7.嘘
鏡に映った自分の顔を見て、私は眉根を寄せた。
泣いた顔と擦りすぎた唇をそのまま放置したせいで、翌日の私の顔は酷いことになっていた。
「あー……」
これはひどい。
今日はゆっくり休まなくては。
体調が悪いから部屋で休むという旨を、部屋の近くを通った侍女に言いつける。
計画に乗ると決めてから、私の世話をする侍女の数は徐々に減らしてきている。迷惑をかけるからだ。下手をすると命を危険に晒しかねない。
私が我儘を言って世話をさせたがらなくなった、という体にすれば簡単に次の職場を紹介することができた。義母には「庶子は人に世話をされることに慣れていないのね」などと嫌味を言われたが、解雇することには文句を言われなかった。
私に比較的同情してくれていた彼女らは、名残惜しそうに私の元を去っていった。そう思ってくれただけで私の心は少しだけ癒されていたということは誰にも言えなかった。
紹介先は父親の伝手を勝手に使って評判の良いお屋敷にした。彼女らもきっといきいきと仕事ができているだろうと思う。
だが、ゆっくり休むと決めたはいいが今日はヴォルフとの約束の日だった。
これまで以上に彼に会いたくないという気持ちが強い。出来ることなら顔すら見たくない。
昨日の悲しさがまた胸にこみあげてきて、頬に一筋の涙が伝った。
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、私はベッドの中にもぐりこんでじっと膝を抱えた。
食事をする気にもならず、私は夕方まで結局水しか摂取しなかった。
夕食にだけはなんとか顔を出し、食べ物を受け付けようとしない胃にどうにか少量詰め込んだ。その頃には目の腫れも少し収まったが、切れた唇はかさぶたを作りまだ腫れを残していた。じろじろと無遠慮に顔を見てくる義母や義兄だったが、なぜだか特に何も言ってはこなかった。
「ルー、その唇どうしたんだい?」
開口一番そう言うと、ヴォルフは心底気づかわしげに私をじっと見つめた。
私は口ごもる。まさか心配されるなんてつゆほども思っておらず、言い訳など何も考えていなかった。
「…………乾燥して、荒れてしまって」
「そうか。今日は顔色もすごく悪い。大丈夫なのか?」
「……」
先ほどから有り得ない発言ばかりが彼の口から飛び出る。私は幻聴でも聞いているのだろうか。
私はいよいよ何も言えなくなってしまった。
会いたくなんかなくて、会ったらまた涙が出そうになって非常に困っていたが、今は戸惑いだけが胸を占めそれどころではない。
「今日は帰ったらどう? また3日後に会おう。その頃には元気になっているだろう」
「え」
「そんな顔で一緒に居られても、心配でどうにかなってしまいそうだよ。ほら、今日は帰ろう」
この人は本物のヴォルフだろうか。訝し気な視線を向ける。
彼はじっと私を探るような目で見ていた。
そしてその手が私に伸びる。
あの手は昨日あの彼女に触れた手だ。彼女の素肌に触れ、大事に抱いた手だ。宿の中へ消えた二人の姿が鮮明に蘇る。
――嫌だ、触らないで!!!
私は反射で一歩後ずさり、伸ばされた手をぱしりと振り払ってしまった。
「あ……」
私は信じられないような目で自分の手を眺め、振り払った相手の手を眺めた。
「……」
どうしよう。
彼は酷く驚いた顔をしていた。それはそうだろう。私だってとても驚いている。
どう、しよう。
私は左手の指先を右手で握りこんだ。
困ったような苦笑いを浮かべた彼は、私に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
慎重に慎重に、私の固く握った手に触れる。不思議と今度は嫌な気分がしなかった。
私が拒否しないと分かると、ヴォルフは私の固まった手を優しい手つきでそっと解いていった。
「俺のことが、嫌?」
まるで幼子をあやすように揃えた両手を彼の両の手のひらに乗せられ、不安げな顔で見上げられた。
ずるい。そんな顔。
嫌だ、と心の中では即答したいはずだったのに、なぜかそうは思えなかった。
「嫌じゃないわ。……振り払ってしまって、ごめんなさい」
そう答えても、ヴォルフは変わらず困ったような笑顔でこちらを見つめていた。どこか傷ついているようにも見えた。
こんなの、ヴォルフじゃない。
こんな優しさを向けるなんて、彼じゃない。
おかしい。何かがおかしい。
けれど、そのおかしさがどうにも嬉しくて、そんな自分が心底おぞましいと思った。
* * * * *
その後ヴォルフとは何度も逢い引きを重ねた。レジスタンスでも顔を合わせた。
あれきり、彼はレジスタンスで会っても私の悪口を一切言わなくなった。違和感しか感じなかった私は彼をじっと観察し、彼も『ルイ』を観察しているようだった。
居心地が悪い。
時折、何を考えているのか分からない視線を向けられていることを感じている。その度に彼は全てを知っているのではないかという思いが膨らみ、不安ばかりが募った。
この間拒絶するような態度を見せてしまったのが良くなかったのかもしれない。
彼との逢瀬の間、ずっとどこかから誰かが見ているような気配がある。レジスタンスで見かけた男が近くを通る頻度が高かったりするから、きっと私たちは最初から見張られている。
あの態度を見られてしまったなら、もしかしたら誰かが彼に注意をしたのかもしれない。拒絶などされないくらいに、グズグズに甘やかせと。詰めが甘いと怒られもしたかもしれない。彼の憎悪の視線は、とても分かりやすかったから。
ヴォルフは人が変わったように私に優しくするようになった。
彼はもともと優しい人だったのだと思う。その優しさを憎い相手に与えなかっただけで。
私が少しでも体調が悪そうにしていれば気を遣い、慈しむような視線を向け、完璧なエスコートをする。彼が今まで見せていた油断や隙が、一切なくなった。
勘違いしそうだった。
まるで、本当に私を愛してくれているように見えて。
そんなわけがない。私はヴォルフの本心をとっくに知っている。
気が狂いそうだった。
「ルー。好きだ」
私を抱きしめて、ヴォルフは切なそうな声で囁く。
「……好きだ。ルイーゼ」
そのまま唇を奪われて、私はもうやめてくれと叫びたかった。
キスをする場所は変わらない。暗くて色彩など見えない場所。
彼は何も変わっていない。隙を見せなくなっただけ。
もう、やめて。
彼の声など聞きたくなかった。私を殺したいと言ったその口で、彼女に口付けたその口で、私に愛を囁き口付けることが許せなかった。
ただキスをするだけなら、相手がヴォルフだということを認識せずに溺れられた。
だが彼はキスの合間に好きだと囁くようになった。
私の脳に、彼の声と口づけの甘さが徐々に刷り込まれていく。
もう相手がヴォルフではない人だと思い込むことができなくなっていた。
私に、重ねるだけの熱い口づけを降らせるヴォルフ。決してそれ以上踏み込んで来ようとしないのに、まるで私を貪欲に求めるようなキスをする。
ヴォルフは、私を好きなのかもしれない。
そんな勘違いをするくらいには、私は彼とのキスに夢中になっていった。
部屋に帰って一人になると、思い出すのだ。
彼に吐かれた言葉の一つ一つ。宿に消えていった二人の姿。
私に見せるヴォルフの姿は、全部偽物だということ。
思い出しては、先ほど口づけられた唇をそっと撫でた。まだ彼の熱がそこに残っているかのような温かい唇。
あれは嘘だ。偽物だ。
私はそれを忘れてはいけない。
私を悩ませるものがもう一つあった。
レジスタンスで見かける、ヴォルフと店の娘との距離感だ。
どのタイミングからだったかは分からない。
彼らはいつの間にか適切な距離を置くようになっていた。話しているところを見かけないわけでは無いが、明らかに頻度が減っている。
しかも、以前はすぐに触れられるような距離にいた二人が、そんな距離を取らなくなった。
私はそれを見かける度に、心のうちに宿る昏い歓喜と罪悪感に苛まれるようになった。
彼らのふれあいを見るのが辛かった。どんな関係性なのか、目に浮かぶようだったから。
見かけなくなったことに安堵した。私だけをヴォルフが見てくれているのかと更に勘違いしそうになった。
同時に、私のせいで二人の関係が破綻しかけているのではないかと危惧した。ここにいる彼女が、私とヴォルフとの関係を知らないはずがない。報告もきっと受けているはずだ。
そのせいで、こうなってしまったのではないかと。
罪悪感だけは、レジスタンスへ顔を出すたびに日々膨れ上がっていった。
彼は、何も言わない。
ただ観察されている。
澱が積もるように、愛されたいという思いと罪悪感とが蓄積していった。
* * * * *
今日も逢瀬の日だ。
私は今日も彼に逢いに行く。
いつまで続くのだろう。計画に進展が無いように思う。
進めばどうなるかは分かっている。私は彼に抱かれることになる。
覚悟はできている。私は――復讐のためなら、どうなったっていい。こんな体、いくらでも差し出そう。
いつもの道を待ち合わせ場所まで向かっていると、それまでベンチで本を読んでいた男性が私が横切るタイミングで立ちあがった。帽子を被り、身支度を整えた男性は、読んでいた本をベンチに忘れてそのまま立ち去ろうとした。
私はその男性の置き土産に目を惹かれていた。
たまたま目にしたものとはいえ、彼の読んでいた本は私の大好きな推理小説だったからだ。
そのまま立ち去っていく男性の背に向かって私は思わず「あの!」と叫んでいた。
周囲をきょろきょろと見回した男性は、私に気付いて振り返った。
「ええと……僕ですか?」
振り返ったその人は、さらさらとした銀髪の人だった。
「はい。本を、忘れていらっしゃったので」
そう言って私はベンチから本を取って彼に渡した。彼ははにかんだような笑みを浮かべて私に穏やかな視線を向けた。
「ありがとうございます。すっかり忘れていました。大好きな小説なのに」
「そうなんですか! 私もその小説、好きなんです。だから見過ごせなくて……。主人公がとっても素敵ですよね。とんでもなく賢いのに、少し抜けているところがあって」
「え……! 分かります、主人公が最高ですよね! その抜けているところをさりげなくサポートする助手との関係性も。ああ、分かってくれる人と出会えて良かった」
彼は紅潮する頬を隠さずに私に笑みを向ける。
私は高揚した気分を感じた。ここ最近、感じていないものだった。
同志と出会えてよかったと素直に思った。なかなかこんな話をできる人はいない。
「私もです! その巻のエピソードだと、助手との関係性が大きく動く章が最高ですよね。……あの、すみません、失礼ですがお名前をお伺いしても?」
「ああ、僕のことはヨルンとお呼びください。貴女は?」
「私はルイーゼです」
そう名乗り合い、私たちはその推理小説について話に花を咲かせた。
最近ヴォルフとの会話を心から楽しめなくなっていた私にとってはとても心休まる時間だった。何より、好きな小説について私と同じくらいその小説を好きな人と話すことがこんなにも楽しいなんて。
私はヨルンとの会話を楽しんでいた。ここ数日私の心を悩ませていたヴォルフとのやり取りをすっかり忘れるくらいに。
好きな小説について人と語り合うのはこんなにも楽しいことだったのか。
私はこれまで知らなかった。
頬を紅潮させながら口を必死に動かしているという自覚はあった。
もう少し話したい。
そう思いながらも、ヨルンと二人で歩いた先にはヴォルフとの待ち合わせ場所があった。
「あ……ごめんなさい。ここで人と待ち合わせをしているんです」
「そうでしたか。でも、貴女と話す時間はとても楽しかった。あの……もし良かったら、今度二人でまた会えませんか? こんなにこの小説について話が合う人は初めてで……」
また会いたい。
またこの人と語り合いたい。
それくらいに、私は何の憂慮もなく会話できる人の存在を求めていたのだと思う。
だから、私はそれに諾と答えようと口を開いた。
「その必要はない」
答える間もなく、私は誰かの腕に引き寄せられた。そうして腕の中に閉じ込められ、犯人が誰かと見上げると――そこには、私の待ち合わせ相手がいた。
ヴォルフは鋭い眼光でヨルンを睨んでいた。高揚していた気分が急速に冷えていく。
「そ……それは失礼いたしました。では」
「あ……」
私は名残惜しそうにヨルンの背中を見つめた。
私は彼の連絡先など何も知らない。それでは今後こうして語り合うことも会うことすらもできない。
非難するような視線をヴォルフに向けようとして、私は凍り付いた。
そこには氷点下の視線だけがあった。
「なに、してるの?」
ヨルンに向けられていたはずの鋭い視線が、今度は私に向けられていた。
私は何も言えなくなり、何度か口を開けたり閉じたりして、最終的には口をつぐんだ。何と言っていいか分からなかった。
でも、だって、貴方は本命の女の人と――。
そう言いたかったけれど、そんなこと言えなかった。
私は悟った。ヴォルフと恋人の振りをするということは、そういうことなのだと。
理不尽だと思っても、仕方がないのだ。私は彼を騙そうとしているのだから。
「……何も。たまたま好きな本が同じだっただけの人と話していただけよ」
そう、とぶっきらぼうに言うと、彼はこちらを見ずに歩き始めた。私は慌てて彼の背を追いかけた。
その日、彼は始終にこやかに笑っていてもどこか不機嫌そうな空気を漂わせたままだった。
計画が上手くいかなくなりそうだと思って苛立っているのかもしれない。私が他の人に気移りするのではないかと。
そんなこと、しないわよ。貴方じゃないんだから。
恨み言は胸の内に留めた。この言葉は決して表に出ることはないだろう。
彼と私が本心で語り合うことなど無いのだから。
今までも。これからも。
ヨルンは初期プロットではルイーゼの体の弱い弟として登場予定でした。プロットに不都合が出てきたので存在を一旦抹消しましたが、可哀想なので当て馬役として供養するために登場させています。