14.再会
「最近帰りが遅いのね」
帰ってくると、店じまいを始めたハンナがそんなことを言う。
帰宅の時間はそんなに変わりないはずだ。私は首を傾げた。
「そうでしょうか? 変わりないと思いますが……」
外はすでに暗い。ふと思い当たる節があり、私は手を打ち合わせた。
「ああ、日の入りが早くなったからですかね」
「そういうことかしら。言われてみればすっかり日が短くなったわねぇ」
「冬至が近いんですね。ついこの間、生徒たちに教えたばかりです」
「そうなのね。みんなお勉強頑張っていて偉いわね」
ハンナはそう言って笑うと、売れ残っていたパンを1つ2つ手渡してくれた。ありがとうございます、と言って微笑むと、ハンナは急に何かを思い出したようで、じっと私の顔を見つめた。
「そういえばなんだけどねぇ。ルイーゼに似た女の子を探している男がいるって噂を聞いたのよ。ブラウンの髪にオリーブの瞳で、10代後半の女の子ってなると、あんた以外にこの街にはいないからね。しかも探している子はルイーゼって名前だというし。何か知り合いに探されるような心当たりでもあるの?」
体が凍り付いた。
ヴォルフなのではないか。こんな、遠く離れた港町まで憎い相手を探しに来たのだろうか。
喉がつかえたようになりながら、私は口を開いた。
「その人がどんな人間だったか、わかりますか」
「ええ……私もあまり詳しくは聞いてないんだけどね。黒髪にやたら見目の整った色男だったみたいよ。あら、もしかして恋人さんかしら?」
ハンナはウキウキとしながら私を見ている。私は苦笑いして、恋人ではないですよと言った。
だがほぼ間違いない。ヴォルフだろう。
会いたい気持ちがむくむくと頭をもたげてきた。しかし、彼が私を追いかけてきた理由は分かっている。殺し損ねた憎い相手を殺しに来たのだろう。甘い期待などしてはいけない。
私は小さくため息をついた。
忘れようと思っていたのに。
ふと胸に沸き上がったのは諦念だった。
もう、何でもいい。会って、彼に殺されてしまえばいいのだ。逃げるのはもう疲れた。
ただ恐ろしいのは、彼のむき出しの感情に触れることだった。私を利用する必要がなくなった今、彼は憎しみを直接ぶつけてくるだろう。それだけが、怖い。
震える左手を握りこみ、私はハンナを見つめた。
「でも相手に心当たりがあります。その人に会うにはどうしたらいいですか?」
* * * * *
指定された場所は、この小さな町で一番大きい広場の時計塔の前だった。
懐かしい。偽りの関係を続けていた時、待ち合わせはいつも時計塔の前だった。
この時計塔は町の中で一番高い建物で、時計塔の大きな鐘の音で町の人々は皆時刻を把握する。ちょうど15時を知らせる重厚な鐘の音が響いた。
鐘の音に揺らされ、心臓のあたりがずんと沈み込んでいるような気分だった。
彼に会いたいという気持ちは確かにある。でも、会いたくない。会うのが怖い。
緊張からか、歩いている地面が揺れているような気がした。
広場が見えてくる。足が重く、歩みがさらに遅くなった。
もう遠目でも分かる、艶のある黒髪。秋風にさらさらと揺れている。
少し痩せたのだろうか。以前より線が細く見える。
重い足取りのまま歩く。自分の靴の音がカツン、カツンと耳の奥に響いた。
足音に気付いたのか、時計塔の前の男はゆっくりと視線を上げた。
紫紺の瞳に射抜かれる。相変わらず、恐ろしいほどに美しいその瞳。もう一度見たいと焦がれた瞳。
私は地面に縫い留められたように動けなくなってしまった。
あの瞳に、もうずっと捕らえられている。
「……」
あらゆる感情が私の体を駆け巡る。
会いたかった。顔を見られて嬉しい。
怖い。彼と話すのが怖い。もう馬鹿な女の仮面は被れない。
彼から向けられる憎しみが恐ろしい。利用価値のなくなった私に、彼はどんな憎しみをぶつけてくるのだろうか。
「ルイーゼ……なのか」
低い声。久しぶりに聞いたその声に胸が震えた。
「ええ」
「髪が……」
「髪? ああ、これ……。邪魔だから、切ったの」
「そうか……」
思いの外穏やかな会話に、私は心の中で安堵していた。
彼は気まずそうに視線を私の顔から外している。私の短くなった髪をじっと見ているような気がした。
私自身はもう切ってからずいぶん経っているから短くなった髪に何の感情もないが、彼は見慣れないのだろう。
そんなことを思いながら立ち尽くしていると、近くを家族連れが騒がしく通り過ぎていき、私ははっと思いなおした。
今日はこんな人の往来の多いところで立ち話をして解決できるような話し合いをしに来たわけでは無い。移動しなければ。
「ヴォルフ。移動しましょう」
「そうだな。人のいないところが良い。どこか良い場所を知らないか?」
「人のいない場所……町はずれに、丘があるわ。そこなら人もほとんど来ないと思う」
「じゃあそこに行こう」
自然に差し出された手。手袋のない、大きな手だ。
私は何気なく彼の手を取ろうとしたが、慌ててその手を下げた。
怪訝そうな顔でヴォルフが私を見る。そして何かに気付いたように、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
すまない、と言って彼は手を引っ込めた。
「……こっちよ」
あまりここの地理に明るくない彼を先導するように私は先を歩く。彼は隣に並んで来ようとはせず、一歩下がったところを黙ってついてきた。
居心地の悪さを感じて私は下唇を軽く噛んだ。恋人のふりをしていた時の癖が互いにまだ抜けない。もう私たちはただの獲物と追跡者でしかないというのに。
憎しみを直接ぶつけられていないだけまだ心の傷は浅い。想像していた以上に彼の態度は穏やかだった。穏やかすぎて怖いくらいだ。
偽りの関係を続けていた時の、あの取ってつけたような笑顔は一度も浮かべない。しかし憎しみの感情も向けられている感じがしない。あえて言うなら、戸惑っている様子だ。
でも、彼がここまで私を追いかけてきた理由に、復讐を遂げるため以外の理由が思いつかないのに。
今までの彼の様子とは全く違うのは何故だろうか。
彼にどうやって接すれば良いのか、分からなくなってしまう。
もやもやと考えているうちに、丘まで辿り着いた。
後ろを振り返る。
穏やかな北風に黒髪を揺らす彼が確かにそこにいた。低くなり始めた太陽に照らされた横顔は彫刻のように美しい。光を放つかのような透き通ったアメジストの瞳がまっすぐに私を見ている。
ああ、また会えたんだ。もう二度と会えないと思った、彼に。
じわ、と視界がにじむ。
もう十分だろう。十分報われた。
本題を切り出せば、こんな穏やかな時間は終わりだ。私と彼との道は再び分かたれる。
私は彼のアメジストの瞳をじっと見つめ返した。
零れ落ちそうになる涙をこらえて一度目を伏せ、そして口を開く。
「ヴォルフラム・ヘルツフェルト」
その瞳が大きく見開かれた。
「なぜ、その名前を」
「貴方がここまで私を追いかけてきた理由は知っています。あなたの名前は、それを知った時に。父の侯爵は、あなたの実家を滅茶苦茶にしたわ。その復讐を果たしに来たのよね。あの時始末し損ねた私を、殺しに」
「違うっ……そんなことをしに来たわけじゃない!」
顔を歪めて叫ぶ彼に、ぷつんと何かが切れた気がした。
じゃあ、何をしに来たの。また私を傷つけるの。もうやめてほしい。私をかき乱さないで欲しい。
あんなに私を恨んでいたじゃない。死ねばいいと、私に毒を盛ったじゃない。あれは何だったの。
唇がわなわなと震える。恐怖と怒りが私を支配した。
彼にぶつけるべき怒りではないと、胸の奥では分かっていた。悪いのは、全部私の方だ。全部私が計画に乗って、望んでやったことだ。
でも止められなかった。
「嘘つき!」
こう叫び返すと、こらえていたはずの涙が溢れ出して頬を伝い落ちた。
何が嘘つきだ。私の方が、もっと嘘つきだった。
でももう止められない。
彼は雷に打たれたように立ち尽くしていた。
口から流れ出す恨み言を止める術を私は持たなかった。
「知ってるのよ。全部、知ってるの。あなたの恨みが深いことも、私たち全員を殺そうとしていたことも。知ってて、協力していたの。私もあの父親に復讐したかったから……」
彼は私たちを殺そうとした。私をその手にかけようとした。彼が私の死を望んでいたことは確かだ。実際に、彼は私に毒を盛った。
それが悲しかった。あんなに協力したのに。あんなに、尽くしたのに。一度も省みてもらえなかった。
独りよがりな苦しみだとは分かっていた。勝手に協力したのは私だ。見返りなど求めてはいけない立場だったのだ。
ヴォルフは傷ついたように眉を曇らせ、ただ悲しそうに私を見ていた。
「なんでっ……そんな顔をするのよ……」
ルイーゼ、と私を呼んで、彼は一歩私に近づいた。
そして私の手を取った。温かい手だった。
私はふと、連れ込み宿で抱き締められた時のことを思い出した。混乱して泣き出した私を、そっと抱き締めて落ち着かせるように頭を撫でてくれた、あの時のことを。
「君を殺す気はないよ。殺しに来たんじゃない、君を探しに来たんだよ」
背の高い彼が、俯きがちに立つ私の顔を覗き込んでいる。
意味が、分からなかった。
あんなに憎んでいた女を、殺す目的でなければなぜ探すのだ。
分からない、分からない。
私の頭の中は混乱を極めた。
「でも、でも――あなたは、私を殺そうとしたわ。あの、ワイン。毒が入ってるって知ってて飲んだのよ。解毒剤を口の中に含んでいたけれど……」
今度こそ彼はざっくりと傷ついた顔をした。罪悪感にまみれた顔だった。
どうして。どうしてよ。なんでそんな顔をするの。
「殺そうとしたんじゃない。君を殺すつもりはなかった。あのワインに混ぜていたのは、毒じゃなくて睡眠薬だ。ここまで来たのは……」
睡眠薬?
殺すつもりは、なかった?
「嘘! 嘘うそうそ、どうして、だって……あなたが、私を憎んでたこと知ってるの。ずっと憎まれているのを分かってて付き合ってたのに。私、あなたが恋人と一緒にあの連れ込み宿へ入っていくところを見たのよ。最初から、私があなたにとって、偽物でしかないって――」
「ルイーゼ!」
急に視界が真っ暗になった。
自分の状況が理解できずに、ただ涙を流す。
温かい。彼の早鐘のような心臓の音が聞こえる。
そうしているうちに理解したのは、彼に抱きしめられているということ。
「……っ」
どうして。
まるで、恋人ごっこをしていた時みたいじゃない。
硬直した私の耳元へ、彼の囁きが落ちる。
「復讐が終わったら、君に本当のことを全部告げるつもりだったんだ。中途半端な時期に伝えると、君の命が逆に危なくなるから。でも、伝えておけばよかった。君がいなくなって、心の底から後悔したんだ。あの時逃げ出した君は、探しても探しても見つからなかった。でも、死に物狂いで探したんだ。君に、会いたかったから」
私は硬直したまま、じっとその声を聞いていた。
期待しても、いいのだろうか。また傷ついたりはしないだろうか。
彼の囁き声は続く。
「恋人なんか、最初からいなかったよ。君が見ただろう女の人は、お互いに都合のいい相手だったんだ。以前の俺は、復讐以外の全部がどうでもよくて、目先のことしか考えていなかった……。君からすれば最低の男かもしれないけど……本当にごめん。でももうとっくの昔に彼女との縁は切ったよ」
彼の手が、短くなった私の髪を撫でた。
名残惜しそうに短い毛先を指で弄る。
「君のことは、最初は確かに憎んでいた。あの侯爵と同じだって。でも、君と接しているうちに、君は違うって分かった。君はいろんな表情を見せるし、馬鹿な振りをしていたけど本当はすごく頭がいいことだって分かってた。それに、すごく優しい人だっていうこともね。どうして馬鹿な振りをしているのかは分からなかったけど……今なら理由も分かる」
そう言って彼は私を腕の中から解放した。
私は泣き濡れた瞳で彼を見上げた。
ずっと焦がれていたアメジストの瞳。昔は刺し貫かれそうだったその瞳は、今は穏やかだ。
彼が真摯に気持ちを伝えてくれたことは、なんとなく分かった。
「……ほんとう、なの」
信じていいのだろうか。
嘘ばかりだった私たちの関係。
彼のことを、信じてもいいのだろうか。
「ああ。もう嘘はつかない。俺たちの復讐はもう終わっただろう?」
信じるのは怖い。でも彼の瞳に嘘は本当にもう無さそうだった。あんなに表情を隠すのが下手な彼だ。嘘をついていれば、分かる。
ヴォルフの手が私の濡れた頬に伸びた。温かい親指がそっと私の涙を拭う。私はされるがままじっとしていた。
彼の顔が穏やかな笑顔に変わる。
顔をくしゃりとするように、彼は笑う。私が好きな、彼の笑顔だ。
私は釘付けになってその顔をじっと見つめた。
「俺は、君が好きだ。だからそれを伝えたくてここまで追いかけてきたんだ。もう、この言葉に偽りはない。たくさん嘘をついたし、散々君のことを傷つけたってことは分かってる。でも、君が好きだってことは信じて欲しいんだ。……信じてくれる?」
かぁっと頬に血が上った。
まさかそんな。あるわけがない。
ふとさっきも思い出したあの日のことが頭をよぎった。連れ込み宿へ一緒に行ったはいいが、結局彼は私を抱かなかった。
あの日強烈に感じた劣等感。あの劣等感は簡単には拭えない。
口に出すつもりはなかったのに、つい口をついて出たのはその劣等感の塊だった。
「でも、でもだって、私はこんな、髪も瞳も父親と同じ、汚い色で、貧相だし……私には何の、魅力も」
「そんなことない。君の髪はいつも輝いているし、瞳は聡明な色をしてるよ。君みたいに内面も外見もこんなに美しい人を、俺は今まで見たことがない」
臆面もせずそんなことを言う彼は、まるで今までとは別人みたいだった。
けれどその瞳が語っている。彼は嘘なんかついていない。
もう目を背けることは、できない。
「……っ」
もう何の反論の言葉も出てこなかった。
胸に溢れ出るこの温かい気持ちはなんだろう。
ヴォルフは私の二の腕の辺りを優しく掴み、腰を落として私と視線を合わせた。
やや上目がちになったその顔は、少し弱気そうにも見える。
「ねぇ、ルイーゼは? ……俺の事、嫌い?」
ずるい。ああ、ずるい。そんなことを言って。そんな顔をして。
今度こそもう誤魔化せなかった。
好きだ。彼のことが大好きだ。
この気持ちを、隠さなくてもいいんだ。
私は茹蛸のように真っ赤に染まった頬を隠さず、彼の首根っこにしがみついた。
「好き――好きよ! もうずっとあなたの事が好きだった! 憎まれていると分かっていても、好きになってしまったのよ……! ヴォルフの馬鹿!」
吹っ切れたようにすべてを吐露すると、ふ、という小さな笑い声が耳元で聞こえた。
しがみついていた腕が優しく外され、左手を取られる。
目の前に跪いたヴォルフが、左手の薬指に何かをはめ込んだ。
夕日に輝くそれは、あの時置いて行った、アメジストの指輪だった。
目元が熱くなり、今度は喜びの涙が溢れ出して視界を滲ませていく。
何も言えず泣くことしかできない私を、彼がじっと見ているのが分かった。
ふと、腰と首の後ろのあたりをそっと抱き寄せられた。
香り立つムスクに包まれ、彼の柔らかい吐息が私の頬をくすぐる。滲む視界の先、私の大好きな笑顔がすぐそこにあった。
「ルイーゼ、愛してる」
かすれた声で囁いた彼は、最高のキスを私に与えてくれた。
誰もいない丘で、沈みかけた太陽だけが私たちを見ていた。
これにて完結です。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。
気が向いたら今後ヴォルフ視点など書くかもしれません。




