3.偽りの関係
いつものように、針の筵のような夕食を終えた。おまけのように机の端に用意されている私の席だが、なぜか夕食は家族全員でとるように強要されている。こんな扱いをされるなら別でいいと思うのだが、父親からの命令で仕方なく一緒にとっている。
今日の義母からの嫌味は「庶子はナイフも上手く使えないのね。哀れですこと。私はきちんとした生まれで良かったわ」だったか。猛練習の結果テーブルマナーはきちんと身につけられたが、たまに今日のようにナイフで切る際に音を立ててしまうことがある。そうするとこれ見よがしに嫌味を飛ばしてくるのだ。
しおらしい態度で謝っておけばそれ以上に絡まれることはないが、何かきっかけを見つけると立て板に水がごとく私の悪口が流れ出す。それに異母兄が同調する。黙って聞いていればいいので特に害はないが、ご飯が不味くなるのが本当に辛い。
父親は黙々と食事をとるだけで、こんな状況を見ても特に何も言ってこない。私に関心がないのだ。下手に関心があっても動きづらくなるからそれはそれで構わない。
部屋を整えてくれたメイドに「今日は少し体調が悪いからもう休むわね」と伝えると、彼女は「お大事になさってください」と気づかわしげに言ってそっと扉を閉じてくれた。
明かりを消す。布団へクッションを押し込んで人が寝ているように見せかければもう完璧だ。
部屋のクローゼットを開ける。お忍び用の簡素なドレスに着替え、黒いローブを上から羽織った。夜のお出かけなので、一応護身用に何本か小型のナイフをローブの内側に仕込んでおく。
待ち合わせの時間まであと30分ほどだろうか。そろそろ向かったほうが良いだろう。
隠し通路へ通じる別のクローゼットの扉を開け、音をたてないようにそっと忍び込んだ。街へ抜け出すのももうお手の物だ。
隠し通路を抜けた後は明るい道を選んで歩き、足早に時計塔へ向かった。
到着すると、指定した待ち合わせ時間まであと10分ほどというところだった。街灯に照らされた時計塔前の広場には人はそんなに多くない。
やはりあの男の美貌は昼の明かりがなくとも輝くような美しさを誇っていた。まだ早いというのに律義に待っていたその男は伏し目がちに石畳を眺め、紫の瞳はその鋭さを隠している。街灯の柔らかい光が黒い髪に反射して濡れたように光っていた。
私はゆっくり深呼吸をして、彼の方へと足を踏み出した。
「待たせてしまったみたいね。ごめんなさい」
私の声に反応して、美しい男はその面をあげた。一瞬鋭さを見せたが、瞬時にとろけるような笑顔へとその表情を変える。
「いいえ。私も今来たところですから」
「それなら良かったわ。私、ルイーゼ・マルテンシュタインと申します。あなたは?」
「私は、ヴォルフ・ブロストと申します。以後お見知りおきを」
「よろしくお願い致しますわ。それで、ご用は? 私の恋人にでもなってくださるの?」
当然のように偽名を名乗った彼に単刀直入に切り出すと、まるで固いものでも飲み込んだように少しの間が空いた。
「……ええ。是非、そうしていただければと思いまして」
「そう、嬉しいわ。じゃあ、今後もこうして夜に会いましょう。昼間は父の監視があって上手く抜け出せないの」
「監視ですか……今日はどうやってここまで?」
食いついた。
軽く知りたいだろう情報をちらつかせてみると、あっさりと食らいついてきた。魚釣りでもしているような気分だ。
私は悪戯っぽい笑顔を顔に張り付けた。
「実はね。私、屋敷の隠し通路を知っていますの。だから抜け出すなんて造作もないことだわ。昼はなかなか難しいですけれど」
「隠し通路ですか。抜け出しても見つからないんですか?」
「そうね、私も偶然見つけたようなものだし、多分知ってるのは父くらいじゃないかしら。父も私が隠し通路を知っているとは思っていないはずよ」
「ではほぼ安全に抜け出せるということですね」
「そうなるわね」
さあ、これで私に利用価値があることが分かったでしょう。
上手くいった、という安堵に似た思いが胸の中に広がる。
「……ところで、昼の事だけれど」
「ん? なにか?」
「あなたに酷いことを言ってしまったわ。身の程だとか、商人風情だとか……。ごめんなさい。いくら使用人の目があったからって、言い過ぎたわ」
「ああ、そんなこと……。お気になさらないでください」
ヴォルフは驚いたような顔でこちらを見ていた。作り物めいた笑顔が消える。
剥げ落ちた笑顔の仮面の下、そこにはやはり憎悪が渦巻いているのが見て取れた。いくら気を張っていても、ふとしたことで感情は漏れ出てしまうものだ。
分かっていてもその憎しみは心に突き刺さった。単純に罪悪感を消そうと思って謝罪したが、余計に胸に重いものがつかえたような気分になる。
――諦めろ。彼に、憎しみを向けられるのは当然なんだから。
私は左の指先を右の手で握り込んだ。冷たいのは相変わらずだ。
「……そう、ありがとう」
困ったように見えるはずの笑顔を浮かべた。
ヴォルフは慌てて笑顔を繕い、私に手を差し出した。
「では、お嬢さん。あなたの事をもっと知りたいので、ご一緒にお茶でもどうですか?」
「……ええ、喜んで。私にもあなたの事を教えて頂戴?」
差し出された手にそっと触れると、想定外に柔らかく握り込まれる。温かい彼の手の温度に、跳ねた心臓。さっと頬に紅が差した感覚があり、そしてふと見上げた高い位置にあるその瞳を覗き込んで、後悔した。
顔は笑っていたけれど、目は全く笑っていなかった。嘲るような視線が私を突き刺す。
吸い込まれそうな深い紫紺の瞳には、呆然としたような顔の私が映っていた。こうして美しい笑顔を浮かべた彼に手を引かれている今でも、憎しみを絶えず浴びせられているような気がする。それが分かっているのに、男慣れしていない私は柔らかく手を引かれるだけで胸の鼓動が高まってしまう。
ヴォルフがそっと先導してエスコートしてくれる。彼の視線が私から外れたのを見て、私はそっと目を伏せた。
――思ったよりも辛いかもしれない。でも、やらなければ。復讐のために。
その後入った喫茶店で、『彼』について詳しく聞くことができた。
今の彼の設定は、遠くの街から仕事でやってきている商人という設定らしい。この街には商談のために訪れているとか。
ふと街を歩いていたら、私の美貌が目に留まりつい声を掛けてしまったとのことだった。
ここまで分かりやすい嘘を聞かされると、なんだか虚しい気分になる。
今後隠れて会うということを考え、彼には敬語をやめてもらい、呼び方も「ルー」にしてもらうことにした。街中でルイーゼなんて名前を使用人やその家族などに聞かれたら身分が分かってしまう可能性があるからと言えば彼も納得してくれた。
ローブのフードは外さない。顔は出来るだけ隠れていたほうが良い。
それに、忌まわしい色の髪も隠せるから。瞳の色は隠せないけれど、髪だけでも見えなければ彼の嫌な気持ちも少しは軽減されるだろう。わざわざ憎い侯爵と同じ髪色の女と一緒にいてくれるのだ。嫌な思いは可能な限りしてほしくない。
話してみて分かったヴォルフという男は、とても用心深い人間だった。絶えずこちらを警戒したように見つめ、そのくせ口元にはわざとらしいような美しい笑みを浮かべた。
いくつか彼自身について質問してみても、当たり障りのないようなことを返してくるばかりで大事なことは一切話さない。そこに父親に似た用心深さを感じた。貴族らしいと言えば貴族らしいが、踏み込んでほしくないという拒絶を表している。
私は、ヴォルフの前では愚かな女を演じることにした。彼の美貌に酔いしれ、墜ちていく馬鹿な女。手玉に取られ、最後には言われるがままに復讐に加担する。
そのためには扱いやすい女だと思われなければならない。
今まで下町で暮らしてきて、あからさまに男に媚びを売る女も少なからず見てきた。現実とは違うかもしれないが、大好きな小説の中でも男に騙される愚かで馬鹿な女は腐るほど出てきた。彼らのまねをすればいい。
きっと彼もそれを望んでいる。
その日は喫茶店での逢瀬を終え、そのまま解散となった。彼は危ないからと言って屋敷の近くまで送り届けてくれた。
優しさなのか、ポーズなのか。よく分からなかった。
「では、ルー。また3日後にね」
「ええ、ヴォルフ。もう3日後が待ちきれないわ。早く3日後が来ればいいのに」
「そうだね。俺も楽しみだ」
少し違和感もあるがすっかり口調も砕け、彼の一人称も俺に変わった。おそらくこちらの方が素に近いのだろう。なぜか笑顔のわざとらしさも少し和らいだ感じがする。
次の約束は3日後だ。その間に、情報収集を進めておかなければ。
そんな胸の内は隠しながら、私はもう彼に夢中で仕方がない、というように見えるよう熱を込めた視線を送った。
すると、ヴォルフは私を不意に引き寄せた。右手でフードをさらりと払われ、そのまま私の首の後ろへ手を回す。
急な接近に私の心臓は大きく飛び跳ねた。こんなことは予想していなかった。ふわりとムスクの香りが鼻腔を掠めた。
街灯も少なく、暗い道。夜の闇に静まり返った中、私が息を呑む音が響く。
ほのかに照らされた美しい顔が目の前に迫っていた。
「……ルー。口付けても?」
「……」
私は黙って俯いた。すっかり気が動転してしまって、言葉など出なかった。はくはくと口が動くばかりで、声が出せない。
そうして下に視線が向くと、フードから零れ落ちたらしい髪が視界に入った。いつもは朽葉色の薄汚い髪が――。
――ああ、そういうことか。だから、今この場所なんだわ……。
暗くて色彩も分からないようなこの場所では、大嫌いな髪の色は漆黒に沈んで見えた。彼の色彩もよく見えないように、おそらく私の瞳の色も分からなくなっているだろう。
口付けるなら、憎い相手だと認識できないほうが良い。父を想起させるような色彩など、見えないほうが良い。
だから、ここなんだ。
虚しさが急速に胸を占め、火照っていたはずの頬も一気に温度を失った。
じっと押し黙る私にいら立ったのか、首の後ろに回された手に力が込められた。これ以上は彼を待たせられないだろう。
私は、愚かな女。
きっとそんな女なら、彼の口付けを受け入れる。心からの嬉しそうな笑顔で。
ぎゅっと左の指先を握り込む。右の手のひらで感じる指先の温度は、いつもより冷たい気がした。胸の痛みは手をきつく握りしめる痛みで誤魔化した。
私は努めて笑顔を作った。そして彼を熱く見つめながら、ゆっくりと頷いた。
ヴォルフは一瞬腑に落ちないような表情を見せたが、やはり蕩けるような笑顔を浮かべると形のいい唇を私に近付けた。
視界が奪われ、むにゅり、とした感覚が私の唇を覆った。
これが、キスなのか。
こんな味気ないものだったのか。落胆に似た感覚が広がる。
ファーストキスというものに、私は知らず夢を持っていたようだった。こんな形で失うとは思ってもみなかった。しかも、私を憎んでいる相手に奪われるなんて想像すらしなかった。
どことなく居心地の悪さを感じながら棒立ちになっていると、腰を引き寄せられ角度を変えて唇をついばまれる。唇の間で湿った音が何度も鳴る。
そんなに長い間ではなかったと思う。だが口付けられている間、なぜか心臓を針金で締め上げられているような痛みと、体の奥底からこみ上げてくる衝動のようなものが徐々に現れてきた。息が上手くできなくなる。
どうして? 私は、傷ついているとでもいうの?
訳の分からない痛みと衝動にじっと耐えていると、彼の唇が離れた気配がした。私は止まっていた息を吐き出した。
瞼を開けると、困惑したような表情のヴォルフがそこにいた。
なぜ、そんな顔をするのだ。困惑したいのはこっちの方だ。私は僅かに眉を顰めて軽く首を傾げた。
慌てたように彼はさっと横を向き、私のことをやや乱暴に抱きしめた。
「じゃあ、3日後。楽しみにしてるから」
耳元で囁かれ、ぞわぞわとした感覚が首筋を駆け抜けた。
固くなった私の顔を見ないようにか、ヴォルフは私を軽く突き放して踵を返した。
去っていく彼の背中を眺めながら、私は心に重りがずしりとのしかかるような感覚をおぼえていた。