5.憎悪
「行きたく……ないなぁ」
思わず口から漏れた溜息。今日はヴォルフとの約束の日だった。
この間と同じような格好をし、フードを目深にかぶる。
『奴も娘の教育までは手が回っていなさそうで良かったよ』
蔑んだ目。歪んだ笑み。
あれが彼の本心。本当の彼。
嫌でも今更舞台から降りることなんてできない。こうして計画をある程度コントロールできていなければ、復讐を果たす役は私には回ってこない。
精々滑稽に踊ってみせなければ。彼の手のひらの上で。
重い足取りで待ち合わせ場所へ向かう。待ち合わせ場所は前回と同じように時計塔の前だ。
もう少しで辿り着く、というところで、私は道端にしゃがみ込む小さな影を見つけた。
今にも泣きべそをかきそうな小さな少年。年のころは5歳ごろだろうか。擦りむいたらしい膝を抱えて小さく蹲っていた。
私は立ち止まって、一呼吸する。
「転んじゃったの?」
穏やかに声を掛けると、目の縁まで涙を溜めた少年が私を見上げた。
――なんだか、小さい頃の私みたい。
不思議に親近感を覚え、声も柔らかくなる。声を掛けてしまったのもきっとそのせいだ。
「……うん。でも、大丈夫」
「そう、でも少し見せてみて。……砂も入ってしまっているみたいだし、洗ったほうが良いわ。あっちの、噴水のところで洗いましょう」
「…………うん」
私は幼い少年と手を繋ぎ、時計塔前の噴水まで歩いた。まだ待ち合わせ時間までは少しあるから、大丈夫だろう。ヴォルフもまだ来てはいないようだった。
噴水の縁に座らせ、靴を脱がせる。擦りむいた膝からは血が流れており、靴を少し汚していた。
「ほら、水に足をつけて。そうそう、上手ね。少し痛いかもしれないけれど、我慢してね」
傷口を優しく洗っていく。少年はきつく目を瞑ったが、最初にピクリと動いたのみでじっとしていた。
洗っているうちに砂もだいぶ落ちたらしく、傷口から黒い汚れは消え赤い血が流れるばかりとなった。
私は手持ちのポーチから、刺繍の練習で作ったハンカチを取り出す。何枚も何枚も同じ模様を刺繍したせいで、余っていたものだ。
ハンカチで丁寧に水をふき取り、血の流れる膝にそのままハンカチを括り付けた。
「え、これ……」
「あげるわ。たくさんあるの。我慢して偉かったわね。これでもう大丈夫かしら?」
「うん、お姉ちゃんありがとう」
もう涙の見えない無垢な瞳。素直な感情を向けられ、一瞬怯む。
私は優しく見えるように笑いかけ、脱がせた靴を元のように履かせた。
「また転ばないように気を付けて帰るのよ。じゃあね」
「うん、じゃあね」
少年は明るい笑顔を私に向け、駆け足で去っていった。
噴水の縁に腰掛け、姿が見えなくなるまで笑顔で見送る。その背が見えなくなってから、自分の顔から笑顔がすっと抜け落ちたのを感じた。
きっと、彼の帰っていく先には温かく迎え入れる家族がいる。彼は迷子じゃない。
じゃあ、私は?
考え込みそうになって、俯く。
やめた。考えても無駄なことだ。私は力なく頭を振った。
「ルー」
不意に声を掛けられ、弾かれたように顔を上げる。
ヴォルフだった。
彼は、感情のない顔をしていた。美しさの際立つ顔は、まるでその冷徹さを強調するようだった。
「あ……」
見られていたのだろうか。
冷静さを装いながら混乱を極めた脳内で、どう言葉を発しようかと必死に考えていた。
「待たせてしまったかな」
すぐに笑顔を貼り付けたヴォルフが、そう言って私に手を差し伸べた。
反射的にその手に自分の手を伸ばす。ぐっと引き上げられて、至近距離まで彼の顔が近づいた。わずかにムスクの香りが鼻をくすぐる。
私のことが憎いんでしょう。そう思って、胸のあたりがむかむかとした。
「……いいえ、今来たところよ」
そうか、と言って、またにこりと笑うヴォルフ。
彼はこの笑顔の仮面の下、何を考えているのだろう。分からない。それが怖い。
決して良い感情は持っていないだろう。私が少年の手当てをしたことだって、偽善だとか思われているかもしれない。
「じゃあ、行こうか」
「ええ」
歩き出した彼に引かれ、私も足を進める。
「え……?」
ふと、目の前に差し出されたハンカチを呆然と眺める。
歩きながら私へ向かってぐいとハンカチを押し付けたヴォルフは、呟くような声で言った。
「……袖が、濡れてるよ。使って」
普段よりも低い声。気取ったようなところもなく、自然な口調だった。
私は訳が分からなくなった。どうしてこんなふうに突然優しくするのだろう。
困惑した私は立ち止まり、彼の顔を見上げた。
私よりも困惑したような表情を浮かべた彼がそこにいた。
ほら、と言って口ごもる彼に促され、私はそのハンカチを手に取った。
彼の体温なのか、ほの温かい。小さく握りしめ、そっと袖口に当てた。
「ありがとう」
涙がこみ上げてくるような感覚があった。それを抑えてぎこちなく笑って見せると、なぜか傷ついたような顔をした彼は「ああ」と言ってそっぽを向いた。
私はじっと俯いて、袖口にハンカチを当て続けた。
憎まれている相手から不意に優しさを向けられて、弱いところに付け込まれたように涙が出てきてしまっただけだ。
繋がれている手が不快でなくなってしまったのも、そのせいだ。
私は、憎まれていることを忘れてはいけないのに。
短い逢瀬の終わり。彼はまた私を屋敷の近くまで送ってくれた。
「じゃあ、また。3日後に」
「ああ。楽しみにしてる」
私と彼との逢瀬の頻度は、これといった理由もなく定まった。だから、次に会うのもまた3日後だ。
ここで前回、されたことを思い出す。頬に血が集まるのを感じた。
熱い口づけだった。初めてだった私は、あっという間に彼に翻弄された。
あの時の感触が蘇って恥ずかしくなった私は、小さく手を振って彼に背を向けた。
「っ……え?」
気付いたら、背後から抱き締められていた。フードも知らぬ間に取り払われ、少し冷たい外気が私の首筋を撫でる。
心臓が口から飛び出そうだ。
急なことに、身体がついていかない。息の仕方も分からなくなり、浅い呼吸を繰り返す。
「ルー」
耳朶を掠める彼の吐息で、背筋がぞくぞくとした。
私はついその吐息を避けるように斜め下へ俯き、目をぎゅうっと瞑った。
憎いくせに。死ねばいいと思っているくせに。私のことが、嫌いなくせに。なんで、こんなことを。
つい忘れかけていた。彼から向けられている憎悪を。
今ではすっかり乾いた袖と、代わりに濡れたハンカチ。洗って返すからと預かっているハンカチは、ポーチの中に入っている。
『あの娘、婚約者もいるくせにあっさり俺に落ちたんだ』
こう言っているのを、目の前で聞いた。分かっていた、はずなのに。
ヴォルフの指が首筋から上がってきて顎を伝い、頬を撫でる。頤をぐっと持ち上げられ、僅かに開いた唇を親指で撫でられた。
更に目をぎゅっと瞑る。何も見たくない。感じたくない。
憎悪を宿した彼の瞳など、見たくない。
やや乱暴に顔を後ろへ向けさせられ、唇を塞がれた。
「ふ……んんっ」
いつの間にか正面から抱き締められ、何度もキスを落とされる。
私は目を開かなかった。ただ波が過ぎ去るのを待つだけだ。
心臓をギリギリと締め付けられるような痛みと共に、甘い痺れが走った。
早く終わってほしい。けれど、このままでいて欲しい。
私はこの痛みと痺れから逃れたくて、何か縋れるものを探した。
触れたものを強く握る。それは、ヴォルフの服の胸元部分だった。
繰り返される、荒い息。もうどちらのものか分からない。
ただ、私を求められているような錯覚だけがあった。
誰かに求められたい。大事にされたい。そんな欲求を満たしてくれるような、甘い錯覚。
目を瞑っていれば、憎まれていることなんて分からない。錯覚に溺れられる。
私は今日、それを知ってしまった。
でもそんなもの、知りたくなかった。
だって、目を開ければ、冷ややかな憎悪だけが私を見つめているから。
そしてその憎悪が、私を絶望の淵へと突き落とすのだ。
* * * * *
ヴォルフと出会ってから、2週間が過ぎた。
相変わらず、ヴォルフとは3日おきに会っている。逢瀬の内容はいつも変わらない。
会って、喫茶店に入り少し話をして、屋敷の近くでキスをする。
彼は思いの外博識だった。彼と話すのは、不本意ながら楽しいものだった。
私は以前ヴォルフの本当の家名を知ってから、どんな家だったか調べた。ヘルツフェルト男爵家は外国との交易を盛んにやっていた家だった。予想しかできないが、きっと彼も外国へ行ったり各国の勉強をしたりしたのだろう。
私には本で得た知識しかないから、彼の実体験に基づいているであろう話を聞くのはとても興味深かった。打てば響くとはまさにこのことで、話の中で疑問に思ったことを質問すると明確な答えが返ってくることが多い。逆に学術的なことは私の方が詳しかったから、彼も積極的に質問してきた。
ヴォルフは外国の話をするととても楽しそうで、普段見せる鋭い視線は鳴りを潜める。
そうやって話していると、ただの友人として話しているような気がしてくるのだ。彼は会話も上手で、不意に話が途切れてもまた新しい話題を提供しては話を弾ませた。
そして、ただの友人としての彼との会話は純粋に楽しかった。
毎回の逢瀬の終わりのキス。
もうすっかり慣れた。彼が暗いところでしか口付けようとしないことにも、口付けを終える度に思い出したように浴びせられる憎悪の視線にも。
つい昨日も、逢瀬の終わりにいつもの場所で立ち止まった。まるで期待するかのように彼をそっと見上げると、彼も当然のように私のフードを払って腰を引き寄せた。
私は口づけられる前に目を閉じる。この先は、終わるまで私は何も見ない。見えない。
与えられるのは荒い吐息と唇に感じる柔らかさ。目の前の体を突き飛ばしたくなるような胸の疼きと、腹の奥がじんと痺れるような感覚。
相手がヴォルフだからこんな風に感じるのか。ヴォルフでなくても同じなのか。
私に確かめるすべはない。唇を預けるような人なんて、私にはヴォルフしかいないのだから。
いっそ、友人として出会えれば良かったのに。そうすれば、ただ彼との会話を楽しむだけで終われる。
口付けなんてもうやめて欲しいのに、もっと欲しい。こんな矛盾した感情なんて知りたくなかった。
私はどうしてしまったのだろう。こうして唇を重ねると、頭が上手く回らなくなって思考がまとまらなくなる。
もう、嫌。
助けて、母様。
母様の復讐のためなら何でもできると思った。
でも、こんなに苦しいなんて思わなかった。
私は考えが甘かったのだ。
いつも通りの憎悪を浴びせられながら、私は左手の指先を右手で握りこんだ。
* * * * *
今日は久しぶりにレジスタンスへ顔を出すことにした。
計画の内容が変更になっていたり、細かいことが決まっていたりするだろうか。
「やあ、ルイ。久々だな」
「クラウス。計画の進行はどうだい?」
にこりとも笑わずに声を掛けてくるクラウスだが、無視されるよりはマシだろう。
「びっくりするくらい順調らしいな。奴の娘が予想以上に愚かだったようだ。なぁ、ヴォルフ?」
彼が店の奥へ声を掛けると、ヴォルフが顔を出した。
ずきりと鋭く痛む胸。
彼は相変わらず、店の娘と話していたようだった。彼の後ろから、前回も見た綺麗な女性が顔をのぞかせている。
「なんだ? クラウス。……ああ、君か」
腑に落ちたように笑って、ヴォルフはこちらへ歩いてきた。
距離が近づくほどにむずむずと落ち着かないような感覚が肌を這う。
鋭い視線が私を射抜いた。観察するような視線は無遠慮に私の体を舐めた。
アメジストの槍。最初に彼に抱いた印象が再び頭を過る。
「計画の状況を知りたいらしい。説明してやってくれ」
クラウスはそれだけ言うと、私たちを置いてどこかへ行ってしまった。
「……計画の状況、か。順調だよ。あの娘の様子を聞きたいか?」
「ああ、聞かせてくれ」
まるで獲物を甚振るような目をしている。
私は以前のように侮辱されることを悟った。
知っていた、そんなこと。どんな風に思われているかなんて。
「本当に愚かなんだ、あの娘。俺が近づいたことを疑問にすら思っていないよ。まだキスしかできていないが、あれは完全に落とせていると思っていていいだろう。口付けている時のあの娘の顔を見せてやりたいよ! 俺に夢中、って顔をするんだ。他に何も考えられていないような。本当に助かるよ。俺がどんなに憎んでいるか知らずにあんな顔をしているなんて、つくづく馬鹿だよな」
美しい顔が醜悪に歪んでいた。私を見ているはずなのに、ギラギラとした紫の瞳は私ではない相手を射殺すように見つめていた。
彼の心を捻じ曲げている憎悪と苦しみとがそこに表れているのだと思った。
「……そうか。本当に愚かな女なんだな。扱いやすくていいじゃないか」
私は左手の指先を右手で握りこむ。どうしてもこの癖がやめられない。
心が悲鳴を上げている。
彼の口から私を罵る醜い言葉が出てくることがどうにも辛かった。
彼の口から聞きたいのは、外国のキラキラとした美しい風景や人々の生き様だった。私の知らない外国の様子が、彼の表現力や語彙力によって美しく彩られて私の心に映像として浮かび上がるのが好きだった。
「ああ、それだけが救いだよ! 俺はね、俺に媚を売るような女が一番嫌いなんだ。気持ち悪いんだよね。しかもあの男と同じ髪色で同じ目の色だろう? 余計に気持ちが悪くてさ。早く計画が完了すればいいのにと思っているよ。そうすれば、全員死んでくれる」
ああそうだ、と彼は口をさらに歪ませ、笑いを堪えるかのように口元に手を当てた。
「あの娘、俺がこの手で殺すんだった。はは、今から楽しみだよ」
もう、無理だった。
胸が死にそうに痛い。もう聞きたくない。もう嫌だ。
ヴォルフからただ憎悪の視線を向けられるだけの時とは比べ物にならないくらいの痛みだった。
耳を塞いで泣き叫びたくなる気持ちを辛うじて抑える。
胸の痛みを忘れるために、握り込む右手に更に力を込める。指先の感覚がなくなっていくような感じがした。
「……分かった。聞かせてくれてありがとう。じゃあ、わた……僕は、もう帰るね」
絞り出すような声を出した。
結局計画の内容については聞けなかった。けれど、彼の気持ちがよく分かっただけで十分だろう。
これ以上はもう、私の心が耐えられそうにない。
一歩後ずさる。
彼の視線が私の手元に固定されている気がした。
私の右手は、まだ左手をきつく握り込んでいた。
私は慌ててその手を放す。
疑うような視線が私の体を舐めるように這っていた。
どうしよう。
バレたのか? いや、そんなわけが――。
冷や汗が額を伝う。
もう私はいっぱいいっぱいだった。心の中は焦りと哀しみと辛さとが混じりに混じって溢れかえっていた。それらは限界まで私を満たして、もうすぐにでも決壊しそうだ。
逃げよう。
それしか考えられなかった。
私は踵を返し、駆け出そうとして、――誰かに手を掴まれた。
反動で後ろに倒れそうになった私を、ヴォルフの体が受け止める。全身に鳥肌が立った。
嫌、嫌だ。触らないで。死ねばいいと思ってるくせに。
逃げようとする体を抑え込むように、彼の手が私の肩口を押さえた。強い力だった。
彼のムスクの匂いがべったりと鼻にこびりつく。
「ルイ……だったよな。お前、とりあえず外に出ろ。俺と一緒に」
逆らえなかった。感情を全て押し殺したような低い声が、とても恐ろしかった。
完全に委縮した私は、促されるまま外へ出た。
逃げられないように肩を抱かれている。
私とヴォルフはそのまま、店の近くの路地裏へ入った。
「な……何だよ」
歩いている間に少しだけ冷静さを取り戻した私は、敢えてルイの時の声より更に低い声を出した。
「……」
じっと私を見下ろすヴォルフ。
身じろぎせずに返事を待っていると、手を掬い上げられて彼の両手の上に乗せられた。
これは、何なんだ。
ぐらぐらと揺れ動く心はまだ不安定だった。
困惑が加わり、涙が溢れそうになる。
「っ……!?」
ぐっと腕を引かれたと思ったら、ヴォルフが一瞬私の肩口に顔を埋め、そしてすぐに私から離れた。ムスクの匂いが遠ざかっていく。
黙ったままの彼が怖い。表情すらその顔からは窺えない。
「……帰ってくれ」
冷たく言い放たれたその言葉に、私は弾かれたように走り出した。
何なの。
何なの、あれ。
分からない。
走っていると、彼に言われた言葉が頭の中を巡る。
一番嫌い。
気持ち悪い。
計画が進めば全員死んでくれる。
俺がこの手で殺すんだった。今から楽しみだよ。
涙が頬を伝った。
なぜ涙が出るのか、私には分からなかった。