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11.襲撃(1)

 襲撃前夜。

 すっかり私物がなくなってしまった部屋を見て、私は臓腑に冷たくて重いものが詰め込まれているような気分がした。

 明日の襲撃の際、速やかに逃げられるよう、片手で持ち運べる小さめの鞄に最低限の着替えや日用品とありったけのお金を詰めてクローゼットの中に隠しておいた。もうこの部屋に残るのは、もともと屋敷にあった調度品だけ。必要に迫られて購入したドレスやアクセサリーなどは、もう不要なので売ってお金にした。こんなことをしてお金を集めて、横領と同じではないかと自分でも思う。あれだけ嫌っている父親と同じようなことをしている自分が醜く思えて、乾いた笑いが口から漏れた。


 私は部屋のソファに座り、机の上に置いた指輪をそっと手に取った。

 就寝前なので最低限に落とした照明の中でも、アメジストはきらりと光ってとても美しい。

 これだけはどうしても売れなかった。たとえ嘘で固めた関係だったとしても、わざわざ私の誕生日のために用意してくれたであろう贈り物だ。

 父親に見られては困るため、普段はチェーンを通して首にかけ、服の中に隠していた。

 明日、これをどうしようか。

 贈られた時に見た彼の心からの笑顔と共に、私にとって宝物になってしまった指輪だった。これを持って逃げたら未練ばかり残ってどうしようもなくなってしまうだろう。本当なら置いていくべきだ。

 明日、彼と顔を合わせてから考えよう。

 そう思って、私はそっと指輪を机の上に戻した。


 春になり日中は暖かいが、夜になるとまだ室内は冷え込む。

 冷たいベッドに潜り込むと、私は小さく身震いした。


 彼と私のそれぞれの運命は、明日で大きく変わる。

 震える体で寝具を引き寄せて包まるが、どうにも寝付けそうになかった。ぎゅっと目を瞑り、眠りが訪れるのを待ったが、結局寝付けたのは明け方になった頃だった。


 

* * * * *



「ルー」


 いつも通りのにこやかな笑顔で現れた彼は、今日はその手に黒い大きめの鞄を持っていた。

 毒入りワインの入った鞄だ。

 私の毒殺に使われる予定のものは確認済みだ。使用薬剤、何に混ぜてどのように飲ませるか。私に使われる薬物に関しては、あらかじめ拮抗薬といういわゆる解毒剤を手に入れてある。

 私はその鞄を一瞥して、歯の奥に挟み込んだ拮抗薬の丸薬を舌でそっとなぞった。そして彼と同じようににっこりと微笑んだ。


「こんばんは。今日をすっごく楽しみにしていたのよ」

「俺もだよ」


 作り物の笑顔は、しかしやや強張っているようにも見えた。気のせいだろうか。

 見上げる私の頭に、彼の手が乗った。慈しむように滑らせたその手はゆっくりと降り、冷たい私の頬に触れた。そのまま滑っていった同じ温度の指先は、名残惜しそうに顎から離れた。

 鼓動が速い。どう息を吸ったらいいか分からなくなって目を瞬かせた。

 ヴォルフの目の奥に見えるあの感情は何なのだろうか。私は左の薬指に嵌めたアメジストの指輪を軽く指先で撫でた。


「行こうか」


 囁くように言って、ヴォルフは私の腰に手を回してエスコートした。小さく頷いて、私も足を踏み出す。

 この先には、私にとっての戦場が待っている。

 鼓動はずっと速いままだった。


 屋敷の外にある隠し通路の出入り口は、屋敷の塀の外にある。塀の外には木立が立ち並び、そのうち1本の古い木の根元の(うろ)が出入り口になっている。私は虚の内側に簡単に取り付けてある板をどかし、周りの落ち葉を払い除けた。


「ここよ。狭いから気をつけて入ってね」

「ここが……これは気付かないな」


 そう言って彼は身を屈めて穴の中へ入っていく。穴から飛び降りると、子供なら身を屈めずに進めそうなくらいの広さの通路が奥まで通じているはずだ。

 私も板を穴の縁に立てかけ、穴の中へ飛び降りた。飛び降りた先の地面にランタンが置いてある。そのランタンにマッチで手早く火をつけると、土壁となっている通路の中がぼんやりと照らし出された。身長の高いヴォルフは頭が当たらないように腰を落としている。ランタンの揺れる光が彼のアメジストの瞳の中でゆらゆらと燃えていた。

 私は立てかけた板を元のように戻して通路が見えないようにした。

 ヴォルフの方へ向き直った瞬間、ぐいと引き寄せられた。


「ひゃ、……っ!」


 鼻腔に広がる彼のムスクの香りと、唇に感じる柔らかさで口付けられていることを知った。

 深く口付けられ、息継ぎがうまくできなくなる。

 体勢を保てず、後ろに倒れそうになってヴォルフの胸元を掴んだ。彼はそのまま覆い被さってきて、ゆっくりと地面に押し倒される。


「……ルイーゼ」

「っ、はぁっ」


 わずかな息継ぎの合間に、荒い息をつく。

 頭が沸騰しそうだった。急に、なぜ――。


「ルイーゼ」


 唇が離れる。至近距離にあるヴォルフの顔は淡く照らされ、ひどく美しかった。

 額を私の額につけ、目を閉じて彼は瞼を震わせた。

 

「頼みがあるんだ」


 そう言って、ヴォルフは私の左手に自らの右手を絡めた。薬指に嵌めている指輪をなぞられている感触があった。


「今日、この後何があっても、俺のことを信じて待っていて欲しいんだ」


 心臓がドクンと大きな音を立てた。

 彼は、何を言っている?


「どういうこと……?」


 首筋に顔を埋められた。吐息が耳元をくすぐる。


「詳しいことは、……言えない……でも、頼むよ。俺を信じて」


 その声は、まるで懇願するようだった。今にも泣きそうな声だ。

 私は混乱の淵に立たされた。こんなの、まるで今日この後起こることを私も当然知っているだろうと言わんばかりの口ぶりではないか。

 やはり、気付かれているのか。


「何を、言って」


 私の言葉を封じるように、彼に強く抱きしめられた。息もできないくらいの力強さだった。彼の体は震えていた。

 私は何も言えず、何もできずにただ抱きしめられていた。

 長い長い時間が経ったように思えた。

 突然体が解放され、腕を掴んで引き起こされた。

 ちゅ、と音を立てて額に口付けられる。


「行こうか。……君の部屋まで、案内してくれる?」

「……、ええ。行きましょう」


 底知れぬ不安だけが、心の中を埋めていた。



 

「ここが私の部屋よ」


 隠し通路からの出入り口となっているクローゼットまでヴォルフを案内した。クローゼットの扉を開けて彼を部屋に招き入れると、彼は一瞬物珍しそうに部屋を見回した。そして、憎々し気な表情を浮かべた。

 私は溜息をつきたいのを必死で我慢した。

 私の部屋は、豪華な調度品が多く置いてある。私物はもう無いが、それでも物置のように使われていたこの部屋には高価な家具や絵画などが多く残されていた。明かりをかなり落とし、やや暗い中でもそれはよく分かる。

 私も初めて屋敷を案内された時は驚いたものだった。


「……良い部屋だな」


 ぽつりと落とされた彼の言葉には、返事をしなかった。

 私は部屋の中へ足を進めた。今はベッド横の小さなランプにしか明かりを灯していない。薄暗い部屋を歩いて、テーブルまで案内した。


「そこのソファにかけてちょうだい」

「ああ」


 少し落ち着かない様子の彼は、持っていた鞄をテーブルに置いて豪奢なソファに腰掛けた。少し口の開いたその鞄からは、毒入りのワインの注ぎ口が見えている。

 いざ瓶を見ると、胸がずきりと痛む。今日、私はここで彼に殺される。そういう手はずになっている。

 彼も多少は良心が痛むのか、少し神妙な顔をしている。それとも、計画が上手くいくかどうか不安なだけだろうか。先程の彼の常にない様子が思い出された。


「どうしてそんな顔をしているのかしら? 私といるのは嫌?」


 軽くからかうように声を掛ける。彼は弾かれたように顔を上げ、眉を顰めた。


「そんなことはないさ。俺が来たくて来たんじゃないか」


 咎めるようにヴォルフは言う。

 ――まあ、そうよね。そういう計画だもの。


「そうだったわね。じゃあ、今夜は楽しみましょう?」

「ああ、そうだな」


 私が笑いかけると、彼も少し笑ってくれた。

 最後に見る顔くらい笑っていて欲しい。

 そう、今日が最後なのだ。

 私は彼の鞄を指さした。


「それ、ワインかしら? 用意してくれていたのね」

「なかなか良いワインだよ。せっかく君と初めて夜を過ごせるんだからと思って奮発したんだ」


 とろけるような笑顔を浮かべる彼。わざとらしいのは最初からだ。

 でも、あの時のような、彼の自然な笑顔を最後にもう一度見たかった。


 もう、終わらせよう。

 私と彼とは、これでおしまい。

 偽物の関係も、これで終わりだ。


 私は使用人がいなくなってからは部屋に置いたままにしていたワゴンまで歩いていった。そこにはワイングラスも置いてあったはずだ。

 2つのグラスを取り出し、手に持ってテーブルまで戻る。彼の横に座って、私は小首をかしげた。


「さあ、早くいただきましょう?」


 促すと、彼は少し躊躇ったような素振りを見せた。しかしすぐに手際よくワインを開栓すると、とぷとぷと2つのワイングラスに注いでいった。

 濃い紫色の液体で満たされていくグラス。ランプのささやかな灯りで照らされたグラスは嫌になるほど美しかった。

 この中には毒が入っている。私はじっとそれを眺めていた。

 上手くいくだろうか。解毒剤は舌先に触れる位置にきちんとある。後はこれを飲み込んでからワインを飲むだけだ。

 正直、毒を飲むのは少し怖い。解毒剤があるとはいえ、上手くいく保証はない。このまま私は死ぬかもしれない。

 それを覚悟の上だったが、やはり目の前にすると怖かった。

 注ぎ終わった彼が、ワインボトルをそっとテーブルに置く。私はそれをぼんやりと眺めていた。


「ルイーゼ」

「な、に……っ」


 急に名前を呼ばれたかと思うと、彼の手が私の後頭部に回り唇を奪われた。

 貪るような激しいキスだった。

 どうして、また。この段になってまで、彼には演技をする必要があるのか。

 息継ぎが分からなくなる。口内へ彼の舌が侵入してくる。

 ――それは駄目。解毒剤が……。

 私は無理矢理彼を引きはがし、口の中の解毒剤の存在に気付かれる前に慌てて解毒剤を飲み込んだ。

 なぜ、という視線を向ける。向けた先の彼の表情は、何か焦燥感にまみれたような顔だった。

 疑問に思う間もなく、またキスが落とされる。

 隠し通路の中でされた時よりも激しいキスに、次第に頭がぼんやりとしてきた。彼の舌が私の舌を吸い、湿った音が静かな部屋に響く。


「ルイーゼ」


 熱の籠った声が私の名を呼んだ。

 どうして。どうして。

 胸の中に激情が渦巻いた。

 こんなこと、やめて欲しい。決心が鈍ってしまうじゃないか。


 涙がこみあげてくるような感覚があって、私は息継ぎの合間に慌てて体を離した。

 俯いてじっとしていると、その感覚が徐々に収まってくる。その間も彼の手は私の体を抱いていた。

 分からない。なんでこんなことをするの。

 決心が鈍る前に、私はワインを飲んでしまうことにした。


 目の端に涙を溜めたまま、彼を見上げた。泣くのを堪えて自分の唇がわななくのを感じた。

 取り繕えない。でももういいだろう。あとはワインを飲むだけなのだから。

 構わず私は彼の首に手を回し、軽く触れるような口づけをした。

 滲む視界の中、薄く彼へと微笑みかける。

 これが、彼との最後のキス。

 ――どうか、どうかせめて、彼の記憶の中に、欠片だけでも私の記憶が残ってくれますように。


「……喉が渇いたわ。先にワイン、いただくわね」


 私はテーブルの上のワイングラスを行儀など気にせず掴み、口の中へ流し込んだ。あまり多くは飲まないよう、少しだけにしてワイングラスをテーブルに戻す。

 鼻に抜けるアルコールのきつい香りと、喉の奥に感じる苦み。


 彼の顔を見ると、なぜか悲しそうな顔をしていた。

 そんな彼の顔は見たくない。最後は、あんなふうに笑っていて欲しかったのに。

 ――いいじゃない、親の仇でしょう。私が死んで、嬉しいでしょう?

 どうしてそんな、悲し気な顔をするの。笑ってよ。


 私は少々やけっぱちな気持ちになりながらも、毒が効き始めた振りをした。苦しむ素振りを見せ、床に倒れ込む。その隙に、テーブルの上にあった残りのワインを全て倒して床へこぼした。

 目を閉じた。彼が今、どんな顔をしているかは分からない。

 けれど、彼が慌てもせずそのままソファに座っていることは分かった。それに少し胸が痛んだ。


 私は床に倒れ込んだまま、じっとしていた。

 すると、なぜかじわじわと体を蝕む眠気がやってきた。

 ――どうして。解毒剤は必要量飲んだはず。もしかして、ワインに含まれていた毒の量が想定以上に多かった……?

 四肢が動かなくなっていく。靄がかかるように、思考もどんどん鈍くなる。

 そうか、死ぬのか……。私は失敗したんだ。


 闇に落ちていく意識の中、不意に体を抱き上げられるような感覚があった。ふわりと香る、ヴォルフの匂い。

 名前を呼ばれた気がした。

 母様が呼んでいるのかな。


 意識が融けていく。遠くへ、遠くへ……。


 ルイーゼ。


 なぁに、母様。


 ルイーゼ……。


 私も、すぐにそっちへ行きます、母様。

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