12.襲撃(2)
はっと目が覚めて、びくりと体を動かした。周りは暗く何も見えない。冷気が身に沁みて感じられ、手足の先は凍ったように冷たかった。心臓はバクバクと脈打ち、息は全速力で走った後のように荒くなった。
――ここはどこ、今は何時? 私は、何をしていたんだっけ?
荒い息を整えながら、これまでのことを必死で思い出そうとした。
そう、ヴォルフを部屋に招き入れて、それから、毒入りのワインを飲んで……。
ああ、死ぬんだな、と思いながら意識をなくしたことまで思い出した。どうやら私はまだ、生きているらしい。毒の効果が小さく済んだのだろうか。
今私は暗い場所にいるようだ。でもここがどこだか分からない。遠くでかすかに誰かの怒鳴る声がする。
視線を辺りへ巡らすと、筋のような隙間から弱い光が漏れ出ている。恐る恐るそちらへ手を伸ばす。すぐに何かが手に触れた。服のような手触りだ。
さらに手を伸ばすと、硬い木材のようなものに触れる。ゆっくりと慎重に力を込めると、あっさりと開いて弱い光が差し込んだ。
注意深く顔を出す。そこは自分の部屋だった。私以外には、誰もいない。床にこぼしたワインのものであろうアルコールの匂いに混じって、わずかに何かが焦げるような臭いがした。
体も外へ出す。私がいたのは、隠し扉が無い普通のクローゼットの中だった。
私はぼんやりと状況を把握した。
――そっか。死んだ私の姿すら見ていたくなかったのね……。
それか、屋敷が燃える前に誰かが私を助けに来て、事態が早期に発覚するのを恐れたか。
だからあんなところに押し込められていたのだろう。でも彼は甘い。きちんと死んだことを確認しないから、こうして私が起きて自由に動き回ったりするのよ。
薬の効果が残っているのか、まだ少しぼんやりとして足がややふらつく。それでも十分動くことは出来そうだ。
先ほどから騒がしいのは、廊下の方からのようだった。
部屋の時計で時刻を確認する。ヴォルフを屋敷に入れてからあまり時間は経っておらず、せいぜい1時間程度だった。
もう襲撃は始まっているようだ。
ふと、彼の言葉を思い出した。
――今日、この後何があっても、俺のことを信じて待っていて欲しいんだ。
――頼むよ。俺を信じて。
どうして彼は、あんなことを。
もしかして、襲撃の間この部屋で待っていてくれということだったのだろうか。確かに、明らかにヴォルフの手によって隠されていただろうという場所に私はいたのだ。
胸はズキズキと痛んだ。
信じたい。でも――。
――俺はね、俺に媚を売るような女が一番嫌いなんだ。気持ち悪いんだよね。しかもあの男と同じ髪色で同じ目の色だろう? 余計に気持ちが悪くてさ。早く計画が完了すればいいのにと思っているよ。そうすれば、全員死んでくれる。
――あの娘、俺がこの手で殺すんだった。はは、今から楽しみだよ。
あの嘲るような声が耳に蘇る。
言葉通り、彼は私を殺した。殺して、心をずたずたに切り裂いて、そして打ち捨てた。
彼を信じられない。信じない方が傷つかずに済むと知っている。
左手の薬指にはめた指輪をそっとなぞる。
視界がにじみ始めた。私は指輪をゆっくりと外し、ランプの灯りにかざして、光を反射するアメジストをじっと眺める。
これは、持って行けない。
グラスが倒れたままになっている机の上に指輪を置いた。コト、と音が鳴った。
左の瞳から涙が一筋こぼれ落ちたことが分かったが、私はその初恋の残滓を乱暴に拭って顔を上げた。
ゆっくりとはしていられない。急がないと。
私はルイの格好をすることにした。ちょうど、私が隠されていたクローゼットの中に変装の道具はまとめて入れてある。
そこで私ははっとした。ヴォルフに変装道具を見られてはいないだろうか。
クローゼットを開け、愕然とする。これは、誤魔化しようがない。ルイの仮面はクローゼットを開けたらすぐ目に入る位置に置いてある。
しかし、見られたところでもうどうしようもない。私が計画を知っていて、彼らに加担していたことを知られたとしても、私はヴォルフにとって既に死んだ人間だ。彼と私の道はもう分かれた。再び交わることはないのだ。
手早く着替え、あらかじめまとめておいた旅行鞄を手に持った。
涙がもう一筋流れたが、一呼吸おき、また荒っぽく拭った。
護身用のナイフは取り出しやすい胸元へ。逃走用の目眩しもポケットへ忍ばせる。私はルイの仮面をつけ、廊下へ出た。
もう父親は殺されただろうか。
遅きに失したかもしれないと思いつつ、執務室へ足を向けた。
廊下を歩くと、レジスタンスで見かけた人物と数人すれ違った。ヴォルフは無事屋敷へ仲間を呼び込むことに成功していたようだ。
時折、逃げ惑う使用人たちも見かけた。レジスタンスのメンバーもそういう人々は見逃しているようで、特に追いかけたりなどはしていなかった。
屋敷で雇われていた護衛に関しては廊下の端で縛られたまま転がっているところを数回見かけた。
執務室の扉の前までようやく辿り着いた。薄く開いた扉の隙間から、父親をなじる多くの人の声とうめき声が聞こえる。やはり、ここだ。
私はその扉を開け放った。
まず私の瞳に刺さったのは、あのアメジストの槍だった。
血に濡れたナイフを持った彼の瞳は、私の姿を見て大きく見開かれた。苦い表情を浮かべた彼は、きっとルイの正体を知っている。
広い執務室は、普段の様子と全く違った。
引き倒された棚、荒らされた引き出し、割れたガラス。
他のレジスタンスの構成員と、地に這いつくばり体中から血を流す父親の姿。彼は後ろ手に縛られている。
クラウスが今まさに振り下ろそうとしていた、とでもいうようにナイフを高く掲げたままこちらを見ていた。
父親と同様に縛られた義母と異母兄の姿もあった。
誰もが、私を見ている。
「……ルイ?」
訝しげにクラウスが私に声を掛けるが、無視した。
全ての気力を失ったような顔で父親がこちらに視線だけ向けている。貴族らしい豪奢な服は切り裂かれ、切れたところには血が滲んで服を汚していた。見える肌は浅く深く幾筋も切り傷が走っている。
私は見せつけるように仮面を取り、帽子と鬘を脱いでまとめて右手の方へ放り捨てた。
「お父様。良い眺めね」
ふ、と嘲笑うように唇の端を歪めた。
一瞬の驚きの後、途端に燃え上がるような怒りの視線が私を貫いた。押さえつけられていた体は起き上がってこちらへ殴り掛かろうとするように力が込められ、弱り果てていたはずの男が血走った目で私を睨んだ。
「ルイーゼ……もしや、お前が……! お前が、こいつらの手引きをしたのか!!」
あたりへ唾を飛ばすように怒鳴った父親は、束の間その体を蝕む痛みも忘れたようだった。一度止血されたらしい傷口から鮮血が漏れ出し始める。
「ええ、そうよ」
私に寄って来ようとするレジスタンスの構成員に、近寄らないで、と取り出したナイフを向ける。彼らはたじろいで動きを止め、互いに顔を見合わせた。
私は全ての憎しみを込めて父親を見つめた。
この人数で制圧されれば私などひとたまりもないだろうが、気圧されたように周りの人たちは動かない。それを良いことに私は父親のところまでゆっくりと歩みを進めた。
「そう、お父様の仰る通り。私が、彼らを屋敷に引き入れる手伝いをしたのよ。私が直接手を下せなかったのは残念だったけれど、その傷じゃきっとものすごく痛むでしょう。痛くて苦しいわよね」
そう言って、私は父親の眼前にしゃがみ込んで目線を合わせた。ふふと笑う。
憎々しげにこちらを睨みつけ、言葉もない様子の父親。
ああ、なんて惨めなの。
溢れるような復讐の愉悦が腹の底から込み上げてくる。
私はその顎を掴み、鼻先まで顔を近づけた。
「母様はもっと苦しかったはずよ!! あんたが殺した、私の母様は!!!!」
私を睨んでいた父親が僅かにたじろいだのが分かった。
「許さない。死んでも許さない。ほら、周りを見て。私だけじゃないわ。あんたが撒いた憎しみの種はこんなにも多いの。みーんな、あんたを死ぬほど憎んでる」
嘲るように笑うと、私と全く同じ色をした瞳が揺れる。忌々しい、灰緑の瞳。
今まで悪逆非道の限りを尽くしてきた父親でも、いざ周りから憎しみを向けられるとなると思うところはあったのかもしれない。
しかし、もう遅い。
「な、何の話だ」
「とぼけたって無駄よ。元気だった母様が、あんなに急に体を壊して死んでしまうなんて変だったのよ。私欲のためだけに、あんたは母様を殺したんだ! 利用しようとした娘に復讐される気分はどう? さぞ悔しいでしょう」
「……っ!」
ギリギリと音がしそうなほど父親は歯を食いしばっている。
心が急激に冷え切っていくのを感じた。
あんなに憎かった父親が、無力にも縛られ切りつけられ、捲し立てる私に反論もできず無様に跪いている姿。
私は、これまでずっと、この姿を見たいと望んでいたはずなのに。
なぜこんなに虚しい気持ちになるのだろうか。
凍りついていたように動きを止めていた周囲の人々が徐々に身動きし始める。
「おい、ルイ……」
後ろから躊躇いがちにかけられた声に、振り返る。
クラウスが複雑そうな顔でこちらを見ていた。
「話の腰を折ってすまないが、ルイは、ルイーゼ・マルテンシュタインだということで合っているか」
私は一瞬言葉に詰まった。言葉は自然とルイに近い言葉遣いになった。
「……ああ、そうだよ。騙していて悪かった」
「いや、情報提供は感謝している。だが、正直に話してくれてもよかったんじゃないかとは思っている」
はは、と口から小さな笑いが漏れた。クラウスは眉を顰める。
「何がおかしい」
「いや、正直に言ったところで、私からの情報を君たちは信じてくれたかなと思ってさ」
「それは……」
クラウスは目線を落として口を噤んだ。
「君たちにとって、私は利用価値のある愚かな娘でしかなかっただろう」
「違う!」
別の方向から怒鳴るような声が耳を劈いた。
ああ、まただ。
アメジストの槍が、私を刺し貫いている。強い光が、私を打ちのめす。
「利用なんて、するつもりはなかった! 俺は……」
「ルイがルイーゼだって、知ってたと言いたいの?」
ヴォルフは口ごもり、何度か口を開け閉めして、それから頷いた。クラウスが驚いたように彼を見た。
「だから何? 今更それが何になるっていうの」
「俺なりに、君を守ろうとしたんだ。だから、言っただろう。何があっても俺を信じて待っていて欲しいって」
怒りの炎が燃え上がる。私は彼を睨みつけた。
「信じてですって? 誰が信じられるものですか」
せり上がってきた涙が決壊して、両の瞳からこぼれ落ちた。
これを言ったら、もう戻れない。
私は下唇を噛み、左手の指先をあらん限りの力で握り込んだ。嚙み締めた唇からは、血の味がした。
「私が、死ねばいいのにと思っていたくせに! 俺が殺すんだって言って、あなたは笑っていた! 一度も忘れたことなんてない。私じゃない恋人がいることだって知ってるわ。誰が……誰があんたのことなんて信じられるって言うの!! 毒入りワインで、あんたは私を確かに殺した。信じられるわけ、ないじゃない……!」
涙の膜の向こうに見えるヴォルフは、顔の色をなくして立ち尽くしている。
どうして。
なんでそんな顔をするの。
何か言ってよ。
否定して。
今はそんなこと思っていないと言って。
今更縋るようにそんなことを思った。
何も言わないままの彼を見て、私はただ涙を流し、目を伏せた。
もう、いい。十分だ。
私は這いつくばる父親を見やる。
怯えながらも怒りの色を浮かべて私を見つめる義母と義兄を一瞥し、私は踵を返した。
もう、すべてがどうでもよくなってしまった。
「さようなら」
足元に置いていた、少ない荷物を持ち上げる。
そのまま目を固く瞑って、隠し持っていた目眩しを投げた。
閃光が落ち着いても皆がうまく身動きを取れない隙をついて、隠し扉へ逃げ込んだ。この先は何度も通ったことのある通路だ。
扉を閉める前に一瞬、ヴォルフを見つめた。
彼は目を押さえてよろめきながら、私の名を呼んでいた。
もう、戻れない。私は一瞬ぎゅっと目を瞑り、決意を込めて大きく見開いた。
さよなら、初恋の人。
扉を閉めて、私は駆け出した。




