8.春風
「ルー。昼間、どうにかして出てこれないか?」
前回不機嫌な様子だった彼だったが、今日はこんなことを言ってきた。もうあの時のような不機嫌さは一切伺わせない。
ちょうど喫茶店で綺麗な景色についての話をしていたところだった。この街を出たことのない私は海を見たことがなくて、それを伝えると彼は異国の海がどんなに綺麗なのか言葉を尽くして説明してくれたのだ。瑠璃色に透き通った水なんて私は見たことがなくて、空の色を映した水面なのではないかと問うと、それとはまるで違うのだと彼は言った。
そして一瞬考え込むような間を置いての、先ほどの言葉だった。
「どうして、そんなことを言うの?」
私が昼間に屋敷を出るのは避けたいのだということは伝えてあったはずだ。
ヴォルフはうっとりするような完璧な笑顔を見せた。いつものどこか嘘くさい笑顔だ。
「見せたい景色があるんだ。馬には乗れる?」
「いえ、乗れないけれど……」
「じゃあ俺の前に乗せていこう」
すっかり行くことになっていて私は面食らった。
昼間に屋敷を抜け出すのは、出来ないことはないだろう。だが私と彼との交際がばれるような危険を冒させてまで見せたい風景とはどんなものだろうか。純粋にそれは少し気になった。
「ええ……まぁ……抜け出せないことはないと思うわ。ただ、本当に家の人にはばれたくないの。短時間でお願いしてもいいかしら?」
「ああ。ここからそう遠くないし、すぐ帰ってこれる。では、明日にでもどうだろう」
「分かったわ」
僅かな不安に心が揺らぎ、目の前の紅茶からゆらゆらと立つ湯気をぼんやりと眺める。すらりとした腕が湯気に重なり、私の頬にそっと指が添えられた。その指の温かさに一瞬ドキリとして、視線を揺らした後に彼の方を見ると穏やかな笑顔を浮かべた綺麗な男がいた。
「良かった。じゃあ、楽しみにしているからね」
「……ええ」
びっくりした。本当に嬉しそうに笑うから。
そんなはずないのに。
ただ、ヴォルフがこんなふうに私をいつもの逢い引きとは違う形で誘うのは初めてだったから、その真意が読めなくて私は混乱していた。
気分を落ちつけたくて、カップの紅茶を口に含む。ほどよくぬるくなった紅茶を飲み下すと、華やかな香りが鼻を抜けていく。
――ヴォルフが明日の外出を本当に楽しみにしてくれていたらいいのに。
気が抜けたのか、ふと浮かんだのは馬鹿げた願望だった。
直後、そんなことを考える自分にはっとして身体が硬直した。紅茶の水面が大きく揺らぐ。
「っ……ごほっ、ごほっ……」
動揺した私は紅茶にむせて激しく咳込んだ。
「だ、大丈夫か? ルー」
慌てたような声がかかり、咳込む私の肩を大きな手がさすった。
ああ、辛いなぁ。
こうやって心配してくれるのが嬉しいだなんて。
彼にどんどん気持ちが傾いていっているのは自覚している。特に最近はめっきり睨まれることが減り、まるで本当の恋人のように大事に接してくれることが多い。そんなヴォルフに惹かれないという方が無理な話だった。
でも、彼の気持ちは私にはない。知っているのだ。
私は切に祈った。一刻も早く復讐を遂げさせてください、と。
そうでないと、早く彼から離れないと、別れがどんどん辛くなる。
私たちの関係には終わりがある。それはそう遠くない話だ。
だから、彼に惹かれるなんて無意味なことなのに。
私はいつものように左手の指先を右手で握り込んだ。
* * * * *
私は初めて昼間に屋敷を抜け出した。
私の侍女はきわめて減っているし、ここ最近『体調を崩しがち』な私がまた寝込んだと言っても誰も疑わなかった。心配してくれる人もいなかった。
「ヴォルフ」
「ルー。良かった。抜け出せたんだね」
良い馬を予約してあるんだと言って彼は私の手を引き、町はずれの厩まで連れて行った。
栗色の毛並みの馬は、恐る恐る近づいた私にも驚かず大人しくしていた。こんなに馬に近づいたのは生まれて初めてだった。母様と住んでいた頃は馬に近づく機会なんてほとんどなかった。
そっとたてがみに触れる。柔らかな手触りだ。ほのかに馬の体温が肌に伝わってくるのは初めての経験で、動物特有の獣臭さを期待とともに胸いっぱいに吸い込むと鼓動が早くなった気がした。
私の後ろに立っていたヴォルフが軽々と馬に飛び乗り、急なことで呆気にとられる私に向かって手を伸ばしてきた。
「おいで」
太陽の光を反射してつやつやと輝く黒髪に、宝石のような輝きを放つ紫の瞳。私のものとは違い、力強く太い腕。
まるで王子様みたいだ。
私は小さい頃に母が読み聞かせてくれたおとぎ話を思い出していた。
陶然としたような気分のままふらりと手を取ると、ぐっと引き寄せられた。難なく馬の上に横向きに乗せられる。またがれる? と聞かれたので恐る恐る片脚を反対側に回した。
「偉いぞ」
後ろから耳に注ぎ込まれた低音の囁き声に、一瞬で顔が茹で上がる。気が付いたら彼は私の腹に左手を回して体を支え、右手で手綱を握っていた。私の背中は彼の腹部と密着し、引き締まった体の固さを私に伝えてきた。
――ど、どうしよう。ドキドキして死んじゃいそう。これが伝わってしまったらどうしよう……。
首元まで熱くなっている感覚があり、どうか気付かないでいてと私は祈るような気持ちで馬のたてがみをきゅっと掴んだ。
徐にヴォルフが馬を歩かせ始め、揺れる馬上に私は面食らう。
お、落ちる……!?
初めての馬上はとても不安定に感じ、私は慌てて腹に回された彼の腕にしがみついてしまった。ふふ、という吐息交じりの笑い声が耳を掠め、もともと上がっていた心拍数がますます上がる。
「大丈夫だよ。俺に身を任せて」
不安な気持ちと、頭に流し込まれる甘い声で心臓の鼓動が高鳴ったまま戻ってこない。まるで他人の心臓みたいだ。
乗馬に体がようやく慣れてきても、胸のどきどきは収まらなかった。
なぜなら、彼の逞しい身体が真後ろに密着しているからだ。不安定さに気を取られていた分、慣れて気にならなくなると余計にヴォルフの身体を意識してしまう。ヴォルフが気を遣って話しかけてくれるが、気もそぞろに返事をした。
もう、早く降ろして。
半ば魂が抜けかけたまま馬に乗っていると、やがて街道から細い道に逸れ、山の麓の森の方向へと馬は進んでいった。
「もうすぐだ。森へ入れば10分もかからない」
心なしか彼の声も弾んで聞こえる。なぜだろうか。
恐る恐る彼の方を振り返ってみると、それに気づいたヴォルフは私に向かって唇の端を軽く持ち上げて見せた。いつも見る作り物のような満面の笑みよりずっと素敵だった。
美形はこれだから良くない。どんな表情をしても映える。
私はまたしても上気してきた頬を隠すために慌てて前を向いた。
私たちが乗っている馬は徐々に増えてきた木々の間を抜け、細い道から獣道のような道になっても迷わず前へ進んだ。
「こんな森の中に、一体何があるの?」
「それは見てのお楽しみ。ほら、もう着くよ。ひらけたところがあるのがちょっと見えるだろう?」
確かに、木々の間からひらけた場所が見える。木の幹の隙間から見えるのは、キラキラとした何かだ。
あれは何だろう、と思う間に馬は進み、木々を抜けた私の目に飛び込んできたのは青い水面だった。
「わぁ……っ!」
ただの青ではない。ただ、空を映したような青などではない。
淡い青緑色の宝石を溶かして流し込んだような、そんな色だった。彼の言っていたことをはっきりと理解した。
今まで見たことのない水の色をした湖と、それを取り囲むように静かに佇む木々。晴れ渡った空を飛び交う鳥たちが、静かな水面に軽やかな鳴き声を落とす。湖の周りには色とりどりの花が咲き乱れていた。
こんな景色は初めて見た。こんなにも、美しい場所は。
「ほら、綺麗だろう?」
興奮した私の背後から響いた低い声が私の鼓膜を甘く揺らし、支えていた手がそっと私を地面へと降ろした。
しばらくぶりの固い地面にふらついた私を支えたのは、素早く馬から降りた王子様のようなひとだった。私はふわふわとした気持ちのまま、うっとりと溜息をこぼす。
「ええ、……ものすごく、綺麗。夢みたい。ここは、現実?」
「ああ。まさしく現実だ。でも別世界だと勘違いするくらい美しいだろう? ……俺の、特別な場所なんだ。ここは」
私は声音の変わった彼にふと振り向いた。
降り注ぐ陽光のなか、見たことのない儚げな表情をした黒髪の男がそこにいた。その目は遠くを眺め、まるでこの場にいないようだった。
「特別?」
「そう――特別。辛いことを思い出した時は、必ずここに来た。だから、この景色を君、に……」
不自然に途切れた言葉。不意に口ごもった彼のアメジストの瞳が私を捉えた。夢から醒めたように焦点を徐々に合わせると、狼狽えた視線が辺りを彷徨った。
そしてやや乱暴に私を抱き寄せると、私の肩口に顔を埋めた。彼自身を落ち着かせるためのような吐息が数度繰り返される。
「君に、見せたくなったんだ……こんなにも綺麗な景色があるって、知ってほしかったから」
私は息を呑んだ。
「ありがとう」
この言葉以外には必要ない。私はそう思って、宝物を抱えるように大事に大事に言葉を落とした。何か伝わったのか、ヴォルフは私を抱き寄せる腕に力を込めた。ムスクが強く香る。ムスクは、いつしか安心できる香りになっていた。
いつも偽りばかりの彼の言葉は、これだけは本当なのだろうと感じた。何故そう思ったのかは分からないが、私は確かに本物の思いを感じ取った。
彼の腕にさらりと触れる。緊張しているのか固まったままの腕から少し力が抜けた。
私とヴォルフを、穏やかな風が撫でていく。
私はこの時間がずっと続けばいいと思った。私たちの間にこんなにも穏やかな時間が流れたのは初めてだった。
「あなたがいつもつけている香水、いい匂いね」
「ああ、ムスクだよ。でもこれは香水じゃない、匂い袋なんだ。ずっと昔に、家族からもらった。それ以来ずっと中身を新しくしながら持ち歩いているんだ」
家族。それは、ヴォルフが過去に失った――。私の、父親が奪ったという、彼の家族。
胸を突くわずかな痛みで顔を上げた。
ヴォルフがそっと私を腕から解放した。じっと彼を見つめる。
お互い言葉もなく、ただ瞳の奥を覗き込んでいた。
彼を見上げていると、視界の隅に彼のアメジストと同じ色を見つけてそちらを振り向く。
そこには紫色の花が群生して咲いていた。鮮やかで澄んだ色の紫だ。
私は彼の手を離れ、ふらりとそこまで歩いていく。
「ルー?」
「あの花を、近くで見てみたくて」
はにかんだ表情で俯きがちに彼の方を見る。何処かほっとした顔をした彼は伸ばした手を徐々に下ろした。
「紫のアネモネなのね」
近寄って見ると、見慣れた花が凛と咲いていた。
庭に咲いているアネモネの花を窓からよく眺めていた。けれど、ここまで鮮やかな紫色のアネモネは見たことがない。
「ほら、見て」
そう言って、私を追うように近づいてきた彼の手を取る。一緒にしゃがみ込むと、余計にその色の相似がよく分かった。
吸い込まれそうな紫紺の瞳。私はまだ、初めて出会ったときの突き刺すような衝撃を覚えている。
「貴方の瞳の色にそっくり。とても綺麗」
「そんなに似てるかな」
「ええ」
浮かされた私は、思うがままの言葉を口にした。
「私、この花が好き。アネモネの花……紫のアネモネは始めて見たけど、すっかり大好きになってしまったわ」
「そう、か……」
ほのかに朱に染まったように見えるヴォルフの頬。
春の風がふわりと吹き上がり、淡い色の花びらが巻き上げられて空高く舞い踊った。
風に揺れたフードに大きな手が伸びる。あ、と思う間もなくフードが外され、唇がさらわれた。
重ねるだけのキスを、数秒間。
ぶわっと顔に血が集まったのを感じた。
そっと唇を離し、こつんと額を合わせる。恥ずかしくて目を伏せそうになるが、彼の口元から目が離せなかった。胸が破裂しそうに脈打ち、私はしきりに瞬きをした。
「それなら、またここへ一緒に来よう。いくらでも」
うっとりするような笑顔で、彼はそんな言葉を吐く。
言葉が出なかった。顔からさぁっと血の気が引いていく。
「また」「いくらでも」だなんて。その言葉を、貴方が言うの――。
悪意ない嘘が、私を傷つける。彼はもしかしたら本気で言っているのかもしれないが、それはいずれ嘘になる。
冷たくなってきた風が、私を現実へ引き戻した。
私は返事をしなかった。全てを隠すように、返事の代わりにヴォルフの体へ抱き着いた。
そうすれば、何も見えないから。
何も、見たくないから。
アネモネの花言葉は「恋の苦しみ」、
紫のアネモネの花言葉は「あなたを信じて待つ」です。
作者個人としてはこのシーンが一番好きで、力を入れて書いています。