荘園 麦酒と喜びの夜
麦酒、ビールを使った料理と言えば豚肉のビール煮だ。
と私は思っている。
向こうにいた時代、煮込み料理はよく作っていた。
下拵えを済ませ、鍋にかけて、その間に書類仕事を片付ける。
そして手が空いた頃には、湯気と香りと一緒に料理が完成している――あれは本当に格別だった。
今回使うのは、リオンが狩ってきてくれた豚肉……もとい猪肉。
新鮮で色鮮やかな肩ロース肉を大振りに切り分ける。
シャロの実は肉と同じくらいの大きさに切った。
ベーコンは細かく薄切りに。これで出汁を取る。
エクトール様のブルワリーシャトーには、オーブンもキッチンもあった。
使用頻度は多くない。オーブンはほぼ使っていないと言っていたけれど、それでも麦酒作りの確認や工程で、台所を使う場面はあったのだという。
比較的きれいだったので、使わせていただくことにする。
材料は、オルジュさんに転移術を教えると言ってフェイが王都まで戻った時に、いろいろ持ってきてもらった。
「最初から土産もフェイに持って来させれば良かったんじゃないか?」
というのはリオンの談。
その通りです。ごめんなさい。
分厚い銅の鍋に肉を入れて、まずはじっくり焼く。
最初は弱火で油を出し、それから中火へ。
あまり細かく動かさず、じっくり焼いて焦げ目をつけるのが美味しく作るコツだ。
焼き色をつけることで肉の脂が閉じ込められるし、香ばしい匂いも立ってくる。
それから同じ鍋で、ベーコンと玉ねぎを炒めた。
肉の脂を玉ねぎに絡める目的なので、丁寧に、じっくりと。
「マリカ。用意はできたか?」
「あ、お待ち下さいませ。エクトール様」
私は味の染みた玉ねぎとベーコンの入った鍋に肉を戻し、それから分けていただいたこのブルワリーの麦酒を、たっぷりと注ぎ入れる。
ハーブがローズマリーとセージしかないのは残念だけれど、塩胡椒、砂糖やお酢も入れて。
後は仕上げに微調整だ。
「ほう、麦酒を料理に使うか?」
感心したように鍋を覗き込むエクトール様に、はい、と私は頷いた。
「麦酒の炭酸と酵母成分で肉が柔らかくなるのです」
「そうか、楽しみだな」
「どうかご期待なさってくださいませ」
弱火の火加減を精霊に頼み、私は手を濯ぐ。
パスタや付け合わせの支度も終えたし、少しキッチンを離れても大丈夫。
「お待たせしました」
「皆も待っている。行くぞ」
先を行く大きな背中を、私は小走りに追いかけた。
このロンバルディア侯爵領の外れ、大聖都の国境に程近いエクトール荘園は、食が絶滅したこの世界で五〇〇年間、ひっそりと麦酒を作り続けていた蔵である。
蔵の中を荘園領主様自ら案内してくれるというので、これからワクワク酒造見学会だ。
「これから見せるモノは我が一族の秘中の秘。ヴェッヒントリルでさえ見たことはない。
他言するなよ」
先頭を行く荘園領主エクトール様が振り返り、念を押した。
「心得ております」
「まあ、見たからと言って直ぐに真似られるものではないが……」
それはそうだ。
麦酒作りは簡単ではない。本格的にやろうとすればなおさらだ。
「入るがいい。ここが我らが五〇〇年、守り続けていた酒造の蔵だ」
案内されたのは石造りの大きな館風。けれど――
「うわー、大きな釜」
低めの天井の部屋には、見上げるような大きな釜が二つ並べられていた。
赤銅色で使い込まれたそれは、昔、向こうの地ビール蔵で見たステンレスのそれとは違う。
けれど形はよく似ている。
基本のところは万国共通で、時代が過ぎても大きくは変わらないのかもしれない。
「暖かい、ですね。外は夏で暑いくらいなのに心地よい暖かさだ」
「それに、なんだかすごい甘い匂いがするな」
「ほう……解るか? これは麦汁。この麦が糖みを増していくことで麦酒の元になる。
今は今年収穫した最初の麦での加工を始めた所だ」
リードさんやリオンが興味深そうに蔵の中へ視線を巡らせる。
「温度管理などは魔術師が?」
この質問はフェイ。
彼には精霊達の働きなどが見えるのかもしれない。
「そうだ。麦汁を作る時、麦汁が麦酒に変わる過程、熟成の過程、全てで温度管理が重要になる。
火と大地の術を得意とするオルジュの力は、この蔵では欠かす事のできぬものだ」
オルジュさんへの褒め言葉に、フェイは優しい笑みを浮かべる。
あの後、なんだかんだでフェイはオルジュさんに近づき、転移の術を教えたり、逆に大地や熱処理系の術を教えてもらったりしていたらしい。
オルジュさんは風の術を使いこなすフェイに驚いていたけれど、オルジュさんの杖の精霊は風よりも大地寄りで、守ったり維持したり、そういうのが得意なのだとか。
「基本は……まあ杖の持つ特質の違いですよ」
とはフェイの談。
……なんだろう。あの含むような笑みは?
「こちらは麦芽の発芽も自分でやっておられるのですよね?」
「……工程の説明もしておらぬのによく解るな」
と、しまった。
この世界では加工麦芽の仕入れなんてできないからと思って、つい口が滑った。
でも、ま、いいか。
「大よその麦酒作りの工程は知識として与えられております。
麦を発芽させてから粉砕、麦汁を作るのですよね?」
「そうだ」
エクトール様は頷く。
「発芽、焙煎、温水との混ぜ合わせは、この仕込み蔵の裏でやっている。
大量の水が必要だからな。敷地内を流れる川から水を引いて行う」
くい、と手で促され、仕込み蔵の裏へ。
そこは焙煎にお湯の仕込み、火を使っているだけに汗ばむくらい暖かい――いや、暑い。
けれど麦を煎る香ばしい匂いが部屋中に溢れて、むしろ気持ちがいいくらいだ。
「ここで焙煎した麦を粉砕。お湯と合わせて濾過してから、さっきの仕込み蔵のタンクに移す」
エクトール様は、煎っている麦芽をひょいっと摘み、私達の手のひらに乗せた。
熱くないのかな?
「食べてみるか?」
「頂きます」
皮を剥いて齧ってみる。
う~ん、麦の味。焼き麦? 押し麦? ほんのり甘い。
仕込み蔵に戻ると、エクトール様は麦汁の様子を見ていた蔵の人に目で合図する。
蔵の人は頷き、釜の小蓋を開けると中の液を柄杓で掬い、小さなカップに入れてくれた。
「お前達には完成品は飲ませられんから、代わりに飲ませてやろう。麦酒になる前の麦汁だ」
最初に私へ渡してくれたので、ありがたく一口。
「うわっ! 甘い」
本当に甘かった。
昔は麦から作った水飴とかがあったらしいけれど、本当に濃厚な甘さ。
緑の香りと香ばしさも、少しある。
「本当に甘いな」
「果物のジュースと違って、砂糖を溶かしたような深い甘さ、ですね」
リオンとフェイも驚いているようだ。
「この汁を一度煮立ててな、そこに特殊なハーブを入れるのだ。
入れるタイミングと煮出す時間で香りや苦みが麦汁に入る。
その後、秘伝の液を入れて時間を置く事で麦が酒に変わる。
この液は生きている。だから決して絶やすなと、私は父から託されたのだ」
「さっきの質問ですが、酵母……秘伝の液を入れた後の泡はどちらに立ちますか?
液の表面に? それとも沈殿して下に集まりますか?」
中世だから上面発酵のエール主体かなと思ったのだけれども――
「両方やっている。そちらの蔵が常温で泡が上に集まる。
こちらの蔵は温度を下げているから下に沈殿するな。
味わいが変わるのだ。常温の方は濃厚な味わいが特徴、低温の方は幾分かさっぱりとしていて飲みやすいようだな」
「両方を一つの蔵でやるなんて凄いですね。特に下面発酵の方は温度管理が難しいと聞きますのに」
「魔術師がいるからな。そこは融通が利く。
五〇〇年、酒を造る以外やることが無かった故、作り方を守りつつ色々な事を試した。
あのハーブを見つけ、麦酒に使うようになったのも、三〇〇年くらい経ってから、割と最近の話だ」
二〇〇年が最近、ってスケールが違うなあと思いつつ、私は発酵用のタンクに触れた。
何百年も使っているのに錆や汚れもなく、艶やかな輝きを今も保っているのは、本当に大事に使ってきたからだろう。
「二週間ほどで酒と言えるものになるが、まだこの時点では風味が固い。
一月ほどゆっくりと寝かせて完成、だな。
そうすると硬さがとれ飲みやすくなる。
工程としては二カ月ほど。今年はまだ最初の麦がようやく熟成に入った所だ」
手間をかけ、ゆっくり作り上げていく麦酒。
今年の麦で作った麦酒の完成は、秋だろう。
オクトーバーフェストという向こうの世界で聞いたビールの祭典が一〇月なのは、完成に合わせてのことなのだと思う。
「こちらへ」
蔵を出て、私達は館の一階、その裏手に回る。
大きな鍵がかかった扉を、エクトール様が開けてくれた。
奥まった部屋に入ると――
「うわー、すごい」
いくつもの樽や瓶が、薄暗い石造りの部屋に眠っていた。
「一番古いものは三〇〇年ほど経っているか。
麦酒作りは秘密でやってきたので、外に出すわけにはいかなかった。
麦酒は新鮮なうちが美味。年月の経過と共に味が落ちるし、変わる。
消費しきれなかった分を蒸留し、樽に貯蔵していたところ、別の味が深まったので、本格的に余った分を加工し貯蔵し始めたのはここ数百年だ」
「蒸留? 蒸留酒も作っておいでだったのですか?」
所謂ウイスキーの工程だ。
ビールとウイスキーは同じ麦から作られる。
実際には材料や成分が違うから、ただビールを蒸留しただけではウイスキーにはならないというが――これだけ時間をかけて熟成させれば、違う意味で美味しい酒になっているのではないだろうか?
「その方が酒の風味と濃さ、保存性が高まるようだったのでな。
……できるだけ作った酒を廃棄したくはなかったのだ」
信じられないくらいの試行錯誤と向上心。
外の世界ではまったく見られなかった創意工夫の努力が、ここにはある。
「今年の酒はまだ飲めぬが、去年のものであれば悪くはないだろう」
木ネジ式の注ぎ口を差し込まれた樽の口を捻ると、少し濃い黒褐色の液体が溢れて来る。
木のジョッキに注がれた液体に、みっちりとした泡が蓋をしている。
「試してみるがいい。これが、我が荘園が五〇〇年守り続けて来た麦酒だ」
「ありがとうございます」
丁寧に両手で受け取ったリードさんが目を閉じ、口をつけた。
樽から漂う甘い香りに、私は無意識に鼻を動かす。
「なんだか、果物のような爽やかな香りがしますね」
「そうだな。不思議な事に。水と麦とハーブ。そして泡以外のモノは入れてはいないのだが」
私達がそんな会話をしている横で、ごくごく、と喉の鳴る音が聞こえる。
「あ、あああ!!」
五〇〇年ぶりの麦酒に、リードさんの吐息が零れた。
「豊潤で、濃厚……。口の中一杯に広がる麦の味わい、泡の口当たり、パチパチとした刺激。
どれをとっても完璧としか言いようがありません。
このような麦酒が今の世で飲むことが叶うとは……」
万感の思いの籠った感想に、蔵主の安堵の笑みが浮かぶ。
「口の肥えた王都の商人の舌に適うなら、我らの努力、その方向性は間違っていなかった、ということか」
「はい。この酒を一度口にすれば、誰もがたちまち虜になる事でしょう」
「では、こちらも飲んでみるがいい。別の手法で低温管理して作った麦酒だ」
別の樽から注がれた麦酒は、美しく淡い金色をしている。
うわー、ピルスナー風。
凄い。こっちも作れていたんだ。
「! こちらもまたまったく違う味わいですね。同じ麦から作ったとは思えない程です。
爽やかで一気に飲めてしまえる。
それでいて味わい深く、キレがあって。水の様に料理と共に飲むには、こちらの方が向いているかもしれません」
リードさんの顔も赤い。
アルコールのせいばかりではないだろうが、満面に喜悦の色を浮かべている。
「それは良かった。去年は麦の出来が良かった。
たまに見栄えはいいのに、味が抜けた麦と酒になってしまう年がある。
作ってみるまで解らないのが痛い所ではあるがな」
「そのようなこともあるのですか?」
「ある。何年かに一度だが、隙を突いたように」
「それは多分、魔性に麦の精霊が喰われた年、なのではないでしょうか?」
「なに?」
エクトール様が瞠目の眼差しで振り返る。
視線の先にはフェイ。
彼は目を閉じて頷いてみせた。
「先ほど、畑で魔性が精霊を狙っておりました。
基本は魔術師の守りが効いているようですが、それが薄れた隙を狙って魔性が精霊を喰らう事があったのかもしれません。
精霊を失った麦は味と力を失う。
ありうることです」
「なんと……」
「魔術師を責めるのは酷な話です。麦を早めに建屋内に入れる、守りの術を強化するなどすれば防げるでしょう」
「……そうか。流石、王都の魔術師、礼を言おう」
「殆ど魔性など出ない筈のこの時代、魔性が畑に訪れるのは、この地の精霊が愛され、大事にされ力を持っているからに他なりません。
どうか、今後も慈しんであげて下さい」
「無論だ」
二人の会話を聞きながら、私はリオンと顔を合わせる。
魔性は精霊を喰らう。
今の世に力ある精霊が少ないから、魔性の目撃もほとんど無かった、ということなのだろうか?
ということは、今後、畑で野菜や果物が栽培され、精霊が力を取り戻すと、魔性も増える?
「エクトール様、今回私は麦酒の契約について全権を店主ガルフより預けられております。
この蔵で作られた麦酒全て。種類は問いません。
そのうち外に出せる全ての量を、どうかお譲り下さいませ」
「よかろう。だが、いいのだな?
大聖都のみが独占していた酒造。そのシェアを奪う事になり、目を付けられる可能性はあるぞ」
「覚悟の上」
エクトール様の言葉に、リードさんは大きく胸を張ってみせた。
「この味を闇に埋もれたままにしておくことこそ罪であると、私は断じます。
元より大聖都以外で酒を造るべからずの禁止があるでなし。問題はありません」
アルコールのせいか、だいぶ気が大きくなってるな、リードさん。
前に私が蜂蜜酒を作りたいと言った時には怒ったのに、すっかり麦酒に惚れ込んでいるようだ。
でも、この努力を見れば、それも当然だと私も思う。
工夫を、積み上げてきた思いを見た以上、埋もれさせたくはない。
「では、館に戻って契約を……」
「あ、ではその前に皆様で食事と参りませんか?
そろそろ仕込んだ料理がいい感じの筈です」
私はエクトール様に声をかけた。
「料理? さっき麦酒を分けてくれと申して台所でなにやらやっていたが、あれか?
楽しみにしろと言っていた」
「はい。エクトール荘園と麦酒の前途を祝し、王都が誇る『新しい味』をどうかご賞味下さいませ」
心からの笑顔で微笑んで。
「うわあっ! 凄い! なんだこれ?」
「これが、王都で話題だという『新しい味』?」
「肉が、口の中で、蕩ける!!」
大広間に用意されたテーブルについた人達は、絶叫にも似た声を上げる。
上げてくれる。
麦酒が世界に戻るお祝いに、私はここでできる全力で料理した。
恍惚に蕩ける声と賛辞が、とても、とても嬉しい。
メインは豚肉の麦酒煮込み。フェットチーネ風のパスタと、マッシュポテトを添え。
それからパンとセフィーレのジャム。
時間が無かったので熟成時間は少なめのバケットタイプだけれど、ビール煮のスープに浸して食べれば美味しい筈。
デザートは用意しなかったが、バケットを一口大のラスクにして、塩胡椒で味付けする。
麦酒のおつまみにいいと思う。
「これは……凄いな」
じっくり噛みしめながらエクトール様が、ビール煮を見つめる。
「麦酒と水以外のモノを口にしたのは思い出せない程、遙か昔だが、旨みに溢れ、噛みしめる程に味が染み出て来る。
肉、というのはこれほどまで柔らかく滋味深きものであったか?」
「この蔵の麦酒が素晴らしいからでございます。
普通に煮ては、なかなかこの柔らかさにはなりません」
お褒めいただいたけれど、この煮込みの決め手は麦酒だ。
良い麦酒だからこその深みのある味わい。
「なるほど。これが『新しい味』か。王都の民が、領民が夢中になるも道理よな」
「これに、蔵の麦酒が加わるのです。
世界を、共に変えてまいりましょう」
快哉の笑みと共にジョッキを掲げるリードさんと、エクトール様はジョッキを合わせて打ち鳴らすと、一気に飲み干した。
「こんなに美味い酒は久しぶりだ。
無為な日々の中、味を見て飲む酒とはまったく違った味がする」
長い時を噛みしめるような表情は、やがて満面の笑顔に変わる。
「皆も今日は存分に飲むがいい。新しい樽を開けろ!」
「おお!!」
それからはもう大騒ぎで、飲んで、食べて、笑い、歌い。
楽しい夜は更けていった。
その日の夜。
どんちゃん騒ぎでもれなく眠り込んでしまったシャトーの人達に、私とリオンは毛布をかけていた。
「随分、楽しそうだったな。酒ってそんなにいいものなのか?」
「うん、多分いいものだね」
リードさんはなんとか部屋に連れ戻したけれど、他の人達は部屋の場所が解らなかった。
客間から持ち出した布団や毛布を皆にかけ終えた、その時。
「リオン、マリカ、ちょっといいですか?」
フェイが声をかけてくる。
「なあに?」
「二人にも会って貰いたいんですよ」
「誰に?」
答えをもらえないまま促され、私達は中庭で待っていた存在に――息を呑む。
月の光を弾く金色の髪、萌え出る植物のような碧の瞳。
……美しい精霊が、そこに立っていた。




