ep1-1 はじめまして、ご主人様
『ep1 王女殺害事件』
ep1-1 はじめまして、ご主人様
ここは、ある異世界の王城——王女アリシアの寝室。
天蓋付きの豪奢なベッドに、アリシアと勇者アズマが全裸で寝ている。
パタパタパタ……。
外で小走りの足音がする。その音に反応し、アズマが目を覚ます。
(ここは……そうだ、昨晩は——)
侍女が来るかもしれない。まずい、と一瞬思ったが、すぐに打ち消す。
魔王を討ち果たした勇者が王女と結ばれて、誰に咎められるはずもない。
と、そのとき——嗅ぎ慣れた匂いが漂った。
——血だ。
上体を起こすと、アリシアの白い肌は血に染まり、黄金の髪が赤黒く濡れて肩に張り付いていた。
「えっ……!?」
アズマは飛び起きた。膝に何かが当たる。血のついた短剣だった。
短剣を取り、アリシアの瞳孔を確かめる。死んでいる——完全に。
(何が……?)
混乱を抑えようとしたそのとき——。
「アリシア様……?」
侍女リタが立っていた。
「勇者様、なにして——ああっ!」
叫ぶや否や、リタは踵を返し、廊下へ駆け出す。
「助けて! 勇者様が……!」
アズマはただ、その背を呆然と見つめていた。
◆◆◆
所変わって現代日本。真夏の照り返しで、30分も外に立てば汗だくになる日。
高校3年生のこはるは、初めてのバイト先へと歩いていた。
途中、家電量販店の店頭に並ぶ最新式の電子レンジに思わず駆け寄る。
ポニーテールを揺らし、口をぽかんと開けて見入った。
一人暮らしを始めたばかりの身には、とても手が届かない値段だ。
「働くぞー!」
唐突な決意表明に、通りすがりの店員が振り返る。
笑顔で返すと、こはるはまた歩き出した。
やがて着いたビルの前。看板にはこうあった。
『メイド喫茶 メイリーフ』
母なら嫌がったかもしれない——けれど、オーナーも店長も良い人だ。
(大丈夫、ママの娘だから!)
意を決して足を踏み出した瞬間——。
「わあっ!」
どしん、と尻餅。小さな男の子とぶつかってしまったのだ。
服にはソフトクリームがべったり。泣き出す子供を助け起こすと、頭上から声が飛んできた。
「レン、あんたが悪いんでしょ。謝んな」
厚底サンダルに脱色した長髪のギャルが立っていた。
「……ごめんなさい」
「お姉さん、ごめんねえ。これ、クリーニング代」
千円札を差し出すギャルに、こはるは慌てて首を振る。
「あたしもぼーっとしてたし、平気です!」
頭を下げてビルへ向かう。
ギャルがスマホを拾って差し出したが、画面の割れに気づいて動きを止めた。
「あんた、これ——」
「大丈夫です!」
こはるはスマホを受け取ると、そのままエレベーターへ。
ため息をついて汚れた服を見下ろす。仕事はメイド服だから支障はないが、初日からソフトクリームまみれはさすがに恥ずかしい。
最上階。扉が開くと、アロマの香りと共に清潔なカフェが広がった。
白を基調とした可愛らしい空間。だが、ただのメイド喫茶とは違う。
別世界に踏み込んだような、不思議な感覚があった。
「おはよう——どうしたの、それ?」
声をかけてきたのは、黒ずくめのキッチン担当で店長の田口だ。
「おはようございます。子供とぶつかってしまって」
「ポンコツメイドの素質十分じゃん。洗濯機使っていいから、着替えてきて」
礼を言って控室に入ると、そこには——見たこともない美貌の女性がいた。
「す、すみません!」
思わず謝ると、彼女は小さくうなずいてメイド服を被る。
背の高い肢体、銀色の長髪、尖った耳。
「クラリス」と、胸に響く声で名乗った。「あなたは?」
「あ、その、こはるです——曽根崎こはる。よろしくお願いします!」
「うん……」
無表情な返事に、嫌われたのではと胸がざわつく。
銀髪の妖精はすべるように廊下へ去り、不思議な香りの余韻を残した。
——トン。引き戸の閉まる音で、こはるは我に返る。
急いで着替え、名札をつける。洗濯機を使おうと洗面台の奥へ向かうと、壁に重厚な扉があった。
男性の顔と天秤のレリーフが彫られており、角に小さなベルがふら下がっている。
(向こうにベランダでもあるのかな?)
扉に触れた瞬間——。
「こはるちゃん、ミーティング始めるよ!」
田口に呼ばれ、慌ててホールへ戻った。
田口が接客の基本を説明する。クラリスも隣でうなずき、光を帯びた髪が揺れる。
無表情の瞳に隠れた優しさに気づき、こはるは少し安心した。
そのとき、店内に電子音が鳴った。
「こはるちゃん、お願いね」
エプロンを握りしめてエレベーターへ向かうと、黒いスーツ姿の男が立っていた。
——ただし、半袖半ズボンだ。
「お、おかえりなさいませ、ご主人様!」
メガネの奥で笑う男が答える。
「あれ、新人さんかな?」
「はい、こはるっていいます」
「よろしくね、こはるちゃん。伊藤って言います」
(良かった、やさしそうな人だ)
「セレナーデ、今日も来たか」
クラリスが現れ、伊藤は軽口を返す。
「あの、まずは消毒をお願いします」
伊藤が素直に従い、こはるはホールへ案内した。
「いらっしゃい、伊藤さん」
田口に迎えられ、伊藤は勝手知ったる様子で席につく。
水を置き、最初の仕事を終えたこはるにクラリスが頷いてみせた。
そのとき——。
チリンチリン。ベルの音。
クラリスの耳がぴくりと動く。田口と目を合わせ、短くうなずく。
ガラガラ、トン。引き戸の音。
硬い足音が近づく。
こはるは息を呑んだ。
エレベーターの前に騎士が現れ、そのまま進み出る。
ブーツが床を打ち、背の剣が金属音を響かせた。
「血の匂いがする」
クラリスの声に、こはるは思わずその横顔を見上げた。
唇が動き、歌のような言葉が零れる。
「……ここはまさか、メイド喫茶か? いや——」
若い声。そして、流暢な日本語。
「そのまさかですよ、勇者様。メイリーフへようこそ」
いつの間にか立ち上がった伊藤が、芝居がかった礼をした。
(え、え、なにこれ……イベント?わたし、どうすればいいの?)
こはるはそんなことを考えながら、おろおろするばかりだった。