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9.暗転

性的行為を匂わせる描写があります。苦手な方はご注意ください。

 まるで夢のようだった。

 私は一人ベッドの中で今日の出来事を振り返った。


 見たことのない景色。今まで見たどんな景色よりも素敵だった。

 彼は言った。この湖は火山から流れ出たものが積もり積もってこのような色になるのだと。だから、単に空の色を映しているだけではないのだと。

 そう言って美しい景色の中で目を輝かせるヴォルフが、目に映るものの中で一番綺麗だった。


 私はそっと胸に手を当てた。嘆息が知らず口からこぼれ出る。

 この思い出は大事に大事にしまっておこう。彼のアメジストのように輝く瞳を、心の中の宝箱に。

 もう二度と、共には行けないのだから。


 静かに目を閉じる。

 その目尻から、涙が一筋の跡を残して流れていった。


 頭に浮かぶのは、クラウスからもらった計画書の内容。

 かなり進行状況は良好だと向こうは考えているだろう。そろそろ次の段階へと移ってもおかしくない。


 私は、彼に抱かれることになる。頭の弱い女だと思わせているから、ほぼ間違いなく誘ってくるだろう。

 知識はあっても、経験はない。その段階に進むのは正直怖い。

 でも、やり遂げなければ。ヴォルフに心底惚れ込み、身体を許す愚かな女を演じなければ。


 そして、その先。

 彼は、私を殺す。


 使われる毒薬は把握している。筋肉を弛緩させ、呼吸を止めることで死に至らしめる薬だ。

 その解毒薬は入手した。

 呼吸が止まる時、どれだけ苦しむだろうか。この先は、賭けだ。解毒薬がどれだけ効くか分からない。


 彼はどんな顔をして私を殺すのだろうか。

 どれだけ考えを巡らせても、以前私への殺意を語った時に見せた、あの表情しか思い浮かばなかった。


 そうやって考えていくうちに、今日の思い出がどんどん汚れていくような気がした。

 私はぎゅっと強く目を瞑り、心の宝箱にしっかりと鍵をかけた。


 涙がもう一筋流れていくのを感じた。



* * * * *



 そして、覚悟していた事態が起こる。

 しかしいざとなると身体は正直だった。


「ルー。その……君との仲をもっと深めたくて。今から、宿に……行かないか?」

「え」


 いつも通り、ヴォルフとの逢い引きを楽しんでいた時だった。


 頭が、真っ白になった。ここは夜のお店などが多い通りに近い。

 つまり、そういうことだ。


 分かっていた。いつか誘われることは。

 だってあの計画書に書かれていたのだから。こうして私を骨抜きにして、夜の屋敷に侵入しやすくするのだと。

 知ってはいても、恐ろしかった。


 あの日、恋人と共に宿へ入っていった彼の姿がありありと目前に蘇った。

 今日、彼の隣に立って宿へ入っていくのは、彼女ではなく私だ。


 彼の形のいい唇を見た。この唇は何度も心に傷をつけながら口付けた。でもこの唇は、きっとあの綺麗な人に私よりたくさん口付けた唇だ。

 彼の大きな骨ばった手を見た。この手は私の手を何度も取った。でもこの手は、きっとあの綺麗な人に私よりたくさん触れた手だ。


 私を抱いた後も、あの綺麗な人をきっとこの人は抱くのだ。

 彼女と私の違いは、ヴォルフの愛があるかないかだ。


 復讐を行う以上、私が生娘である必要は、もはやない。嫁ぐ必要もなくなるからだ。

 彼らの計画を成功させるには、ここで誘いを受けなければ――。


 頭では分かっていても、体はついていかなかった。じり、と勝手に後ずさる体。手が震え、私は左手の指先を右手で握りこんだ。

 私の様子がおかしいことに、彼は気づいてしまったようだった。ルー、と呼んで彼の手が伸ばされる。


 私は、踵を返して逃げ出した。彼が愛もないのに私を抱くつもりなのだという事実が耐え難かった。

 あの女の人に口付けた唇で。あの女の人に触れた手で。これから私は――。


 どうするというのだろう。彼から逃げたりなんかして。


「ルー!」


 慌てて彼は追いかけてきた。

 私は、努めて冷静になろうとした。ここで逃げるのは、きっと疑われる原因になるだろう。


 立ち止まって、振り返る。彼は困った顔をしていた。そこに憎しみはなかった。最近増えた、憎しみの感じられない視線。でもそんなときは必ず、彼に笑顔はない。彼女には向けていた無邪気な笑顔を、私は向けられたことがない。


 当たり前だ。私は、彼の駒なのだから。

 駒は駒らしく、彼の言いなりに――。

 私は覚悟を決めて深呼吸をした。駆け寄ってきた彼は、すぐに私の手を取った。触れられたところがむずむずとして、すぐに振り払いたくなったが我慢した。


「ルー、嫌なら良いんだ。ごめん、突然こんなことを言い出して。忘れて――」

「ごめんなさい、少し動転してしまっただけなの」


 縋るような顔をしたヴォルフ。私は彼を遮るようにして言葉を重ね、困ったような作り笑顔を浮かべた。


 そして、引き裂かれそうな心を無視して、彼の襟元を引き寄せた。


「私に、キス、して……?」


 私から彼にキスをねだったのは初めてだった。

 彼はなぜか少し悲し気な顔をしていた。でも、少し瞳を細めるとゆっくりと私に唇を重ねた。外気に晒された唇は酷く冷たかった。無性に泣きたくなった。


「誘ってくれて、嬉しいわ……行きましょう」


 彼の顔が見れなくなり、私は俯いたままそう告げた。


「そう……じゃあ、行こうか」


 彼に腕を引かれるまま、私は前に進んだ。彼の手は冷たかった。

 私は馬鹿な女。好きな男に抱かれることを、喜ばなければいけない。

 怖くなんか、ない。傷ついてなんか、いない。


 彼の本当の恋人から、彼のことを一時奪ってしまうことになるなんて、今は忘れなければ。

 彼の心を裏切らせることになることも、忘れないと。

 計画のためだ。復讐を遂げるためには必要なことなのだ。

 私は無理矢理口角を上げた。

 笑顔でいなければ。疑われないようにしなければ。


 そうしている間に、連れ込み宿の前まで辿り着いた。一組の男女が仲睦まじそうな様子で中に入っていくのが見えた。

 私はごくりと生唾を呑み込んだ。


「……入るよ、ルー」

「ええ……」


 確認するように上から降ってきた声に、小さく答える。躊躇ったように足を踏み出したヴォルフと、私は共に宿の中へ入っていった。

 案内された部屋には、大きなベッドが一つしかなかった。調光も心なしか暗い。当然だろう。そういう目的の宿なのだから。


 扉がパタンと閉じる音がした。振り向くと、ヴォルフが内側から扉に鍵をかけた。

 棒のように動かなくなった私の足は、部屋の入り口で止まっていた。


 なぜかまだ困ったような顔をしている彼は、棒立ちの私の手をそっと取った。自分の手がじっとりと湿っていることを私は感じていた。

 私の顔を覗き込む彼の瞳には、やはり憎しみはなかった。それに少し安心する。

 鋭さをなくした彼のアメジストの瞳は、吸い込まれそうになるほど美しい。


「……やめる?」

「え?」


 眉を下げた彼は、私にそんなことを言った。

 ――どうして。計画の一部でしょう。

 言いたい言葉は飲み込んだ。胸の中で何かが爆発しそうな感覚を覚えた。


 きっと、棒立ちのままの私が悪いのだ。足を進めなければ。

 ぎこちない歩みで私はベッドへ向かった。


「やめないわ」


 私は彼の瞳を睨むように言った。

 覚悟は、もう済んでいる。

 これからされる行為についても、私はしっかり分かっている。理解、できている。


 ベッドに腰掛けると、少し硬いマットレスが私を押し返した。自分の呼吸の音がうるさく感じる。

 傍らに立つ彼を見上げる。彼は表情を無くしてこちらを見返していた。

 彼の手がこちらに伸びる。私の心臓は壊れそうなくらい激しく鼓動を打っていた。冷たい手が私の頬に触れた。


 ベッドに手を突きながら、彼は私の唇に自分のそれを近付けた。彼の香りがふわりと鼻をくすぐる。

 胸が痛い。死んでしまいそう。

 ――逃げ出したい。


 私の隣に腰掛けた彼は、最初はいつも通りの口付けをしてきた。その口付けは、徐々に深くなる。熱い舌が私の唇を割って入り込んでくる。

 私は息がもっと苦しくなった。こんな口づけをされたのは初めてだった。


 逃げたい。ここから、逃げたい。

 彼から、逃げたい。


 できない呼吸を必死に求める。私の喉からは聞いたこともないような変な声が出た。


 嫌……もう、嫌だ……。


 この行為に愛がないことを、私はよく知っている。それでも、彼に口付けられている間はほんの少しだけそれを忘れられた。

 彼の唇が離れると、はっきりと思い出すのだ。愛など無い。愛されてなどいない。私はそれを忘れてはいけない。


 思い出すその瞬間が、死にたくなるほど嫌だった。

 激しく打つ心臓は、やはり痛い。


「ルー。……ルイーゼ」


 小さく私の名を呼んで、私の胸元のボタンを彼の手が外していく。上から、一つずつ。二つ。三つ――。

 空気が薄い。私は空気を求めて何度も深呼吸をした。

 全てのボタンが外されたのを感じた。


 この先されることは、話に聞いたことはあっても実際にされるのは初めてだ。愛し合う者がする行為なんだとか、欲を求める者がする行為なんだとか、いろいろな話を聞いた。

 では、偽りの愛を向けられる私が、それどころか憎しみさえ向けられている私が、これからされる行為は彼にとってどんな意味を持つのだろうか。

 それとも、意味なんてなくて、計画を進めるための単なる作業なのだろうか。


 躊躇うような彼の手が、はだけた胸元から肩へ向かってドレスを脱がしていく。少し低い温度の空気が私の胸元を撫でる。

 私は答えを求めるように彼の瞳を見上げた。そして後悔した。


 そこにあったのは、暗い色を宿した瞳だった。底知れぬ闇が私を見つめていた。


 私は悟った。彼は私と関係を持つことを望んでいないのだと。

 恐ろしかった。自分がこの後何をされるのか知っていても恐ろしかった。


 ――怖い。

 前にもこんなことがあったことをぼんやりと思い出す。確か、出会ったばかりの頃。見上げた彼の瞳が笑っていないこと、憎まれているということを肌で感じた。面と向かって馬鹿にされた。あの頃から、きっと彼の思いは変わっていない。


 私は浅い呼吸を繰り返した。

 脱がされかけているドレスは、肩口辺りでまだ引っかかっている。彼はゆっくりとそのドレスに力を込め――そして元のように戻した。


「……やめようか」


 絞り出すような声が聞こえた。

 言葉が出ない私は、彼をぼんやりと見つめた。頭の中では様々なとりとめもない考えがぐるぐると渦巻いている。


 どうしてやめるの。どうして、そんな顔をしているの。何が気に障ったの。私に、そんなに魅力が無いから――?

 ほっとしているような、がっかりしているような、全てがないまぜになったような感情が巡っていた。


「ヴォル、フ……?」

「ほら、手……」


 促されるように見た自分の手は、酷く震えていた。震えを抑えるように両の手を重ねて握ってみても、震えは収まらなかった。

 私はどうしたら良いか分からなくて、迷子になったかのような気分で彼を見つめた。涙が出てきそうな感覚があって、私はそれを必死で抑え込んだ。

 私は彼にどうしてほしかったのだろうか。もう分からない。


「ごめ……んなさ……」


 うつむくと、褪せた朽葉色の髪がぱらりと肩から落ちる。私は目を見開いて、息を止めた。

 父親と全く同じ色だ。彼が憎んでいる、私の父親と。


 ヴォルフを最初に見かけたときの、あの射殺すような瞳。きっと私を憎い侯爵の姿に重ねていた。同じ髪色と、瞳の色。顔が似ていなくても、娘という事実と父親を彷彿とさせる色彩だけで憎むには十分だったはずだ。

 こんな女、見るのも嫌だろう。


 はだけた胸元からは、ほとんど膨らみのないことが見て取れる。

 こんな貧相な痩せた小娘など、誰が抱きたがるだろう。

 彼の恋人とは比べ物にならないくらい貧相な体だ。彼女は美しい金髪を持ち、豊満な体を彼に押し付けていた。私と比べるのも烏滸がましいくらいだ。


 俯く先に、彼の逞しい胸が見える。彼はこれまで、一体何人の女の人を抱いてきたのだろうか。

 ああ、彼と私とではこんなにも住む世界が違う。私では力不足だ。どうして大丈夫だと思ったのか。

 ずきりと走る胸の痛みは、さっきよりもずっと痛かった。


「っ……」


 じっと俯いていたら、不意に視界が暗くなった。

 厚い胸板を頬に感じる。彼の身体は温かくて、その心臓の音は強く逞しく、速い鼓動を打っていた。


「ルイーゼ、寝よう」


 そのまま抱きかかえられて、布団の中へ押し込まれた。続いて彼の大きな体が布団へ入ってくる。

 訳も分からず目を白黒させるばかりの私のことを、彼は再び抱きしめた。


 彼の大きな手が、私の頭を撫でていく。ゆっくり、子供をあやすように。

 私は彼の身体で真っ暗に閉ざされた視界の中、目を見開いて涙をこらえていた。


 私は何を彼に求めていたのだろう。愛もなく抱かないで欲しいと思うのと同じくらい、きっと少しは彼に女として見られたいと思っていた。

 何の感情も持たずに身を差し出す覚悟を決めてここまで来たはずだった。彼を目の前にして、彼に口付けをされたらそんな覚悟はあっけなく崩れ落ちた。彼の一挙一動に揺れ動く心は抑えられなかった。


 自分の現在の状況がよく分からない。私はなぜ彼に抱きしめられたままベッドに入っているのだろう。

 彼が私に向ける感情が分からない。こんな見た目の女、しかも仇の娘などたとえ偽りでも抱きたくないという気持ちはよく分かる。だがそんな相手を抱きしめて頭を撫でたりなどするだろうか。


 分からない。分からないの。教えてよ。ねぇ、ヴォルフ。


 こらえきれずに落ちた涙が、目尻からあふれ出してベッドのシーツへ一粒だけ落ちた。


 落ち着かせるように頭を撫で続ける大きな手。昔、嫌なことがあった日はこうして母様が私を抱きしめて頭を撫でてくれたことを思い出した。

 母様――。

 優しい記憶と共に、私は意識が徐々に遠のいていくのを感じた。


 ごめん、ルイーゼ。

 暗闇の中へ落ちていく間際、そんな声が聞こえたような気がした。


 本当にその声が彼から発せられたのだとしたら。



 彼はどうしてそんなことを言うのだろう。

 私には、彼の両親を殺した男と同じ血が流れているのに。

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