその瞳には、確かな知性と意思、そして高いプライドが宿っている。
彼女は部下らしき人物から羊皮紙を受け取り、私と書類を交互に見た。
「先日、文官試験の願書が届きました。
文官試験には通常枠のほか、魔術を使える者の特別枠があります」
心臓がわずかに跳ねる。
「滅多にいないその枠に、今年久しぶりに申込者がありました。
興味を惹かれたのです。
ゲシュマック商会の娘。フェイというのは、其方の同僚ですか?」
「同僚というより、兄妹にございます。
無論、義理の、ではございますが」
「そうですか……。
ならば、いくつか質問に答えなさい」
――いきなりの家族面接?
ここで不用意なことを言って、フェイに迷惑をかけるわけにはいかない。
私は顔を上げた。
「……それは、ご命令ですか?」
「命令、というより事前調査です」
淡々とした声で、彼女は続ける。
「魔術師というのは、その付加価値によって試験成績が多少低くとも合格したり、高官として優遇されることがあります。
しかもゲシュマック商会の魔術師は、高位の杖を持つ高能力者として、既に貴族・皇族の間で話題です」
胸の奥がひやりとする。
「皇室騎士団の委託を受け、いくつかの事件にも関わっていると。
事実であれば、よほどのことが無い限り合格は確定でしょう。
だからこそ――王宮に怪しい人物を入れないため、身元調査は必須なのです」
理屈は理解できる。
けれど。
「魔術師様」
「ソレルティアと申します。
王宮魔術師と文官の束ねを担当する者です」
「では、ソレルティア様」
私は真っ直ぐに彼女を見据えた。
「ここで私が話すことが、フェイ……兄の合格、もしくは不合格を左右する可能性はありますか?
もしそうであるなら、兄に迷惑をかける訳には参りません」
フェイは、私が何かをしなくとも受かる実力を持っている。
それを疑われるようなことだけは、絶対に許せない。
その言葉に、彼女はふっと目元を緩めた。
「噂通り、頭の良い娘ですね。
貴方の心配も最もです」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「であるからこそ、人の多いここで話をしているのです。
ここでの会話が、試験の合否に影響しないことを誓いましょう」
「であるなら、問題ない範囲でお答えいたします」
合図に、部下らしき人物が筆記用具を構えた。
「では、応えなさい。
この皇国で、十年ぶりに出現した――魔術師の杖の持ち主について」




