番外編、フリスタ共和国の工作員
共和国は王国と比べれば、まるで自由の国のように言われているが、フリスタ共和国は違う。
特に孤児は、それだけで奴隷の一生が決まったようなものだ。
共和国が自由の国なんて、大嘘だ。
一部の特権階級が牛耳っている国では、親に捨てられたらもう末路は決まっている。
けれど、イアンはほんの少し運の良い孤児だったと思う。
貧しい親が六歳のイアンを孤児院の前に置いていったとき。イアンは親に怒鳴られてそこから動けなかった。
親の消えた道の向こうをしばらく眺めてから、孤児院の塀の中を恐る恐る覗いた。
たまたま孤児院の職員が一人の少女を叩いて怒鳴りつけているところだった。
イアンはすぐにその場から逃げ出した。人に聞きながら隣町まで歩いて、さらに孤児院の場所も尋ね、隣町の孤児院にやっかいになった。
のちに、イアンが捨てられそうになった孤児院では人身売買が行われ、幾人もの子がどこかに売られていたとわかった。
イアンは、自分の運の良さと判断力に自信を持った。
イアンは顔が綺麗だった。その顔でなにか仕事をできるかもよ、と孤児院仲間に言われた。
あまり頭が良くないし、剣術もうまいとは思えない。できることがなければ、孤児院出身の者など行く先はろくなところがない。危険な仕事か、きつい仕事か、汚い仕事か、どれかだ。
そんなおりに、イアンは国の職員に認められて情報部の職員試験を受けた。
なんとかぎりぎり引っかかり、工作員として働くことになった。
イアンは自分は運が良いと思っていたが、すぐにそれは勘違いだとわかった。
綺麗な顔を使ってやる工作活動など一つしかない。
イアンは性病予防の薬を幾つも呑まされてから、いわゆる色仕掛け要員として働かされ、ときには毒を仕込んで暗殺をし、情報を集めさせられた。
身元がバレそうになり、命からがら逃げ出したことも幾度もあった。
高収入だったおかげで金は貯まった。
ぼうっと景色を見るくらいしか趣味がなかったために使わなかったからだ。
どこか人として壊れ始めている気がした。
そんなおりに、ジェスベル王国で聖女を誑し込む仕事が舞い込んできた。
聖女はジェスベル王国の第一王子に惚れて執拗に迫っているという。王子にイアンは少し似ていた。だから、「やれ」と命じられた。
いつもそうだ。「やらないか」などと尋ねられたことはない。「やれ」といつも決まっていた。
そろそろ長期休暇を取って逃げだそうかと思い始めたころだった。
よく一緒に仕事をしていたジャンが今回も一緒だった。
工作員は美形か、あるいは一目見ただけでは覚えられないくらい凡庸な顔か、どちらかだ。ジャンは凡庸なほうだった。追跡調査や、魔導具を仕込んだりという仕事が上手い。
イアンもそういう技術があれば良かった。
メリールーという女がターゲットだった。
ラズヴェル王子は、確かにイアンに少し似ていた。イアンはいわゆる女顔だが、王子はもう少し男らしい感じだ。
メリールーは美貌の青年たちを周りにはべらせて、機嫌良く学生生活を送っていた。
いい気なもんだなとイアンは思ったが、仕事は仕事だ。
なんとかメリールーに近付こうとするのだが、なかなか上手くいかない。
フリスタ共和国は信用されていなかった。
他の国の者を装えば良かった。
もう駄目だろ、と思った。
最初から、フリスタ共和国の留学生という設定からして駄目だったのだから、イアンのせいではない。けれど、作戦失敗のペナルティはきついだろうな、とうんざりする。
ジャンは地道になにやら情報集めをしているようだった。
二人は留学生生活を送りながら、束の間の平穏を楽しんだ。
この国は良さそうな国だな、と思った。
そんな平穏は、ふいに終わりを告げた。
メリールーが生徒会から追い出された。
ジャンは「あの女、色々とやらかしたらしい」と、ゴシップ誌を見せてきた。
メリールーと令息が親しげにしている写真が載っている。
令息は安物の首飾りをメリールーにくれていた。
こんな玩具をくれたとしても、浮気とは言えないだろう。でも、騒ぎになっているのは確かだ。
メリールーの周りから、美形の男たちが消えてしまった。
止むなくイアンは近付いた。あっという間にメリールーはイアンに懐いた。
なんだか、嫌な感じの女だ。見たこともないくらいに綺麗な子だけれど、馬鹿っぽい。
会話ができない。
「君、可愛いね」とにっこりと褒めると、「私ね、王妃顔だと思わない?」などと言う。
答えに詰まる。
「どこかに遊びに行かない? 王都の町で楽しいところとか知ってる?」
「美味しいものを食べて、綺麗な男の人と喋ったり、嫌な女の不幸を祈ったりするのは好き」
メリールーがうっとりと答えた。
背筋が寒くなった。
なんだこの女は、と思った。
あれこれと情報を探りまくっていたジャンが、ある日、顔色が悪かった。
「どうした?」
と尋ねると、手書きの地図を広げた。
多くの国では、正確な地図は手に入らない。敵国に地形などを知られたくないからだ。
この国で売られている王都の地図も、簡単な地図だけだ。
ジャンはそんな簡単な地図を手に入れてきて、補正を入れて、正確に近い地図を作っている。
すごいな、と思う。フリスタ共和国で開発した魔導具を使うのだという。空から地上を眺める鳥の姿の魔導具だ。それで、描いた地図をイアンに見せた。
なにか、地図に線が引いてある。ジャンが描いたらしい。赤い線で目立つ。
赤い線は円だった。大きな円だ。円の真ん中には王宮があった。
「これは、女がよく散歩している経路だ。繋げたらこうなった」
ジャンが言う。
「へぇ。ところどころにあるこの印は?」
「メーがそこで一人でダンスを踊っていた」
メーとはメリールーのことだ。いつからか、ジャンはあの女の名を呼ばなくなった。メーと呼んでいる。山羊みたいだ。
「道ばたで?」
「道ばたとか、店の中とか、公園とか、色々だ」
「大丈夫か? あいつ」
「店の中とかでやるときは、ただ足踏みみたいにするだけだ。目立たないようにやっている。追い出されたら困ると思ったんだろう。でも、奇妙には見えるのだが、不思議なことに、あまり人は見ようとしない」
「なんだ、それ」
「これは、魔法陣に見えないか」
ジャンが赤い線を指でなぞる。
「そういえば」
「あの女は、地図なんか見ていたことはない。部屋の中で一人きりで見ていたのならわからないが。少なくともこの奇妙な散歩を始めてから、一度も地図は見ていない。でも、ものすごく正確に円を描いて歩いている。このダンスの場所もやけに等間隔だ」
「な、なんだろう」
いつの間にか冷や汗で背中がじっとりとする。
「意味があるんだろうな。メーがこれをやり始めてから、王都の犯罪率が上がっている」
「あの女、まさか」
自分の顔から血の気が引いたのを感じた。
「このことは、上司には?」
イアンはようやくそう尋ねた。
「一応、知らせた。だが、『くだらないことを騒ぐな』と言われた。もう、上には上げない。あまり言うと俺の立場はなくなる」
「そう、だな。逆らうのは不味い」
工作員の下っ端に意見など言えない。言ったらお終いだ。
「お前、この仕事終わったら長期休暇ほしいって言ってたよな」
「ああ、さすがに貰えるはずだ。前の仕事の前に貰えるはずだった。ホントは、もっと前に申請してたし」
「俺も休暇を取る。一緒に逃げるか?」
「逃げる」
頷いて即答した。迷いなどなかった。
互いに愚痴をこぼし合うくらいには信頼していた。
イアンはジャンと計画を立てた。
その前に、メーのことを上手くやらなければならない。
メーは、イアンのことを気に入ってくれた。
こんな女を欲しがるやつの気が知れない。
「この大事な腕輪を返せって言うのよ」
メーがイアンに訴える。
聞けば、他国に行くときは必ず返すと契約魔法で約束しているという。
つまり、腕輪を返さないと任務が完了しない。同時に嫌な予感もする。きっと、この腕輪は治癒魔法を使うのに要る。
「友人に頼んで、腕輪を調べさせてもらおう。そうすれば複製が作れるかもよ?」
メリールーに言うと「うん、そうして」と嬉しそうにする。そういう顔は可愛らしいのかもしれないがイアンはいつも、ぞっとした。
ジャンはメリールーの腕輪を調べた。
治癒魔法を使わせながら調べたりもした。
微弱な魔力をメリールーに供給するようになっている。水魔法属性の魔力らしい。
そういう腕輪だ、とメリールーに教えると「大したことないのね」と、うんうんと納得した様子だった。
大したものじゃなかったら返してもいいかな、もうこの国、嫌だし、とぶつぶつと言っている。
それから二日くらいして、神官長に返してやったという。
あっさりしたものだ。
メリールーとイアンの結婚も速やかに決まった。
イアンは実は、「ロニー」という偽名で留学していた。
結婚などできる状況ではない。身分もなにもかも偽っているのだから。
フリスタ共和国としても、孤児で工作員のイアンと聖女を結婚させる気などない。
とりあえず出国の手続きをしたところ、ジェスベル王国はかなり腹を立てている様子で、「これで彼女は貴国の民だ。二度と入国は許可されないだろう」と宣言した。
イアンは、祖国は終わったと思った。
フリスタ共和国の宰相は、こっそりと含み笑いをしながらも、表情は神妙にして「了解した」と契約書にサインをしていた。
イアンは帰国後、すぐに休暇願いを出したが、珍しく受理された。
「お前はしばらく帰ってくるな。聖女殿の面倒はこちらでみる」
そう言われて合点した。聖女がイアンに執着していると思ったのだろう。
運が良かった。
イアンはジャンと一緒に旅行に出て、そのまま国境を越えて逃亡した。手続きはジャンが上手くやってくれた。改造した魔導具を使って旅券に細工をしたらしい。
下っ端の工作員など幾らでもいる。連中は手間を掛けて追うことはないだろう。
二つ国を超えて西に移動し、ジャンと宿屋を始めた。
フリスタ共和国が傾き始めたという噂を聞いたのは、宿屋が軌道に乗り始めたころのことだった。
お読みいただきありがとうございました。
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