皇国 神の欠片
それは、神殿での登録から帰って、間もなくのことだった。
エリセと二人で倉庫の確認をしていた最中、唐突に――何の前触れもなく、頭の奥を殴られたような衝撃が走った。
次の瞬間、視界がぐらりと揺れ、胃の奥からこみ上げる吐き気が私を襲う。
「どうしたの、マリカ姉? 顔、真っ青だよ」
「……ご、ごめん。頭……痛い。休ませ……て」
気遣うエリセに取り繕う余裕すら無い。
私は口元を押さえ、ふらつく足で店の奥――休憩室へと向かい、扉を開けた瞬間、そのまま床に倒れ込んだ。
「マリカ姉! しっかり! 今、ガルフとリードさん呼んでくるから」
駆け出していく足音。
それを呼び止めることすら出来ない。
頭の奥で、何かが暴れ回っている。
ぎりぎりと軋むような痛みが、思考を粉砕していく。
痛い。
痛い。
痛い。
変化の時に比べれば、まだ耐えられる――そう、どこか冷静な自分が評価しているのに、頭の芯は容赦なく締め上げられていた。
かちゃり、と扉の開く音。
もうエリセが戻ってきたのだろうか。
鈍くしか働かない頭で、そんなことをぼんやり考えた、その直後――
「リオン兄! フェイ兄! しっかりしろ!」
聞こえてきたのは、まったく別の声だった。
入ってきたのは、リオンとフェイ、そしてアル。
アルがリオンを支え、半ば引きずるようにしている。
リオンの顔は青ざめて……否、それを通り越して、真っ白だった。
指先からも、多分、全身、血の気が、完全に失われている。
こんな顔色の彼は、今まで見たことがない。
変化の後、寝込んだ時でさえ、まだ人の顔色をしていたのに。
「リオン……? フェイ……も?」
私の声に気付いたのだろう。
リオンを壁沿いに座らせたアルが、頓狂な声を上げる。
「マリカ? お前も? どうしたんだ? 一体?」
「頭が……痛い、です。これは……一体……」
フェイも同様に顔色が悪く、杖に身体を預けなければ立っていられない様子だった。
苦痛に苛まれているのは、私、リオン、フェイ――三人。
その共通点は、もう分かっていた。
『ええい! しゃらくさい!!』
杖から、ぶわりと精霊が浮かび上がる。
風の王、魔術師の杖たる星の精霊。
青銀の瞳には、隠しようのない怒りが宿っていた。
「シュルー……ストラム?」
『まったく、神の手先め。小癪な真似を。フェイ! 手荒く行く故、耐えろよ!』
実体を持たぬ指が、フェイの額へと差し込まれる。
皮膚も、骨も、まるで存在しないかのように。
そのまま真っ直ぐ進めば――脳に触れているはずなのに。
「うっ……くっ……」
フェイの顔が苦痛に歪む。
脳を直接掻き回されているのか、それとも別の理由かは分からない。
『……見つけた! 退け!!』
響きと同時に、指先が輝いた。
フェイの脳、その奥へと、何かが撃ち込まれる。
「ぐ、あああっ!!」
重苦しい悲鳴。
喉から、こぷっ、と小さな音を立てて血の塊が吐き出された。
『しっかりしろ! フェイ! 貴様が動かねば二人は死ぬぞ!』
「……分かっています。もう……大丈夫ですから」
「フェイ兄?」
感情の欠片も感じさせない声。
全てを削ぎ落としたような、魔術師の声だった。
「アル……」
口元の血を拭いながら、フェイは静かにアルの名を呼ぶ。
「なんだ? フェイ兄?」
「リオンと、マリカのバングルを探して持ってきて下さい……昨日の今日です。リオンは荷物と一緒に持ってきていました。
マリカは?」
「……もって、きてる……事務室……カバン……」
頭痛は収まらない。
むしろ、さらに強まっている。
それでも、魔術師の問いかけに、私は必死で答えた。
「アル!」
「解った!」
「マリカ、失礼しますよ」
フェイは杖を手にしたまま、床に倒れていた私を抱え上げ、壁にもたれかかるリオンの隣へと座らせた。
リオンは完全に意識を失っている。
荒い息だけが、今も断続的に漏れていた。
私も、痛みに目を開けるのがやっとだ。
「……よくも、こんなことを……」
感覚が研ぎ澄まされている。
視界は曖昧なのに、声だけがやけに鮮明に届く。
フェイが、怒りに震えているのが、はっきりと分かる。
「マリカ姉! ガルフ達連れて来た!」
「フェイ兄、持って来たぞ」
「一体、何があったのです?」
飛び込んできたガルフとリードさんを一顧だにせず、フェイは受け取ったバングル――私の分をエリセに渡す。
「エリセ。マリカの腕にそれを填めて、身体を支えていて下さい。アルはリオンを」
「うん」
「解った」
バングルが腕に嵌まると、呼吸が少し楽になった。
身体の奥に、力が戻ってくる。
見えないけれど、リオンの呼吸も、幾分か穏やかになった気がした。
フェイが私の前に立ち、強く手を握る。
「少し、我慢して下さい」
『エル・シェルシュ』
精霊石が強く輝いた、その瞬間。
「うっ!」
「マリカ姉!」
私の口から、ぼんやりと『風』が流れ込んでくる。
優しく、柔らかい風。
それが血流に乗り、身体中を巡る感覚は、心地よかった。
内側から洗い流されていくような感覚――
だが、それは一瞬で終わる。
脳の一か所。
ある一点で、風が何かにぶつかった。
敵だ、と認識した瞬間。
「キャアッ!!」
ジリッ、と何かが焼ける音。
頭の中で響いた衝撃に、悲鳴が漏れる。
「マリカ姉!」
「マリカ様!」
次の瞬間、すべてが嘘のように消え去った。
痛みも、不快感も、霞のように。
頭の中が、驚くほど澄み切っている。
「あ、直った? 何? 今の……」
「……良かった。……リオン。行きますよ」
返事をする余裕も無いリオンにも、同じ術が施される。
「ぐああっ!」
「リオン!」
鈍い悲鳴。
吐き出される血と息。
同時に、彼の顔色が、みるみる血色を取り戻していく。
「リオン、大丈夫ですか?」
「……ああ。すまなかった。フェイ。もう、大丈夫だ」
無理はある。
だが、嘘はない。
フェイの周囲に張り詰めていた凍てつく空気が、ふっと緩む。
安堵の色が浮かぶ。
それでも――その口元には、怒りの名残が確かに残っていた。
「……な、なんだったの? 今の?」
『体内に、神の欠片を入れられたのだ。精霊の力が拒絶反応を示した。
お前達、一体、何を口にした?』
「杖が、しゃべった?」
目を瞬かせるリードさんを気に止める様子もなく、シュルーストラムは杖の上から私達を見下ろしていた。
理由がそれなら、原因は一つしかない。
「神殿で飲まされたお酒ですね。
あの中に、神に属する何かが入っていたのでしょう。今は、確かめる術はありませんが……」
私もそう思う。
はっきりと目に見える大きさなら、きっと気付いていた。
おそらくそれは、小さな、小さな――目にも見えないほど微細な何か。
「ちょっと待て。それ、俺達も飲んだぞ? 大丈夫なのか?」
「多分、大丈夫でしょう。体内の精霊の気に反応して発芽し、異常反応した感じです。
身体の中に精霊の力が無ければ、眠り続けるか、大人の不老不死者のように限定された働きをするのみでしょう」
「! 我々の中にも、神の力の欠片が?」
驚きに目を見開くガルフに、フェイは肩を竦めてみせる。
その視線は、何を今更、と言わんばかりだった。
「地上の不老不死者は一人残らず、体内に神に影響するモノを宿しています。
そのモノが身体に働きかけ、身体の状態を固定し、不老不死を授けているのです。
だから、それを取れば死ねるし、神の力を発揮できない魔王城の島では、人は死ぬ」
思い出した。
フェイは、魔術師としてティーナの不老不死を解除した。
ということは――その頃から既に、この仕組みを理解していたのだ。
「そういう……カラクリだったの?
あ、でも、それじゃあ、神の影響力が体内にあったりしたら、魔王城の事とかお見通しにならない?」
「あと、俺達がそれを取ったことも、バレないか?」
当然の疑問だ。
「大丈夫だと思います。本当に微小、目には見えないほど小さいものです。……効果は限定されているとみます。
人の操作や情報の発信が可能でしたら、ガルフ、ティーナ。
もっと以前で言うなら、ライオット皇子の行動も知られていて、魔王城はとっくに落とされているでしょう」
確かに。
仮に世界中の人間全てに盗聴器や発信機が付いていたとしても、それを把握し、解析し、利用できなければ意味はない。
……それに。
「……とにかく、僕は今、本気で怒っています」
フェイのサファイア色の双眸が、完全な怒りに氷結していた。
氷の魔王の完全覚醒。
「僕達の体内に、神の欠片を入れるなど……。
それで……リオンやマリカを苦しめるなど!」
声は静かだ。
だが、その内側にあるものは、激昂と呼ぶしかない。
制御しきれないほど純粋で、真っ直ぐで、危うい怒り。
フェイは、自分一人が傷つくことでは、ここまで怒らない。
私達が苦しめられ、傷つけられたからこそ――怒っている。
このまま放っておけば、間違いなく彼は、その怒りの全霊を神殿に叩き付けに行くだろう。
それが無意味だと分かっていても。
フェイは、薄氷の上を全力で駆け出そうとしている。
私には止められない。
止められるのは、この世でただ一人。
「……止めろ。フェイ」
半身にして主――リオンだけだ。
「落ち着け、フェイ。
お前なら分かるはずだ。そんなことをしても意味はない」
「リオン……」
リオンは声を荒げない。
音もなく立ち上がり、同じ静けさで言葉を重ねる。
「むしろ、俺達の立場を悪くするだけだ。
冷静になって考えろ。
俺達が今、どうすべきか。何をするべきかを。
考えるのがお前の仕事だ。――俺達の魔術師」
その声は穏やかで、しかし確かに、場を支配していた。
リオンが纏う静穏の空気が、フェイの氷の怒りと熱を鎮めていく。
フェイは目を閉じ、大きく一度、深呼吸をした。
そして再び目を開いた時――
そこにいたのは、怒りに我を忘れた子どもではない。
冷静で、深淵な知識を宿す魔術師だった。
「……すみません。
本当に、冷静さを失っていたようです。ご心配をおかけしました」
「それで、これからどうします?」
「どうもしません。とりあえず、害は無くなった。後は一切、無視で」
「いいんですか?」
ガルフの問いに、フェイは静かに頷く。
「リオンの言う通りです。
ここで動くのは、藪を突いて蛇を出す行為でしかありません。
僕達はアルケディウスに準市民として登録された。それで十分です。
あとは、世界の環境を整え、子ども達を救いながら、神の情報を集める。
やることは、今まで通り。
……それで、いいですよね? リオン」
「ああ。流石、俺達の魔術師だ」
半身の肯定に、フェイは微笑んだ。
そこに、先ほどまでの危うさはない。
しっかりと大地に足を付け、自分の進む道を見据えている。
――良かった。
心から、そう思う。
「ねえ、フェイ兄。
私の中にも変なのがあるなら取って。害は無くてもイヤ。そういうの」
頭を掻きむしるようにしながら悲痛な声を上げるエリセに、
「俺も頼む。自分の頭の中は視えねえし、怖いよ」
アルも同意する。
「解りました。念の為、ミルカも外しておきましょう。
ジェイド達四人は……様子見で」
「リード」
「ミルカを呼んできます」
こうして。
私達の、初めての神殿行。
神の力との最初の邂逅は、大騒動の末、なんとか終わりを告げた。
「でも、正直……まだ何にも始まってもいないんだよね」
バングルに触れながら、私は呟く。
「ええ。僕は不老不死の儀式を知りませんが、
多分、僕達がやらされた登録の儀式は、本当の不老不死のそれを薄めたものなのでしょう」
もし、精霊の力を切り離さないまま神殿に行っていたら。
神の酒を飲まされた時点で、拒絶反応を起こし、怪しまれていた可能性が高い。
薄まっていたからこそ、あの場を切り抜けられた。
そう考えると、『星』の助力には感謝しかない。
そして、今回の件で、はっきりしたことがある。
神と精霊――
いや、正確には『星』は、決して相容れない存在だということ。
「神の手先に怪しまれた訳でもなく、高位の神官に目を付けられた訳でもない。
ただの一般人向けの、簡単な対応でこれです。
この先、僕達は本当に注意深く、神と向き合っていく必要があります」
前途多難。
思わず、ため息が漏れた。
神との戦いは――
本当にまだ、始まったばかりなのだから。




