13.喪失
「せんせーい! できましたー!」
明るい声が陽の当たる部屋の中に大きく響く。見ると、右手を高く挙げた生徒が私をキラキラとした瞳で見つめていた。木枠の窓から、ガラス越しに秋の日差しが差し込んでいる。
はーい、すぐに、と言って歩み寄る。ペンの音と小さな話し声だけだった教室に、私の足音がコツコツと響いた。
教えた通りにきちんと問題が解けていることを確認し、私はその子に笑いかけた。
「よくできました」
嬉しそうにニコニコと笑うその生徒は、次の問題に取り掛かった。
それを見て、他の生徒たちが負けじとペンを動かすのが見えた。しかし中には不貞腐れたようにペンを回して遊ぶ子もいる。私はそれを見て苦笑し、肩口まで伸びた髪を軽く触った。
あれから、半年が経っていた。
私は遠く離れた街で教師を始めた。海辺の商人が多い街で、子供に教養を望む親は多かった。おかげで職には困らずに済んだ。
屋敷から逃げ出した後、持ち出したわずかなお金を切り崩してさまざまな街を転々とした。
忌々しい髪は、最初に逃げ込んだ街で耳の下あたりまで短く切った。腰あたりまで綺麗に伸ばしていた髪はそれなりの値段で売れた。おかげで逃走資金に少し余裕ができた。
貴族としての生活を保とうとすれば早々に資金は尽きただろうが、もともと平民として生きてきたから、清貧な生活をすることに特に抵抗はなかった。定住するまでは宿代がかなり負担となっていたが、定住先と仕事を見つけてからはそこまで苦しい生活にはならなかった。
今の私の名前は、ルイーゼ・リーベルト。ルイーゼはよくある名前なので特に変えなかったが、姓はそういうわけにもいかず、適当な姓を名乗っている。
この海辺の街を選んだのは、認めたくはないがヴォルフの影響だろう。
彼の異国の話が好きだった。
この街は交易が盛んなだけあって、いろいろなところに異国情緒を漂わせるものがある。私が特に気に入っているのは、異国の料理を提供する食堂だ。時折立ち寄って、普段とは違う味付けの料理に舌鼓を打っている。街を彩るオーナメントなどにもエキゾチックなものが多く、目を楽しませてくれる。
1週間も滞在しないうちにすっかりこの街が気に入ってしまい、職を探して定住することにしたのだ。
下宿を探すのにもそこまで困らなかった。今はパン屋を営むハンナという初老の女性が自宅の一室を下宿として貸し出してくれている。
彼女は本当に親切な女性で、私の生活のために必要なことを整えてくれた。
出会ったのは教師として働く学校だった。学校で昼食用にとパンの出店を開いていたハンナが、私の境遇に大層同情してくれたのだ。根無し草の私を心配してくれた彼女だが、身の上話を正直に話すわけにもいかず、やむなく『自分の外出中に一家が襲われて天涯孤独の身になってしまった』のだと伝えた。天涯孤独なのは間違ったことではない、と嘘をついた罪悪感を誤魔化した。
ハンナはすぐに下宿としてパン屋を営む自宅の一室を準備してくれた。それだけでなく、毎日焼きたてのパンを分けてくれる。あまりに良くしてくれるため申し訳なくなってしまい、要らないと遠慮するハンナを押し切り毎月家賃と食費としてそれなりのお金を渡している。
彼女のおかげで生活も安定しつつあり、この街に住み始めてから3ヶ月が過ぎた。
元いたマルテンシュタイン領からはかなり離れた場所だったが、人の口に戸は立てられないのだろう。悪逆非道のかぎりを尽くした侯爵家のものたちが一家ともども殺されたという話は耳に届いていた。屋敷は燃やされ、継ぐ者がいなくなった侯爵領は一旦国有化され、新たに爵位を与えられた人物に贈られる予定だという。最初に噂を聞いた時には心臓が止まりそうになるような思いがしたが、ここまで伝わってきていた噂には、屋敷から逃げ延びた娘の話は含まれていなかった。
「物騒よねぇ。マルテンシュタイン侯爵家の屋敷が襲撃されたっていうから領民たちに余程酷いことをしていたのかと思ったけれど。どうやら領民たちよりも私怨で襲った人が多いみたいね。一体どんなことをしてきたのやら」
つい先日も、パンを持ってきてくれたハンナが手を頬に当てながら困り顔で言っていた。
本当ですね、と言いながらパンのカゴを受け取る。焼きたてのパンはいつもいい匂いがする。
以前別の人から同じような噂を聞いたことがあったから特別驚きはしなかった。街の人々はいろいろな噂話に飢えている。遠い遠い他領の噂話でも、変化のない生活には良いスパイスになる。
私はただその噂話を聞いて、笑顔で相槌を打つだけだ。
部屋にひとり残されると、要らない考えばかりが頭を巡る。窓の外は雨模様で、屋根を打つ雨音が部屋に染み入ってくるようだった。
頭痛を覚え、ベッドに潜り込んで頭を抱えた。
屋敷から逃げ延びるまでは、私の生きる意味は復讐だけだった。母様が亡くなり、父が諸悪の根源と知った後は復讐を果たすことだけを目的にして生きてきた。
じゃあ、復讐を終えた後は?
もう復讐を目的にする前の自分が思い出せなかった。
私はなぜ生き延びてしまったのだろう。あの時は逃げることばかり考えていたが、復讐を果たしてそのまま死んでいた方が楽だったのではないかと今は思う。
「もう、なんでもいいなぁ」
ひっそりと言葉を漏らしても、応える人はいない。
もうずっと孤独だったけれど、最近は殊更孤独を身に沁みて感じている。
この街には全てを話せるような親しい人物はいないし、思い返してみれば今までの人生でそんな相手は母様くらいしかいなかった。平民だった頃は友人と呼べる人はいたが、母様からはあまり家のことや自分のことなど話さぬよう言い含められていたから、心のうちをさらけ出せる相手は結局できなかった。母様がいるから別にそれでもいいと思っていた。
そんな母様は、あの日私を置いて神様のところへ行ってしまった。
引き取られた先はあんな家だったし、やっぱり私は孤独だったように思う。
雨音だけが響く室内に、時折階下のパン屋から届く賑やかな声が混じる。
その声から逃げるように、目を閉じて毛布を頭から被った。
目を瞑ると蘇るのは、紫紺の光だった。
考えることがないと、ふとした瞬間に彼のことを思い出してしまう。
傷を負った心はそう簡単には癒えない。ヴォルフと過ごした時間は甘く切なく、何より苦しかった。
彼から離れてだいぶ時間が経った。季節はすっかり一巡りして、彼と出会った時と同じ季節になった。徐々に彼の面影は思い出せなくなっていった。今はもう、彼がどんな声をしていたか、どんなふうに私に触れたかもはっきり思い出せない。
それでいい。
ヴォルフからもらった美しい思い出だけを心の宝箱にしまって、取り出さずにいればいい。
いずれ時が癒してくれるだろう。
一刻も早く、私の中から彼の面影が消えることを心の底から祈った。
* * * * *
まだ短い滞在期間でも、奇特な人はいる。
「ルイーゼ、少し話せないか」
ハンナの家の下宿へ戻ろうとした時、ちょうど家の前で見知った男に声をかけられた。彼はハンナの店に小麦粉などの材料を卸している商店の人で、何度か顔を合わせたことがあった。
何? と首を傾げて彼を振り向く。彼は言いにくそうに顔を俯かせながら、歩きながら話そうと言った。このあと特に用もなかったため、頷いて彼の後について歩き出した。
ちょうど夕暮れ時で、家路を急ぐ労働者や買い物帰りの主婦などで人通りは多い。
「この街には慣れてきた?」
「そうね、少しずつ」
やや顔を赤らめながらぎこちなく話す様子からは、彼がどんな話をしようとしているかは察しがついた。
ヴォルフだったら、こうやって歩く時は必ずエスコートしてくれていた。
知らずがっかりしている自分に気付き、愕然とした。
「ここから見る景色が綺麗なんだよ。来たことがある?」
「いえ、ないわ」
少し高台になった場所で、海がよく見えた。黄昏に染まった空と、闇の帳に沈みゆく海の景色はとても美しいと思った。
景色と異国情緒に惚れた海辺の街。
それでもやっぱり、彼と見たあの湖の方がずっと美しかった。もうあの場所には帰れない。
隣を見ても、彼はいない。まだ知り合ったばかりの若い男がいるだけだ。
「その……話っていうのは」
「うん」
「君が、好きなんだ。今、もし、君に恋人がいないなら……俺と、付き合ってもらえないかな」
ひどく緊張しながらも、真摯にこちらをじっと見つめてくる男の言葉を、私はゆっくりと噛み締めた。
いい人なのだろう。短い付き合いでもそれは分かった。
でも。
話し方、歩き方、選ぶ話題。全てをあの人と比べてしまい、どうしても色褪せて見えてしまった。
「……ごめんなさい。今はまだ、そういうの考えられなくて」
伏目がちに私がそう伝えると、彼は「そっか」と押し殺した声で呟いた。
その拳がぎゅっと握りしめられているのを私はじっと見つめた。
「急にごめんな……気をつけて帰ってくれ」
肩を落として去っていくその背中に、かける言葉が何も見つからなかった。沈んだ空気と共に遠くなる影はあっという間に人ごみの中に消えた。
私は運がいいのだろう。告白を断って逆上した男に殴られた女の子の話なんて腐るほど聞いた。彼は本当にいい人だった。
すくんだ足は、夕陽が完全に沈む頃にやっと動くようになった。
暗くなった街を一人歩くのは心細かったが、今の私にはその心細さが心地良かった。ままならない心を持て余した私はとぼとぼと歩みを進めた。
比較的明かりの多い道を選んで歩くようにしていたが、ふとある店が目についた。天然石を主に扱うアクセサリー店だ。
店先からも見えるように並べられていたのは、数々の美しい原石たちだった。その中でも一際目を引いたのは、美しいアメジストの原石だった。その横には加工済みのアメジストを使ったアクセサリーなどが並べられているが、強烈に目を惹かれたのは原石だけだった。
目の奥にちらつく、紫紺の光。
あの色。――ヴォルフと、同じ色だ。
会いたい。
ヴォルフに、会いたい。
脳裏に焼き付いた紫紺の瞳。たとえ偽物でも、確かに私へと向けられた美しい笑顔。
重ねた唇。繋いだ手。
鼻の奥に、ムスクの香りが蘇った。
輝くアメジストの指輪は、恋心ごとあの場所に捨て置いてきたはずなのに。
心臓が震える。息ができなくなる。
駄目だ、思い出してはいけない。
あふれ出す思い出に慌てて蓋をしようとした。でも、できなかった。
思い出すな。傷つくだけなのだから。
もう全部終わったんだ。もう二度と、あの人には会えないんだ。
もう二度と。
脚が固まって動かなくなる。止まった呼吸。無理に息を吸おうとしたら、胸が震えてしゃくり上げるような声が出た。
頬を伝って落ちる、一滴の涙。
自分が泣いていることを自覚したら、もう駄目だった。
ああ、好きだ。彼が好き。
私はずっと、彼のことが好きだった。
私は早足で歩き出した。こんなところ、他の人には見せられない。見られたくない。
ハンナの店まではあと少しだった。目を伏せて足を動かし、慌てて自分の部屋まで戻った。ハンナが気遣わしげにこちらを見ていたことには気付いたが、応対する気力はなかった。
後ろ手に扉を閉めると、どっと涙が溢れ出てきた。
いつからだろう。こんなにも彼のことでいっぱいになっていたなんて。
思えば、最初からだったような気もする。あの紫紺の瞳。あれを見てしまったときから、私はもう囚われていたのかもしれない。
私がやっていたことも、今思えば愚かだった。復讐のためと言いながら、彼と会い続けた。
あんな回りくどいことなどせず、コンタクトを取り始めてすぐに味方だと明かしてしまえばよかったのだ。そうすれば、様々な危険など冒すことなく復讐を遂げられただろう。
偽りの関係を続けたのは、ひとえに彼の隣にいられる時間が惜しかったからだ。
なんて自分勝手なのだろう。彼には恋人もいたのに。
それでも、彼と共にあった時間は楽しかった。確かにつらかったけれど、楽しかったのだ。
私は本当に馬鹿だ。今になって自覚するなんて。
最初から、彼と私とをつなぐ糸なんて存在しなかったはずなのに。
彼のことをもっと知りたかった。何が好きで、どんな場所に行ったことがあったのか。家族は、どんな人だったのか――。
ヴォルフラム・ヘルツフェルト。彼の本当の名前。
なんて美しい名前だろう。ずっと前から彼の本名を知っていたけれど、結局最後まで彼からは教えてもらえなかった。
道具として彼に利用されることを選んだのは私だ。でも最後まで道具としてしか見てもらえなかったことは苦しかった。けれど、私はそうされて当然の行いを彼にしたのだ。
勝手に嘘をついて、勝手に傷ついて。勝手に彼の交友関係を壊し、勝手に彼の復讐を利用した。
私は大罪人だ。どれだけ彼を振り回したのだろう。
涙は止まらなかった。
だがいくら涙を流しても、私の罪は消えない。
ベッドに蹲って涙を流していた私は、気が付いた時には深い眠りに落ちていた。




