王都 精霊の誓い
「見事だ…」
手に取ったパンを大事そうに、まるで宝物でも味わうように一口一口噛みしめながら、ザーフトラク様は深く息を吐いた。
そして、その一言のあと、彼はゆっくりとパンを置き――何の前触れもなく、私の前に膝をついた。
……え?
跪いたのだ。祖父程の歳の離れた男性が。
私に?
厨房にいた他の料理人さん達の気配が、一斉に揺れるのがわかる。
視線。息遣い。戸惑い。
空気が一瞬で張り詰める。
え?
なに?
なんで?
「マリカ。いや、マリカ殿」
見上げてくるその眼差しには、はっきりとした敬意と感謝が宿っていた。
揺らぎのない、職人の眼だった。
「其方が皇国に在ることに、私は感謝しよう。
昨日のパスタ。今日のパン。
どちらも紛れもない、最高の食の欠片だ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
ああ、この人は本当に――
食と、料理と、料理人という仕事に、心から真摯な人なのだ。
初日こそ、見知らぬ子どもに対して警戒心を露わにしていたけれど、
その後は誰よりも誠実に、真剣に、私の言葉を聞いてくれている。
ありがたい。心からそう思う。
……でも同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。
申し訳なさが、静かに溢れてくる。
「どうか、お顔を上げて下さい。ザーフトラク様」
だって――
天然酵母パンも、サンドイッチも、その他の料理も、
マッサージも、アロマテラピーも。
私がゼロから生み出したものではない。
異世界で学び、知り、持ち帰ってきたもの。
本来なら、私が独占していい知識じゃない。
「これらは、古くから人によって考えられ、磨かれ、伝えられてきたものです。
私は、教えられ、預かっているにすぎません」
「マリカ殿」
「どうぞ。マリカと。
私は多くの賢人の知識を預かり、伝える役を、
精霊の導きによって託されただけの者です」
膝をつくザーフトラク様の手を、そっと両手で包み、私は頭を下げる。
祖父に近い年齢の方。
生きてきた年月、積み重ねた誇り、料理に懸けてきた人生。
どれを取っても、私など足元にも及ばない。
「知識とは、箱に入れておくものに非ず。
伝え、広めるものだと、私は思っております。
私は覚え得たすべての知識をお伝えいたします。
先に、お声かけ下さいましたように。
ですので、もし感謝の言葉を賜れるなら、
どうかそれを活用し、広め、お役立て下さいませ」
「マリカ…」
実習の最初。
ザーフトラク様がかけて下さった言葉と思いを、私はそのまま返していた。
――随分と前に、リオンが言ってくれた言葉が脳裏をよぎる。
私は本来、この世界の住人で、
この世界に必要な知識を運ぶために異世界に学び、
そして戻ってきたのだ、と。
希望や未来が失われた世界に、
人々に必要な知識を伝えること。
子ども達を守り、生きる世界を作り、未来へ繋ぐこと。
それが私の存在理由であるなら――
正しい知識と経験、
そしてそれを広げていく力と意志を持つ人にこそ、
託し、繋いでいくべきなのだから。
「解った。
必ずや、この知識を私は世界に広めてみせると誓おう。
神と星と、精霊と、
マリカ…君の名に懸けて…」
ザーフトラク様は、膝をついたまま、
右手を心臓の前で強く握りしめ――
それを、私の前に広げるように差し出した。
その瞬間、
周囲の料理人さん達から、声にならない驚嘆が漏れた。
……覚えがある。
かつて、魔王城の秘密に触れた時、リオンが私に捧げてくれた仕草と、同じだった。
意味は解らない。
ただ――とても大切なものを捧げられた。
それだけは、はっきりと解った。
だから私は、胸に抱きしめるようにして、
その想いを受け止めたのだった。
「マリカ。精霊の誓いって知ってるかい?」
「? 知りません。なんでしょう?」
料理実習終盤。
自分の焼いたパンを切り分けながら、カルネさんが楽しそうに囁いてくる。
「やっぱりね。さっきザーフトラク様が君に向けて手を広げただろう?
あれはね、君に自らの心臓、命を預ける、って意味があるんだよ。
原則、一人に捧げる永遠の忠誠と、
心からの敬意と愛」
「へ?」
「昔、五百年よりもっと前。
本当に昔の精霊時代の風習でさ。
今の男女関係で言うなら――
ほぼプロポーズに近いかな?」
「プロっ!!」
「どうする? ザーフトラク様の第二夫人に――って、わっ、と危ない!!」
動転した私は、手に持っていた天板を落としそうになる。
ちょっと待て。
プロポーズ?
ザーフトラク様が、私に?
ない。
ありえない。
絶対に!!
「違うわ! たわけ!!」
ボカッ!
渾身の力を込めた拳骨が、
天板を拾って両手のふさがったカルネさんの頭に落下する。
「痛った~~」
やっぱり、わざとらしく頭を撫でる仕草。
その瞬間――
「貴様らの若造の俗な考え方と一緒にするな」
低く、怒気を孕んだ声が厨房に響いた。
「精霊の誓いは、もっと崇高なものだ。
生涯、たった一人に対して、
全身全霊をもって守り、力になると己に誓う儀式。
私は妻にも皇王様にも捧げてはおらぬわ!」
本気の怒りに、ザーフトラク様の肩が震えている。
私も息を呑む。
……あの仕草に、そんな意味があったなんて。
「解ってますよ。
だから驚いたんじゃないですか?
今どきは風習も薄れて、
覚えている人もいないようなことなのに」
「ザーフトラク様、そんな大切な事を、私に?」
「其方は気にするな。
別に其方に何を求める訳でもない。
精霊の誓いというのは、そういうものではないのだ」
身動きもできない私に、
ザーフトラク様は柔らかい笑みを向ける。
「かつて、神の力よりも精霊が身近で在った頃の風習でな。
ただ、無私に力になりたいと心から思った人間に捧げるもの。
自らにかける誓いで、
己の力及ばぬ時、精霊が助けてくれるという。
今は亡き師より聞いた、まあ、おとぎ話だが――
其方には相応しいと思った」
遠い過去を懐かしむような眼差し。
「最近、昔のことをよく思い出す。
五百年前、皇子が一度だけアルフィリーガを城に連れて来た事があった。
輝く容姿、高き精神、
生きた精霊そのものの少年だった。
いい年をして、憧れたものだ。
いつか自分も彼に、精霊に誓いを捧げたい――
そう思うくらいにはな」
瞳に宿る深い優しさと、揺るぎない意志。
この人の誠実を受け取る資格が、
私に本当にあるのだろうか――
「でも、私の知識は、先ほども言った通り借り物というか、預かりもので…」
「それでよい。むしろ、それを言える其方だからこそ、だ」
静かな微笑とともに、
ザーフトラク様は、ぽんぽんと私の頭を撫でる。
「先人の努力に敬意を表し、大事にする其方に、人間として感動した。
そして、その意志と願いを守りたいと心から思った。
それを現した。
ただ、それだけのことだ」
「ザーフトラク様…」
「今まで濁していたがな。
其方に興味を持つ者は、皇王妃様だけではない。
既に大貴族の一部は、
料理のレシピ欲しさに血眼になっている」
「そうですね。ガルフの店に直接打診を始めた者もいる様子」
「まあ、私にできる事などたかが知れているが、
其方が自分の思いとは反する事を強いられそうになった時、
それから守る盾くらいにはなってやれるかもしれぬ」
私は、その言葉の意味を噛みしめる。
食の事業が進めば進むほど、
私にかかる圧力は強くなる。
望まぬことを強いられる未来も、きっと来る。
それを――守ると、言ってくれているのだ。
本当に、ありがたい。
「まあ、保護者が一人増えたと思っておけ。
とりあえずは皇王妃様を乗り切り、
その後、大貴族諸氏からの要望を躱すとしよう。
お前達も少しは覚悟しておけよ」
料理人さん達が、それぞれ静かに頷く。
彼らの眼差しにも、
同じ覚悟が宿っているのが見えた。
「解ってますよ。
まあ、僕の誓いなんかは邪魔だけだろうからしないけれど、
君が店で働く事を望んでいるのは知ってるから、
そこは、できるだけ守るよ」
「君のおかげで料理人の地位も上がっている。
今は皇王家の保護も在る。
多少は力になれるだろうさ」
「勿体ないお言葉、ありがとうございます。
全力を尽くして頑張ります」
私はただ、料理を教えていればいいと思っていた。
でも、どうやらそれだけでは済まないらしい。
食生活が広がれば、利権も絡む。
準市民として登録され、国の事業に関わる立場になったとしても、
危険は消えない。
けれど――
少しずつ、味方が増えている。
最初はライオット皇子だけだった。
そこにティラトリーツェ様が加わり、
今は料理人さん達も力を貸してくれる。
ならば、きっとやっていける。
頑張れる。
私は、そう信じた。
この日のメニューは、
籠に盛り付けたサンドイッチとオープンサンド。
小さめに切ったサンドイッチの具は、
ジャム、BLT、卵、チキン。
同じ具材を絵画のように美しく盛り付けたオープンサンドは、
個別の皿に仕立て、
ナイフとフォークで食べられる形式に整えた。
今年最初のサフィーレの生ジュース。
パータトのビシソワーズスープ。
デザートはサフィーレのアイスクリーム。
皇王妃様に出すにはラフかもしれない。
けれど、今回の主役はパンだ。
だから、このままでいく。
出来としては予定通り。
――さて。
皇子妃様と皇王妃様の判定は?
私は、久しぶりに早鐘を打つ心臓を押さえながら、
厨房から押し出されていくカートを見送ったのだった。




