表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/14

6.疑念

 ヴォルフなんか大嫌いだ。


 叫びだしそうになって、声を出す前に眠りから覚めたことに気付いた。


 もちろん昨日言われたこと、されたことは夢などではない。私はあの後泣きながら部屋まで帰り、泣き疲れたようにそのまま寝入ってしまったのだった。

 見た夢の内容は覚えていない。けれど、辛くて悲しい思いばかりが胸を占めている。

 こんなことで大泣きする自分が嫌だった。上手くやれていると思っていたけれど、ここまで傷つくなんて思っていなかった。

 私はまだまだ弱い人間なのだ。


 ベッドの中でしばし呆然とする。虚ろな視線を窓へ向けると、いつも通りの青い空が窓の外に広がっているのが見えた。


「……ヴォルフなんか、大嫌い」


 小さく呟く。その言葉はストンと胸に落ちてきて、傷ついた心を少しだけ慰めた。


 そうだ、嫌いな相手なんだから、何を言われたって傷つかない。私だって彼が嫌いだ。

 私は昨日までヴォルフのことが嫌いではなかった。嫌われていることは知っていたけれど、私が彼を嫌う理由にはなり得なかった。

 でも私を別人だと思っているとはいえ、あんなことまで言われて嫌いにならないわけがなかった。

 好きに言っていればいい。私は彼を利用して、彼も私を利用しているだけなのだから。


 そう思ったら少しすっきりとして、私はベッドからのそのそと立ち上がる。


「ヴォルフなんか、大嫌いよ」


 さっきよりも少しだけ大きな声で、そう呟いた。



* * * * *



 またしても彼と会う日がやってきてしまった。

 いつも気が乗らないが、今日は尚更気が乗らない。できることなら会いたくなどない。


「はぁ……」


 溜息ばかりが漏れる。

 仕方がない。行くしかないのだ。


「がんばれ、私」


 鏡の中の自分に向かって無理矢理笑顔を作った。



 重い足を引きずって向かうと、いつもの待ち合わせ場所にヴォルフが立っている。

 私は足を止めた。


 遠目からでもあの顔を見たら何だか腹が立ってきた。

 ――なによ、言いたい放題してくれちゃって。あんただって見てくれだけじゃない。

 恨み言ばかり溢れ出てくる。私は少しだけ口を尖らせた。


 ヴォルフに対して怒っていないと、ようやく塞がりかけてきた傷口が開きそうになる。


 それとは別に、心にずっと引っかかっていることがある。あの時の彼の様子だ。あの、去り際のおかしな様子。

 ヴォルフは何かに気付いたのだろうか。『ルイ』が私であることに、もしかしたら気付いたのかもしれない。

 そんなはずはない、と思いたかった。私はあれだけ偽装に偽装を重ねてあの場にいる。たった2回会っただけで見破られてなるものか。


 だいたい、彼が気付いていたらこうして会うこともなくなるだろう。

 もしかしたら、もしかしたら今日振られるのかもしれない。それどころか、もしかしたら殺される可能性だってある。

 そう思ったら背筋が凍る気がした。


 『俺がこの手で殺すんだった。今から楽しみだよ』


 ヴォルフの冷たい声が脳裏で蘇る。

 彼なら、『ルイ』の正体に気付いていたらきっと私を殺すだろう。計画を知っている私は危険因子にしかならない。


 十分気をつけて会うことにしよう。

 私はそう心に決めて歩みを進めることにした。


「ヴォルフ」


 顔を上げた彼は、何を考えているか分からない表情をしていた。

 私はその顔をじっと見つめた。

 相変わらず腹が立つくらい綺麗な顔だ。


 その綺麗な顔が不意に笑みの形を作って、彼は私に向かっていつものように手を差し伸べた。


「ルー。待っていたよ。さあ、行こう」

「え、ええ」


 いつも通りだ。

 怖いくらいに、彼の態度はいつも通りだ。


 じっと繋がれた手を見る。

 いつもと違うのは、私の指の形をなぞるように彼の指が私の手を撫でまわしていることだけだ。

 何が目的だ。彼は何を考えているの。


 母譲りの綺麗な爪の形以外に、私の手に特徴など無い。至って普通の手だと思う。体格が華奢な方だから、指も細く華奢に見える。だが、その程度だ。

 彼の触り方にいやらしさは感じない。ただ探るような手つきだけが私の手を這いまわった。

 背中を伝う嫌な感じの汗が気持ち悪かった。



 その後もいつも通りの逢瀬が続く。

 今日はまた違う国の話を聞いた。国土が山がちでたくさんの貴重な宝石が採れる国の話だった。

 私が控えめに笑うと、彼もうっとりするような綺麗な顔で笑う。


 元々偽物だと知っていたけれど、彼の本心をはっきりと聞いてしまった後だと尚更嘘くさく感じた。


 笑え。心底楽しそうに笑え、私。

 彼との会話だけが、唯一心から楽しいと思えるものだった。けれど今日は彼の様子が気になってしまい、どうにも気が散る。


 私は結局、気もそぞろに会話をしてちっとも楽しめなかった。

 彼に気取られていないかが心配だ。

 私の心配をよそに、彼はいつも通りだった。私の様子をどのように考えているかは分からなくても、態度だけはいつも通りだった。



 そして、いつもの帰り道。

 いつものようにキスをする。


「……え」


 はずが、軽く唇を重ねただけで、彼は私を解放した。

 私は拍子抜けして、呆けたような顔で彼を見つめた。


「どうかした? ルー」

「え、いや、……なんでも」


 不安が押し寄せる。

 やっぱり、バレているんじゃ。

 ――改めて言葉にして、私のことをもっと嫌いになったのかもしれない。

 繕うようにそう考えて、余計に心に重しがのしかかったような感覚を覚えた。


「もしかして、足らなかった?」


 そう言って、ヴォルフは意地悪そうに笑った。

 私はどう言うのが正解だろうか。一瞬考えて、まだ計画に乗せられている状態だとするなら「足らなかった」と言うべきだと結論が出た。

 だって、今日彼は私を振らなかった。殺意だって感じなかった。解散後殺すつもりなら、こんなことを言わなくても済むだろう。

 彼は、このまま計画を進めるつもりだ。私はそう判断した。


 そこまで考えて、今日はキスを終えても憎悪を向けられていないということに気が付いた。

 見上げる彼の瞳は、闇に暗く沈んではいるが穏やかなままだった。

 なぜだろうか。

 分からないが、今は彼に合わせるべきだろう。


「……そうよ」


 自分でそう言いながらも、なんだかいたたまれない気持ちになって軽く俯くと、顎をくいと持ち上げられて少々乱暴に口づけられた。まるで我慢ならない、というような。

 乱暴だけど、痛くはない。優しさすら感じるような気がした。


 鼓動が一気に高鳴る。

 私を抱き寄せる腕の力が強くなる。

 勘違いしそうだ。そんなはずはないのに。


 私は強く、強く目を瞑った。そうすれば何も見えない。

 これはヴォルフじゃない。私を憎む人じゃない。

 私を大事に大事にしてくれる人。ただ私だけを求めてくれる人。


 ――もうそんな人が存在しないことなんて心の底では分かっている。


 私はぎゅっと目の前の体にしがみついた。繰り返される口付けのわずかな合間。


「……好き」


 初めて口にしたその言葉は、あまりにも軽く空気にほどけて溶けていった。

 ヴォルフのことなど大嫌いだ。

 だけど、目の前の人はヴォルフではないから。誰だか分からないけれど、私に優しい口づけをくれる人だから。

 だから、嘘じゃない。


「好きよ」


 私は馬鹿な女。

 こうして口付けを与えてくれる優しい男に愛を囁く。


「ああ、俺も好きだよ、ルー」


 『俺に媚を売るような女が一番嫌いなんだ』


 掠れるような小さな声。

 だが、あのとき私は同じ声が正反対のことを言うのを聞いた。

 耳を塞ぎたかった。貴方の声は要らない。もう聞きたくない。

 現実に、引き戻されるから。

 目を瞑ることは簡単でも、耳は簡単に塞げない。


 私は左手の指先を右手で強く握り込んだ。

 耳から入り込んでくる冷たい嘘が、私の体を芯から凍らせていくような気がした。


 ――ヴォルフなんか、大嫌いだ。


 私は悲鳴を上げそうな胸の痛みの中、そう強く思った。



* * * * *



 普段通りの『ルイ』の格好をして私は街を出歩いていた。

 目当ての情報はもう買った後だ。あとはもう帰るだけだが、少しぶらぶらとすることにした。


 夜のお出かけは好きだ。ここにいるのは窮屈なお屋敷に閉じ込められた可哀想な令嬢でもなければ、嘘をついて男と騙し合うような女でもない。母様が生きていたころの自由な身の上と同じだ。

 あの頃も身軽にいろいろなところに出かけてはお転婆をした。みなしごの少年たちと追いかけっこをしたり、誰かの探し物を手伝ったり。

 そして帰った後、母様にその日あったことを話すのが好きだった。母様はいつだって笑顔で話を聞いてくれた。危険なことをしたらもちろん怒られたけれど、基本は自由にさせてくれた。

 あの頃の記憶が今の私を形作っている。


 今日は何をしようか。広場に座って街ゆく人を眺めているのも好きだ。困った人は大抵広場まで出てくる。そういった人を捕まえて手を貸すのも楽しそうだ。

 そう思って広場へ足を向けようとした時だった。


「……ヴォルフ?」


 レジスタンスの拠点の方向から、見慣れた人影が歩いてくるのが見えた。

 私は慌てて物陰に隠れる。手に汗が滲み、心臓がバクバクと音を立てて拍動しているのが耳元で聞こえるようだ。


 盗み見たその人影は、間違いなくヴォルフだった。

 だけど、表情は全く違った。


 ――あんな顔、私は知らない。


 笑顔だった。

 私に向ける、作り物みたいな笑顔ではない。彼は自然な笑顔の時は顔をくしゃりとするように笑うのだということを初めて知った。


 そしてその隣には、レジスタンスでも見た店の娘がいた。彼と親し気に話していた、あの娘だ。

 こっそり覗き見た二人は、どこからどう見てもお似合いのカップルだった。


 彼女は美しい人だった。母様と同じ、綺麗な金髪の女の人。スレンダーながら胸は豊満で、それを惜しげもなく彼の二の腕に押し当てていた。

 腕を組んで寄り添うように歩く彼らは、それだけで一枚の絵画のようだ。


 びしり、と心臓に亀裂が入るような気がした。

 あんな場面、見たくもないのに目が離せない。


 ヴォルフは先ほどから始終笑顔のままだ。

 私にはあんな顔見せてくれない。私が見られるのは、嘘くさい笑顔と憎悪の視線だけだ。

 それが、どうしてか辛い。


 どうして、どうして。

 なんであんな顔するの。

 彼女は、あなたの恋人なの。


 ――うるさい。私は彼が嫌いなんだ。嫌いな奴がどうしてたって構わないわ。


 そう思うのに、揺らぐ心は止まらない。


 彼らは歩き続ける。

 私は気付いた。彼らの向かう先は――いわゆる、歓楽街。

 女が春を売っていたり、恋人たちに二人きりの時間を提供するような宿があったり――。

 どんな場所なのかはおおよそ知っている。『ルイ』の格好をして酒場での話を聞いたりしていれば嫌でもどういう場所かなんていうのは分かる。


 そういうことだ、ヴォルフと彼女は、これから……。


 私が隠れている場所の目の前を、二人が通り過ぎていった。


 その瞬間、一瞬だけ彼と目が合ったような気がして私は慌てて物陰の奥へ奥へと逃げ込んだ。

 びしり、びしりと心臓に走った亀裂がその隙間をどんどんと拡げていく。


 痛い。痛いよ。

 手に上手く力が入らなくなって、視線を落とすと私の手は小さく震えていた。


 もう一度彼の様子を窺う。

 私に気が付いた様子は全くなかった。見えるのは彼と彼女の美しい後ろ姿だけだ。


 彼らは一軒の宿の前で立ち止まる。

 ヴォルフが彼女に笑いかけるのが見える。


 ――ああ、やめて。お願い、どうか……。


 何に対する祈りなのかも分からないまま見つめ続けると、彼らはそのまま宿の中へとその姿を消した。


 私は背後の壁に寄りかかり、ずるずると下へずり落ちていった。

 へたり、と座り込むと、私は震える両手をぼんやりと眺める。

 何故か、この手が酷く汚らわしいものに見えた。


 どうして考えが及ばなかったのだろう。彼に恋人がいると。

 あれだけの美青年だ。当然いてしかるべきだろう。

 なんで思いつかなかったのか。


 きっとあの彼女が彼の本当の恋人だ。

 つまり、私は、浮気相手。

 偽りの関係とはいえ、彼女からヴォルフを奪うような存在だ。


 私は縮こまるように身体を抱きしめた。


「は、ははっ……」


 乾いた笑い声が唇の隙間から漏れ出した。

 思いの外傷ついているらしい自分に、私が一番驚いていた。両の指先が食い込むほどに強く腕を抱きしめている。


 目の奥には、ヴォルフと彼女が絡み合う姿がちらちらと浮かんでいる。

 彼は私には見せない素直な笑顔で彼女を見つめ、その唇に口付ける。口付けは激しさを増し、彼の手が彼女の服にかかる。そして二人は一糸まとわぬ姿になり、そのまま――。


 あの手で触れられた。あの唇に口付けられた。

 彼女に触れた手で。彼女に口付けた唇で。


 私は唇をごしごしと拭った。擦りすぎて血の味が滲んできても拭い続けた。


 身勝手に母様を抱いた父親と同類になってしまったような気がした。欲のまま不貞を働いた父親。目的のために恋人のいる男に手を出した私。

 何が違うだろう。


 涙が頬を伝った。


 ヴォルフのあのくしゃりと笑った笑顔が目に浮かんだ。何度も口付けた記憶がいくつも浮かんで消えていった。

 私だって、あの笑顔を向けられてみたかった。

 本当は憎まれたくなんてなかった。友達になりたかった。


 頭の中がごちゃごちゃとしてきて、何かを考えるのが億劫になる。

 とりとめのない思考の中、唯一私に残った感情は、悲しみだった。


 滲んだ血を気にすることなく拭い続けたせいで赤く汚れた手。

 私はその汚れた左手の指先を右手で握りこんだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ