荘園 蘇ったビール
宴会から一夜明けた風の日。
朝の空気は澄み、夜更けまで残っていた酒と笑いの匂いが、もう遠い記憶になりかけている。
けれど蔵の中には、確かにまだ熱が残っていた。――それは酔いではなく、五百年が動き出した熱だ。
「当面は一樽、金貨一枚ではいかがでしょうか?」
「酒の値段、としては高い、とは思うが今の世、まだ麦酒の酒造が我々しか無い事。を考えると最初はそのくらいか?
この荘園の貯金はほぼ底をついている。高値を付けて貰えるのは正直助かるな」
「この蔵では年間どの程度の麦酒の製造が可能ですか?」
「一度に醸造できる分は樽十樽ほどだ。それを時期をずらしてなるべく年間を通して新鮮なものを出荷するとなると二種を一年間で各百樽程になるか?」
「樽はこちらで自作されておられる?」
「腕のいい樽職人がいる。むしろ長期保存の酒の保存に使うガラス瓶が高くてな」
「今後は必要分を発注ください。我々が手配します」
朝からリードさんとエクトール様は商談に入っていた。
昨日、あれだけ飲んで、騒いで、笑って――それでも二人とも平然と顔色一つ変えず、指先まで確かな調子で話を組み立てていく。
商人と領主。役割に戻る切り替えが、流石だ。
まあ、ビールは二日酔いしにくいというけれど。
私は向こうでも、悪酔いする程飲んだりしなかったけれど。
ともかく話は、麦酒の買い取り金額から権利について――じわじわと核心へ深まっていく。
「麦酒の販売に関する窓口は、我が商会で構いませんか?
領主様としては領地の特産品としたい意志もお有りかと思いますが」
「構わぬ。我々に直接手を差し伸べてくくれたのは其方たちだからな。販売権は当面預けよう。
他の領地、皇族への販売窓口も任せる。
いずれ交渉し、ヴェッヒントリルが買い取るというのならそれでも良いが無下にはしてくれるなよ」
「勿論でございます」
それから輸送の話へ。
金と権利が決まれば、次は『どう運ぶか』だ。
ここで、麦酒はただの酒ではなく、武器にも餌にもなり得ると現実が顔を出す。
「一回二十樽、ですか……それだと僕とフェイ殿の転移呪文だけでは難しいかもしれませんね」
「年下ですし、子どもですから殿付けでなくてもいいですよ?」
「……本当にそう思っておられますか?」
「…… まあ、オルジュ殿がそう呼びたいとおっしゃるならご自由に」
うーん。
この二人、やっぱり微妙な関係だなあ。
杖同士はそこまで険悪にも見えなかったんだけど――術者同士は、何か引っかかるものがある。
「でも、馬車とか使うのは大変だよ。ここ距離もあるし。
輸送中、盗賊に狙われるとかありそう。味も落ちるし」
私が、半ば強引に割って入れる。
「ですが転移呪文は基本的に手に持ったものを持ち上げるくらいにしか輸送には使えません……」
「オルジュ殿は転移呪文が苦手でおられるようだ。まあ、これは杖の性質もあるので仕方のない事ですが。
でも僕も手に触れたモノを運べるくらいなので当面は二樽分くらいずつ往復して、ということになるでしょうか?
エクトール殿。僕が輸送の為に領地に魔術で入ることをお許し頂けますか?」
転移術が使える術士は、やろうと思えば泥棒も可能だ。
だからこそ、術を使うのは慎重に。相手の許可を得て行うのが基本――と、フェイは言う。
フェイがこういう所だけ急に大人びるから、余計にオルジュさんの顔が険しくなるのだ。
「いいだろう。王都の第三皇子の魔術師であるのなら店の者達と同様に信用しよう。
輸送は魔術を使い、フェイ、と申したか。魔術師。其方に預け店に直接搬入だな」
「その方が安全かと思います。魔術師もおられますのでいくらかは安心ですが、情報漏えいや情報を狙い入ってくるものにお気を付け下さい」
私がそう言うと、エクトール様は深く頷いて下さった。
頷き一つに、領主としての責任の重さが乗る。
「悪質な麦酒を作られるのは困るからな。
正当に作りたいと思い、設備投資までできているのなら教えるのもやぶさかではないが」
「その場合も、きっちりお金は取りましょう。この蔵の努力と研究は安売りしていいものではありません。
今まで、この蔵に入り、居なくなった者はいませんか?」
「……一人、いることはいるが、そいつが情報を漏らす可能性は万に一つも無いと思っている」
アーグストラムの事かな?
信頼されていたのだろう。きっと。
「では、これから入って来る者にはご注意を。必要であれば僕が身辺調査などのお手伝いも致します。
そういうことはオルジュ殿よりも僕が向いています」
「フェイ殿…」
苦虫を噛みつぶしたような顔のオルジュさん。
ホント、フェイはこういう所、子どもっぽい。――いや、子どもっぽい、というより、遠慮を知らない。
そんな二人の様子にくくと笑いを噛み殺しつつ、
「そうだな。今後に向けてその辺もしっかり考えよう」
エクトール様は確約して下さった。
私自身、まだ想像がつかない。
今まで葡萄酒しか無かった世界に『麦酒』がどう受け入れられ、どう広がっていくか。
そして広がった時、それを狙う手がどれだけ増えるのか。
場合によってはヴェッヒントリル様に護衛の軍を用意して貰うことも、考えた方がいいかもしれない。
それはもう少し先の話だろうけれど――『少し先』は、きっとあっという間だ。
「初回納入は二種を五樽ずつ。
最初の酒は第三皇子を通じ、皇王家と大貴族に納めさせて頂きます。数は三樽ずつ。
二樽は、店での確保をお許し下さい。
ここで、皇王様に献上し、正式な酒造の許可を得られるように働きかけ、
今年の新酒ができたら値段を下げて一般の民にも回す、という感じですね」
「解った」
「秋の大祭で民にお披露目するというのもいいかもしれませんね」
一樽、大体七十リットルくらいに思える。
木のジョッキ一杯を二百ミリリットルと見て、三百人分前後。
十樽なら前回と同じくらいの人数は捌けるだろう。
麦酒の復活は、きっとまた新しい伝説になる。
そして伝説は、いつだって人を動かす。
「その時にはぜひ、この目で様子を見たい。
我が蔵の五百年が実を結ぶところをぜひ目に焼き付けたいものだ」
「僕がお連れします。エクトール様」
「オルジュ殿はそれまでに転移術の練習ですね。今はまだ同行者との移動はおぼつかないでしょう?」
「解っている!」
フェイにとってもオルジュは、エリセを別にすれば初めて認められる術者。
会話も楽しそうだ。
――まあ、どこを取ってもフェイの方が上手なので、オルジュさんには気の毒ではあるのだけれど。
おおよその話が決まって後。
「マリカ、頼みがある」
エクトール様が、じっと、私を見つめた。
あの宴の笑顔とは違う、領主の眼だ。蔵の長の眼だ。
私の背筋が少し伸びる。
「なんでございましょうか?」
「麦酒に、名前を付けて貰えないか?」
「名前? でございますか?」
意図が解らず首を傾げる私に、エクトール様が頷いた。
「我らは麦酒造りだけに、専心してきた故に外の知識が足りない。
こうしてこうすれば酒ができる、ということは伝えられ、解っていても其方が言う、発酵、酵母などの名前や仕組みを完全には理解していなかった。
あのハーブ。ホップも名も知らず使っていた」
まあ、それはそうだ。
発酵の仕組みがいつから理解されたのか。顕微鏡があって、ようやく――という世界だろう。
向こうの世界でも近年の話だったはずだ。
私は、パン酵母を例にして発酵の仕組みを簡単にレクチャーした。
理由も解らず受け継ぎ、守り続けていた蔵の酵母の働きと仕組みを、エクトール様は驚いた眼で聞いていたっけ。
ホップについても、私が勝手に『ホップ』という名だと教えてしまったが、この世界での本来の名前は解らない。
足元の草一つにも名がついている向こうとは違い、役に立つと解っている植物でなければ名すら無いのかもしれない。
植物の精霊は名前を貰って喜んでいる、とフェイが言っていた。
だから、私はそのままいかせて貰うことにする。
「麦酒にもいろいろな種類があるからな。
呼び分けに名前を付けたい。何かいいアイデアはないか?」
「私がつけてよろしいのですか?」
「頼む」
リードさんと視線を交わし、許可を貰ってから私は考える。
この世界で、長らく呼ばれていく商品名。
思いつきでつけていいものではない。
ならば、最初からあるこの品の『正しい名前』が相応しい。
「私が考えた訳ではございませんが、太古、麦酒はこのように呼ばれていたと文献にはあります。
『ビール』と」
「ビール…か。悪くないな。呼びやすく覚えやすい」
「麦酒全般を『ビール』
上面発酵の味の濃いビールを『エール』
下面発酵のものを『ラガー』
と呼んではいかがでしょうか?
これも古の文献に有った正しい麦酒の名前でございます」
「醸造したものを呼ぶ名前はあったか?」
「『ウイスキー』と呼ばれていたようにございます」
ビール、エール、ラガー、ウイスキー。
エクトール様はそれらを口の中で何度も転がすようにして、ゆっくりと頷いた。
「よしそれでいこう。これ以上の名はないというくらいにしっくりくる」
悦に入った笑顔。
元々、そう呼ばれて世界に広まっていた名だからね。
きっとこの名も、再び世界に広がり、愛されていくだろう。
細々したことを決め、私達は王都に戻ることにする。
明日は調理実習。麦酒のお披露目には丁度いい。
皇王妃様もいらっしゃるはずだ。
「魔術でも戻るなら案じるも無用ではあろうが、気を付けて戻れよ」
「ありがとうございます」
城門の外まで、エクトール様だけではなく、オルジュさんも、蔵人の方達も殆どが見送りに出てくれた。
それが、何より嬉しい。
彼らにとっても『外』が今までより少し近くなった証だ。
「今後とも長いお付き合いになるかと存じます。
どうぞよろしくお願いいたします」
頭を下げるリードさんに、エクトール様は鷹揚に頷いた。
「お前達のおかげで我々は生きる喜びを取り戻した気がする。
楽しみに待つがいい。今年の麦酒 ビールは一味違うぞ」
「期待してお待ちしております」
既に初回分のビールは送ってある。
持ってきたお土産は既に使い切り、パン酵母の残りは興味を持ったエクトール様に差し上げた。
だから私達の手荷物はほとんどない――はずだった。
と、エクトール様が蔵人に向けてパチンと指を弾いた。
すると蔵人さん達が、それぞれ手の中に収まるほどの小瓶を持ってきてくれる。
数は四本。貴重なガラス瓶。ラベルは無い。
それが却って、重みを増して見えた。
私と、リードさんとリオンとフェイ。
それぞれに一本ずつ。
「それは金額外だ。余り麦酒を蒸留し、長期保存したもの。
樽にあまり置くと樽の匂いが付きすぎるので、ギリギリのところで瓶に移した。
その辺のノウハウが解ってきた最初の頃のモノだ。二百年少し、経っているか?
俺は良くできていると思うが、正直売り物になるかどうかは解らん。だから貴様らにやろう」
――つまり、ウイスキーの二百年物?
向こうの世界じゃ、絶対に飲めない。いや、存在すら怪しい超貴重品だ。
「でも、私達はまだ子どもで…」
「誰かにやるもよし、記念に取っておくも良し、保存しておいて大人になってから飲むのもいいだろう。好きにすればいい。
それは俺達からの礼だ。我々の存在に気づき、見出し、光を当ててくれた、な」
「ありがとうございます。大事に頂かせて頂きます」
リードさんが興味津々の顔で受け取ってしまったので、私達も断れなくなった。
割れないように、それぞれが胸に抱く。
小瓶は冷たいのに、抱えた腕の内側が熱い。
「風の月の始め頃には今年の酒も飲めるようになるだろう。
また来い。連絡する」
「必ずや」
最後の挨拶をして、私達はフェイの側に集まる。
術の準備が整い、空気がピンと張りつめる――その直前。
「ああ、マリカ」
エクトール様が私を手招きした。
その声の色だけが、ほんの少しだけ変わっている気がした。
「何でございましょうか?」
「すまぬがもう一本、持って行ってくれ。ヴェッヒントリルに渡して貰えると助かる」
「解りました」
駆け寄った私に、頭二つは違う長身を屈めたエクトール様は、私に視線を合わせて下さった。
差し出された瓶と一緒に――小さな、小さな言葉が落とされる。
周囲の喧噪に紛れるほど、静かな、確信の声で。
「頼んだぞ。精霊の貴人」
「え?」
「アーグストラムに、また会う事があればよろしく言ってくれ」
「えええっ!」
他の人には聞こえなかっただろう。
私が頓狂な悲鳴をあげた様にしか見えなかったはずだ。
けれど、私の胸の内側では別の音がしていた。
――歯車が一つ、かちりと噛み合う音だ。
「ほら、行け! 術者が待ってるぞ!」
「マリカ、行きますよ」
満面の笑顔で私をフェイの方へ追いやるエクトール様。
もう準備万端という顔のフェイは私の肩に手を置いた。
術が、もう発動しちゃう……?
慌てて手を伸ばすけれど、してやったり顔のエクトール様はニコニコと手を振っている。
「え、でも、いや、その待って! エクトール様!」
「また、な」
「シュルム・ディエダ!!」
「わああっ!」
私の身体が宙に浮く。
預かった瓶は絶対に落とすわけにはいかないから、腕の中でぎゅっと抱え込む。
けれど転移酔い以前に、頭がぐるぐるだ。
ホント、一体何?
最後のあの言葉の意味は、なんだったの――?




